第57話 幻想即興曲 9

「ご馳走様でした……」


 空腹は最高の調味料だと、食事を終えた葵の君は改めて確信したが、あまりの寒さに塗籠ぬりごめの中にあった布団を広げて、隙間に滑り込む。


『本当にウトウトしていたみたい』


 それからしばらくして葵の君は、あきれ顔の中務卿なかつかさきょうに優しく揺り動かされて目を覚まし、少しの説明を受け、念のために檜扇で顔を隠して、いま一度、元の畳の上に戻る。


 降ろされた御簾の向こうには、見知った陰陽師たちと、朝に見た武官がひとり。彼には、「さる貴族の家に勤める“女童めわら”」と中務卿なかつかさきょうに、御簾越しに紹介される。


 自分で言いだしておいてなんだけど、信じてもらえてないみたい。視線が痛い。


 先程の中務卿なかつかさきょうの説明によると、彼は検非違使けびいしの別当で、名ばかりの高官たちに代わり、兵部省、六衛府などの軍事、警察部門を、常日頃は実質的にまとめている有能な人物らしい。


 しかし、今回の妹君を差し出すような囮作戦には、いくら天下国家のためとはいえ、それが実の兄のすることかと、実家からは妹君に、なにかあれば、縁を切るともいわれているそうな。


 そりゃそうだよね、箱入り娘というか、寝殿入り娘の妹君を囮に使うなんて、なにを考えてるんだろうと、わたしでも思う。


 残念ながら葵の君は、自分も同じ目で見られていることには、まったく頭が回らなかった。


 檜扇を少し目の下までずらして、御簾越しに彼の顔を確かめる。


 年の頃は二十歳前後、武官ながらも温和な顔立ちの青年だ。文武両道の生活に必死だったとはいえ、気楽な学生だった前世の自分と違い、目の前の同じ年頃の彼は、なんと重い役を担っているのだろうかと、葵の君は素直に感心する。


 この世界にきてから、そういった面では感心しっぱなしだ。


 確か平安時代の武官って、トップになっても名誉職と言うか、閑職扱いだったはず。


 彼を目にして武官が重要視されていないのは、待遇だけではなく収入面もあることが見て取れた。


 自分が見慣れている父君を始め、左大臣家に出入りする、いわゆる文官上流貴族とは違い、彼は清潔ながらも、かなり質素な生地で仕立てられた狩衣かりぎぬを着ている。


 武官のトップに近い彼がこの様子では、多分というか、絶対に文官より武官の方が収入は低そうだ。


『危険手当の概念はないのか?!』


 こんなかたよったまつりごとしてれば、そりゃあ、いずれは武門をつかさどる貴族は姿を消し、最後は武士に押し負けしますよね――。


 一生懸命に勤めても報われないなんて、やってられないのが当たり前だ。そして京の貴族の大半は、自分たちは前世の行いがよかったから、高貴な身分に生まれて、栄誉栄華に身を浸していても、周囲の人間はひれ伏して当然。


 とか、思っているんだってさ! 中務卿なかつかさきょうをはじめ、こうして第一線を支えてくれている人のお陰なのに。


「馬鹿みたいだ」と、葵の君は思った。


 そんな別当は、「さる貴族の家に勤める“女童めわら”」と、御簾越しに紹介された女君に、もちろん「そんな訳ないだろう」と思い、御簾越しながらも、無遠慮な視線を向けてしまったが、そこはあえて追及しなかった。


 自分の妹君が囮に成らずに済むのであるから。


 今日、ここを訪れたのは、日頃の個人的なつき合いのある、中務卿なかつかさきょうの武芸の腕を見込んで、無理を承知で作戦への参加を願いにきたのだが、彼の隣に座している女君が、代わりを務めてくれると聞いて、喜ばしいながらも驚きは隠せない。


 実は女君は中務卿なかつかさきょうの近しい血縁かなにかで、彼と同様に武芸を修めているのだろうか?


