第71話 裳着と宴 2

〈 左大臣家/東の対 〉


『眩しくて目が潰れそう!!』


 自分の“正調十二単”といえる、唐衣からぎぬ十二単じゅうにひとえを目にした時、葵の君はそんな感想を抱いていた。


 女房たちは心得顔で大宮の差配にしたがい、姫君に化粧を施すと手慣れた様子で、姫君に唐衣からぎぬを着付けてゆく。


 紅色の単衣ひとえの袴に極淡い桜色の単衣、その上に、紅梅、二藍ふたあい今様いまよう石楠花しゃくなげ、さまざまな濃淡や色を見せる、ピンクの花弁はなびらかさなりあったようなうちぎを、幾重にもかさねてゆき、桃色の唐衣からぎぬをそっとまとわせる。


 十二単じゅうにひとえと言いながら、姫君のかさねの枚数は、実に二十枚近くもあった。(薄手とはいえこれを着て優雅に振るまえたのは、葵の君の体力のなせる技である。)


 一番上の表着おもてぎは本来であれば、厚手の二陪織物ふたえおりもの、地紋の上に上紋うわもんを織り出した生地を使用するが、葵の君の表着おもてぎは夏用の薄い生絹(オーガンジーのような柔らかで透明感のある絹)を、あえてあわせ(二重)に仕立てて、柔らかさと可憐さを表現していた。


 下の生地には極薄い杜若かきつばた色、地紋のかわりに、細かな菱紋の両面刺繍(表も裏も同じに見える刺繍)が施されている。


 表地は紅梅色の生絹。こちらには、白の刺繍糸の小葵模様の両面刺繍、返した色の部分は、差し色として若葉わかば色の透け感の無い絹の単衣に、華やかな色合いで、現代の振袖にあしらわれる半襟に見られるような意匠デザインで、優雅な鳳凰や桜、吉祥文様がぎっしりと刺繍された品。


 なにより目を引くのは、表着おもてぎうちぎの間の打衣うちぎぬで、幾重にもかさなりあった、花弁のようなうちぎの一番上、短い表着おもてぎの下から、その華やかな仕立てが見えていた。


 打衣うちぎぬは虹色の生地に、金糸で美しい花紋の刺繍、よく目立つ袖や衣の下半分には、朝露のように大小の煌めく金剛石ダイヤモンドが、それぞれの模様にそって、華やかに縫い留められている。


「姫君が月に帰ってしまわないかと心配になります」


 紫苑が思わず、かぐや姫を想像して言葉を漏らし、周囲はもっともだとうなずいていた。


 葵の君が一生懸命に説明をしていた『オーガンジーと総レースの和洋折衷の打掛姿』は、母君と国内でも最高峰の左大臣家の裁縫部のみんなの努力が結集し、平安の世に『薄衣うすぎぬあわせに総刺繍、そしてぎょく(宝石)があしらわれた十二単じゅうにひとえ』として、生み出されていた。


 ウェディングドレスの長いトレーンのように、うしろに長く広がる『』の腰板に当たる部分にも、金剛石ダイヤモンド柘榴石ガーネット紅水晶ローズクォーツをあしらい、豪華な刺繍で縁どられ、儀式に備えて黒い漆塗りの乱れ箱と呼ばれる、衣を入れるための箱に、綺麗に収まっている。


 高雅な感性を持つ母君が仕立てられた、誰も見たことのない、天女の衣のように(見た目が)軽やかで、それでいて豪奢な十二単じゅうにひとえは、華やかな顔立ちの姫君に、とてもよく似合い、母君は満足げにほほえんだ。


 摂関家とはいえ、さすがに内親王でもない、葵の君の頭上にかんむりはなかったが、姫君の後頭部、背中に夜の滝のように流れる、長く美しい黒髪の上には葵の君が提案した、大粒の桃色金剛石ピンクダイヤモンドを金の台座の上でつなぎ、唐花のように細工された、現代でいうところの『バックカチューシャ』が飾られていた。


 誰も見たことがなかった、逆さになったティアラのように豪奢な髪飾りが、華麗に彼女のうしろ姿を引き立てている。


「どうですか? どこかおかしくないですか?」


 ひかえめに白粉おしろいを塗り、紅を差した葵の君は、何度も何度も、母君に確かめていた。


「大丈夫、貴女あなたは“世界で一番”美しい姫君ですよ」


 初めての化粧と十二単じゅうにひとえに、とまどっている愛らしい姫君を、周りの女房たちも忙しく立ち振る舞いながら、ほほえましく見守る。


 葵の君は裳着もぎも緊張していたが、久しぶりに中務卿なかつかさきょうに会えるので、そちらの方が緊張していた。(“世界で一番”とか、褒めすぎだと思うけど、子供の頃の母君にソックリらしいから、可愛いには違いない! 果報は寝てまて、あと三年待っていてね!)


 母屋と寝殿では、すでにうたげがはじまり、盛り上がりをみせていたが、東の対は裳着もぎの儀式を執りおこなうために、母君をはじめ摂関家の内々の家族と、大勢の女房が控える、厳かな雰囲気であった。


 葵の君は鏡に向かって両手をあわせる。そこに映るのは、いまの自分であり、元の葵の君が、そうなったであろう顔。


 ひとり、心の中で、元の葵の君に挨拶を済ませた。


 やがて儀式ははじまり、先導の女房にみちびかれ、しゃくを手にした中務卿なかつかさきょうが夜の春風と共に、東の対に用意された披露目の間にあらわれる。


 呂色ろいろの深く美しい黒のかんむりと、色を合わせた同じく呂色ろいろ二陪織物ふたえおりものの束帯姿。柄ゆきは、ほぼ同じ色目の光沢のある糸で織り込まれた、有職文様ゆうそくもんようの仕立て。うしろに長く引く下かさねの裏地は、うっすらと地模様が光沢を放つ滅紫けしむらさき色。


 腰に下がった飾り太刀は、紫黒色の鮫革のさや、目貫などの細部には金で龍の装飾。文官が身につける飾り太刀は、その名の通り儀礼用の装飾品で、抜くこともないゆえに、竹光であることがほとんどだが、彼は常日頃から本物の刀身を入れているため、太刀は腰に重々しく下がっていた。


 腰に結ばれた石帯せきたいの飾りは濃い蒼玉サファイアで、長身の彼を引き立てる都雅とがな装束は、花の女神のような今夜の姫君に引けを取らない、誰よりも凛々しく見えるいでたちで、首筋に見える蛇が這うような火傷のあとがなければ、誰もが惚れぼれとする存在であろうと、欠けるところのない美を心から尊ぶ、極平凡な平安人である左大臣は内心、彼のけがれ(火傷のあと)を残念に思った。


 もちろん父君の感想など知ったことではない、その日の中務卿なかつかさきょうを目にした葵の君は、おしとやかに振る舞いつつ、心の中でその日、二度目の絶叫を上げていた。


『眩しくて目が潰れそう! 超カッコイイ!』


 葵の君が中務卿なかつかさきょうを、素知らぬ顔で凝視し続けている間も、儀式はつつがなく進行し、終盤を迎える。


 関白と左大臣が、葵の君の左右にある畳に腰をかけ、母君である大宮が葵の君の前につき添う。儀式にのっとり極暗い灯りだけの大広間の御簾みす内で、葵の君のうしろに回った中務卿なかつかさきょうは、女房に手渡された『』を、葵の君の腰にあてた。


 大宮が葵の君の前で、引腰ひきごしを結び、『』を姫君の腰に結わえる。そうして、ようやく無事に姫君は、“正調十二単”といえる、完成された裳唐衣もからぎぬ姿になり、陰陽師たちの祝詞のりとと共に、未だ十歳になったばかりではあるが、さまざまな思惑が入り乱れる中、晴れて“成人式”を終えたのであった。


『まあ本当に、実は二十歳なんだけどね!』


 そんな葵の君の内心はいざ知らず、周囲の大人たちは、いつかは“日の元に舞い降りた輝ける内親王”と呼ばれた母君を凌駕する、そんな予感を、無事に裳着の儀式を終えた姫君に抱く。


 側にずらりと控えていた女房たちからも、一斉に祝いの言葉がかけられ、年老いて立ち上がれない女房と紫苑は、相変わらず姫君を拝んでいたし、父君である左大臣は感涙の余り、袖を涙で濡らしていた。


 唐衣からぎぬをまとった姫君は、まるで幼き『木花開耶姫このはなさくやひめ(※美貌で知られる日本神話の女神)姫君が上げた袖の口から花々が生まれ、こぼれゆき、空に薫り立つかの如く……』中務卿なかつかさきょうは柄にもなく、内心そんな感想を抱いていた。


 うっすらと化粧を施された姫君は、ほんの数か月前、日が沈んだ京の街で息を切らせて走り、自分が救い上げた日が、遥か遠い昔にでもなったように、とても十歳とは思えぬほど、大人びた美しさを持ち合わせていた。


 いつの日か姫君と、天香桂花てんこうけいかの君が重なる未来を想像し、せんなきことと無意識に己を戒める。無邪気にきらめく笑顔が尊く眩しかった。


「姫君の先々を思えば、心配も多いことですが……」


 怨霊のこと、帝のこと、尚侍ないしのかみのこと……母君の心配は尽きなかったが、ひとまずは裳着もぎを終え、成人となった姫君に感慨無量であった。


「申し訳ありません、仕立てて頂いている間に、どんどん背が伸びてしまい……」

「まあ、そんなことを言っているのではありません」


 母君は困った顔でたしなめながらも、あえて場を和ますために、そんな発言をした姫君に笑顔を見せる。


「姫君が無事に大きくなられるのは、祝着しゅうちゃくにございます」


 腰結役こしゆいやくという大役を、無事に終えた中務卿なかつかさきょうは、伏し目がちなままに口を開いた。


 葵の君は、それだけでも満足した。(前回の件は水に流してもらえた様子! セーフ!)


 葵の君は、『大人っぽくなった』と『大きくなった』を混同して、これからも毎日牛乳を飲もうと思っていた。(お祝いに牛ももらったし!)


 儀式を無事に終え、慣例により摂関家の当主である関白と姫君、そして腰結役こしゆいやくである、中務卿なかつかさきょうの三人を残して、他の家族はその場を下がる。女房たちも三人の前に用意された膳の上の盃に酒を用意すると、部屋をあとにした。


 広々とした広間の御簾内に、灯りがひとつ、人影がみっつ。

 本来であれば、当主と姫君が後見人に対して、礼を述べ、盃を交わす、そんな儀礼的な時間は、姫君が持ち出した話によって、思いもかけない展開となった。

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