「……埒もない」


 自分の頭に浮かんだ途方もない話に、別当は独り言を呟く。


 実のところ、かなり正解に近かったが、時代的に姫君が武芸など、たしなむ訳がなかったので、即座に否定した彼の考えは常識的だった。


 そして、中務卿なかつかさきょうが続いて言い出した、越権行為ともいえる今回の囮作戦の指揮権譲渡の要求には、さすがに躊躇ちゅうちょしたが、妹君の命と引き換えに近い条件なれば、そのくらいは、いたし方なしと考える。


 地方遠征の例を挙げても、常日頃より中務卿なかつかさきょうが、役に立たない他の高官たちよりも、なにかにつけて、自分たちに気を配り配慮をしてくれている事実も、彼を信頼して動くことに決めた、大きな要素のひとつだった。


 名も知らぬ女君に、深い感謝を伝え、打ち合わせ通りにことを運ぶべく、彼は内裏に戻る。


 事件追及にも我関せずと、帰ろうとしていた、それぞれの上層部の曹司を訪れ、勝手に官印を書類に押して回る。


 彼らはいつもの通り、よきに計らえといって、別当に事件は丸投げであった。


 そのあとは、内々に各部署の信頼のおける者にのみ声をかけて、おこたりなく準備を進める。


 中務卿なかつかさきょうは、別当から入手した情報と作戦を元に、日頃から懇意こんいにしている、武芸に秀でた貴族たちのやかたにも文使いを送る。


 もちろん事件への内密の協力は、快諾の返事しかなかった。翌日から内裏では武芸において、名の通った武官や文官たちが、相次いで物忌みなどにより、長期の欠勤届けが出してゆく。


「おや、次のさくの月(新月)の日の前後は、随分と物忌みが重なっておりますな」

「まあ、こればかりは仕方ございませんね」

「物忌みは仕方ございません」


 内裏の出勤管理をする部署では、そんなやり取りのあと、事務的に彼らの欠勤の日を、別の殿上人に振り替えていた。


 犯人を追い詰める網は、囮となる葵の君の存在と、彼女を庇護する中務卿なかつかさきょうの隠れ持つ、影の一大派閥ともいえる『軍事貴族』たちの協力により、急激に強化された網になり絞り込まれる。


 ただ、葵の君が知らなかったのは、中務卿なかつかさきょうの徹底した、最優先事項の指示。


『囮となる女童めわらの保護と、京の門外での犯人の即時処分』


 これはもしも犯人が生き残った場合、のちほどの裁きの場に囮となった姫君が、証言を求められるなどないようにとの、中務卿なかつかさきょうの冷静で現実的な配慮だったが、犯人に対して正義の鉄槌を下すために、“ラスコーリニコフの理論”をリスペクトした処刑を望む彼女が知れば、生け捕りを強硬に主張したであろう。


 が、生憎と彼女は碁盤の目のような京の地図を片手に、当日のルートと犯人の行動予測、及び脱出経路の把握を、記憶することに忙しく、そこまでは把握できなかった。


御神刀ごしんとうは持って行きますか?」

「………」


 背負って行けとでもいうの? 背中からの抜刀術なんて、知らないんですけど? そもそも居合を習っていた訳ではないから、中務卿なかつかさきょうのように、素早く抜刀なんてできないし、木刀しか、稽古もしたことないし。


 葵の君は、そんなことを考えながら、自分にそう問いかけた“六”を、平たい目で見上げたが、彼の真剣な眼差しに、真面目な質問だったのかと気を取りなおし、「真白の陰陽師の皆様とご一緒なれば置いてゆきます」と、丁寧に返事をした。


「では帰りに乗り込む牛車に積んでおきますね」

「ええ、そうして下さい」


 そう答えて再び地図に目を落とす。長い髪がサラリと地図にこぼれ、雪のように白い頬は、内心の興奮を表すかのごとく、少し紅潮し、ほんのりとした赤みがさしていた。


 桜色の爪が乗っている小さな人差し指で、ルートをたどる。朱雀大路から羅城門の前を曲がって、東寺に向かって歩く。この東寺と左京の端の間で、事件が集中しているらしい。


『犯人が出てきたら、一撃、それから回避して離脱。一番近い小路を左に曲がり、東市に向かって逃げる……』


 方向音痴の葵の君は、頭の中で「左に二回」そう繰り返す。


 実行日はいままでの死体発見日と、最後の凍りついた被害者から、検非違使けびいしの別当が逆算して割り出したさくの月の夕方から夜にかけて。


 葵の君は用意してもらった対丈の袴や衣装を、自分を式神と思い込んでいる、中務卿なかつかさきょうの年老いた乳母に着付けをしてもらい、目立たない質素な牛車に乗りこむ。


 朱雀大路に面した羅城門から近い東鴻臚館ひがしこうろかん(貿易施設)のあたりで、牛車を降りようとした葵の君は、足元に置かれている靴をじっと見つめていた。


(これはどうなんだろう?)


 用意されている『くつ』と呼ばれている『靴』は、浅沓あさぐつという木でできた漆塗りの品で、「こんなカポカポしたのを履いていたら逆に歩きにくくない?」そんなことを思ったが、ほかに履く物もないので、顔を隠すためのころも被衣かづきを頭にかけ、気を取り直してくつを履いて歩き出す。


 これ、牛若丸が被っていたヤツだ!


 彼女が被衣かづきに思い出したのは、子供の頃に絵本で見た牛若丸だった。


 ひんやりとした一陣の風に、被衣かづきが一瞬ひるがえり、空を泳ぎ、寒さのせいか鳥肌が立つ。


 夕闇が迫る中、ゆるゆると顔が見えぬように、被衣かづきを頭にかけた、女童めわらに扮した葵の君は、京の外れの羅城門の前をひっそりと歩く。


 灯りの貴重な時代、黄昏たそがれ時も終わりに近づき、夜が訪れるのを恐れるように、朱雀大路の往来を行く人々は、あっという間に姿を消した。気が付くと彼女はひとりでみちを歩いている。


 上空を陰陽師おんみょうじが放った、からす蝙蝠こうもりの形を模した式神が、夕闇と宵闇の境を密かに、自然な様子で飛びかう。


 分散し、数日かけて羅城門の上階に忍んでいた名の知れた射手たちが、夕闇に紛れて弓を手に、黒い影となりひとり、またひとりと立ち上がってゆく。


 門外には既に、多数の武装した武官や侍たちが密かに配置されていた。


 羅城門の向かいには昼間のちょっとした騒動で、車輪が外れかかってしまい、みちの端に乗り捨てられた、牛のいない牛車がポツリ。


 少し緊張した表情の葵の君が、前をゆっくりと通り過ぎ遠ざかってゆく。


 やがて葵の君が、見えてきた大きなやかたに、たどりつこうとする直前、柴垣(芝木を編んで作った垣根)と背の低い枝木の影から、突然、腕が伸び、彼女は現れた黒い影に、うしろから抱え込まれそうになる。


「!!!!」


 驚きのあまり被衣かづきが手を離れ、ふわりと空を舞った。


 葵の君は、恐ろしさに心拍数が跳ね上がったが、反射的に、前世で幼い頃から体で覚えた体捌きを見せ、抱え込まれる寸前に、影の脇からうしろに下がり、捕まる寸前に難を逃れる。


 再び構え直して、短刀を手に突進してきた影の右腕に、瞬時に体を添わせ体を反転させると、相手の勢いを利用して、手首に逆関節をかけて投げ技を決め、路傍に大きな影を投げ飛ばそうとし、それは実際に成功するように見えた。


『決まった!!』


 葵の君は勝利を確信するが、その時、自分の足元がグラリと傾いて、いきなり地面に体ごと叩きつけられる。


「ああっ!」


 急激な身体の反転に、木でできたくつは勢いについてゆけず、片方が脱げ、バランスを失った彼女は、砂ぼこりが立ち込める地面に倒れ込んでいた。


 再び体勢を整えた黒い影が、葵の君に襲いかかろうとし、彼女は最後の抵抗とばかりに、脱げたくつを投げようと、腕を振り上げようと思うが、あまりの恐怖に、倒れた姿勢で影を見ていることしかできなかった。


『神様!』


 信じてもいない神頼みをしたその瞬間、壊れた牛車のあたりから、ひゅうと、音を立てて飛んできた矢が、陰の右肩辺りに深く突き刺さる。


 すると陰からは、低い獣のようなうめき声が漏れ、短刀は地面に、ぼとりと落ちた。


 葵の君は、呪縛がとけたように、ぱっと立ち上がると、裸足のままで道を走り出し、彼女と影の距離が完全に離れると同時に、羅城門から影に向かって矢が降り注ぎ、合図の笛の音が辺り一帯に鳴り響く。


 降り注ぐ矢を目の端に捉えた葵の君は、ひたすら左の路を七条大路に向かって、息を切らせながら一気に走った。


 元結もとゆいでひとつに結わえられていた長い黒髪は、いつの間にか紐が切れ、彼女のうしろで、長い黒髪が風にたなびいている。


 どれくらい走ったんだろう?


 短かったのかもしれないし、遠かったのかもしれない。大路はまだ見えない。本当に牛車までたどりつけるんだろうか? 不安の雲が胸中に、どんどん大きく広がってゆく。


「こちらに!」


 その時、聞き慣れた声が耳に入り、気がつくと馬に乗って現れた中務卿なかつかさきょうに、いきなり馬上に抱き抱え上げられていた。


 体を支配する恐怖が安堵に変わり、不安の雲が掻き消えた彼女は、彼の首に小さな手を精一杯伸ばして強くしがみつく。彼女の『神/アイドル』は、彼女にとって比喩ではなく、本当に救世主であった。


 砂だらけの葵の君は、あっという間に牛車にたどりつき、馬上から中にいた“六”に手渡され、牛車の中に素早く引き込まれた。


「もう大丈夫です」

「あ、ありがとうございます」

「よくぞご無事で」

「ありがとうございます……」


 牛車の中には、あとから乗り込んできた中務卿なかつかさきょうと、涙目の葵の君、そして心配顔の“六”。


 葵の君は、自分を気遣う優しい言葉を聞きながら、恐怖で泣き出しそうな気持をぐっと我慢する。自分の蒔いた種なのだから、そう思った。彼女が乗せられた牛車は一路、左大臣家に向かう。


 その頃、連続殺人事件の犯人は、矢傷を負いながら、闇に紛れて京の外に続く東の門に足を向けていた。


 葵の君が姿を消したのを確認した、四人の陰陽師たちの九字を切る大きな声が響き渡り、あたり一面が花火でも上がったかのように、煌々こうこうとした光に照らされた。


 現場に控えていた武官や侍たちも、その呪術のもたらした光に驚きつつ、影を血眼になって探す。「今夜、取り逃がしたら、機会は二度とないと思え!」それが別当の放っていた言葉であった。


「あそこに!」

「あとを追え!!」


 闇に紛れて、小さな門を潜り抜けようとしていた影は、灯りに照らし出され発見される。照らし出されたその姿は、みのを被り肩に矢の刺さった、恐ろし気な山賊のような男。


 男は、なんとか東の門をくぐり抜け、空き地を進み、そのまま脇にあった、高く生い茂ったくさむらに逃げ込み、一瞬、姿が掻き消える。


 そこに検非違使けびいしの別当が馬に乗って駆けつけた。


 いくら陰陽師おんみょうじの灯りがあるとはいえ、くさむらに逃げ込んだ犯人を捜すのは困難に思えたが、彼はかねてより手配をし、ワザと一部分だけくさむらを残したまま、周囲の草を刈り取らせ、くさむらには油を撒いていたのである。


「火を放て!!」


 犯人が奥に突き進んだのを見て、彼の号令と共に、あらかじめ油が撒かれていたくさむらに、四方八方から火矢が放たれた。くさむらは、巨大な火柱が上がったように燃え上がってゆく。中からは驚いた鳥たちが、やみくもに夜空に飛び立っていった。


 丸焦げになった死体が見つかったのは、翌朝のことである。

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