第72話 裳着と宴 3
姫君の出仕に関して、内々の話をできるのは、今夜が最後だと判断していた彼は、出仕に対しての最終調整や、今後の怨霊対策などの実務的な話を関白にテキパキと告げ、姫君に対しても参内してからも、安心できるように、緊急の連絡手段などを話す。
関白は脇息にもたれるのをやめて、そんな気づかいのできる彼に、改めて向きなおった。
内裏に復帰後、薄々は分かっていたが、
『前世の行いが今生の報い』と、ことさら外見と生まれを重視する時代、内親王であった大宮を助けたがために、火傷を負った彼を、あからさまにはしないが、ほとんどの者は内心どこか蔑視していたが、関白は、もし『前世の行いが今生の報い』それが本当であれば、彼の来世はいまよりも、恵まれたものであろう、彼の行いは正しいと考えられる、数少ない存在のひとりであった。
だからこそ、大宮の無理押しとも言える、彼の『
その時は内親王に降嫁してもらうためとの気持ちの方が大きかったが、いまになると、葵の君が摂関家に生まれ、知性と美貌を兼ね備えながらも、関白である自分が引退し、なんなれば身罷ったあとに残るのが、頼りない年かさの父親と、他家に婿入りした兄君という最悪の場合、女御として入内し、皇子を産んだとしても、心配が残る姫君にとって、あの時の差配は天啓であったと思え、
「
「返礼のご心配は無用にて。いま、この地位に就いていることそれ自体が、いわば多すぎる前払いでございましょう。もちろん大宮の姫君なれば、わたくしにできる精一杯の後見は、当然にございます」
関白の意を正しく汲んだ、
摂関家の力は強大なれど、時間がもたらす“老い”だけは、さすがに回避はできない。左大臣と姫君の間には、丸々、一世代の空白があり、先を見通す関白の心配は当然だと、彼は思いいたる。
そして、そんな自分を思う二人のやり取りを、横で聞くともなく聞いていた葵の君は、『実の娘』と言う言葉に、『中身は二十歳ですから! 二人分の人生を足せば
『大人の第一歩とはいえ、
膳の上に、一気にカラにした
今夜は思い切って、関白である御祖父君と
『未来から転生しました』とか、『未来が見えます』とか、そんなことを言えば、さすがに寺に入れられるだろうけれど、怨霊が飛び交い虚実が入り混じる、この平安時代。夢の話だと言えば、丸っと信じてはもらえないだろうが、少なくとも話半分には聞いてもらえるかもと思いついたのだ。(まあ、二人とも、この時代にしては、現実主義者だから、あまり期待はできないけどね!)
『わたくしを、わたくしの代わりにわたくしを……みんなを救って………』
元の葵の君も、自分自身と家族の救済を願っていた。自分のハッピーエンドはもちろん、きちんとその約束も覚えている。
一歩引いて考えるに、『摂関家/家族』の繁栄と、皇籍である『光源氏』自身と子孫の繁栄は、決して並び立つものではない。
彼の台頭は、貴族の頂点に立つ『摂関家/家族』にとっても、邪魔としか言いようがないのは、明白な事実であった。(現実の平安時代の摂関家の没落も、たしか外戚としての地位が、維持できなくなったことが、大きな要因のひとつだった記憶が……。)
それもあって、今現在の当主である『歴代で最も有能な関白』の御祖父君ならば、効果的な話だと思ったのだ。未来のライバルである兄君も、出世しても出世しても、なにをしても、あと一歩が及ばない記憶が……。(残念ながら、人を顔でしか判断できない父君には、はじめから政治的な期待はできない。)
それに、この世界を知れば知るほど、おかしなことがあった。もちろん自分は文学少女ではなかったので、物語全体を把握はしていないが、この『源氏物語前史』とでも言える世界は、大きくおかしい箇所がみっつ。
もちろんひとつ目は『
彼女は光源氏が三歳の時に亡くなっているはずが、今現在も後宮で后妃として、
ふたつ目は、『世の中の乱れ』
桐壺帝が治めていた世の中は、その律令国家の弊害が、少なくとも表立っては現れず、趣味と女に生きる光源氏が安穏と出世できるくらいに、まだまだ貴族は我が世の春を送っていたはずなのに、今現在の状況は、すでに小規模とはいえ、地方の飢饉や反乱の影響が、京の都にまで影響が及んで、貴族も半分とまではいかないが、かなりの危機感を持って、
みっつ目は、『葵の君の死亡』
もし自分がいまここに存在せず、元の葵の君が、そのまま身罷っていた場合、少なくとも“夕霧”は生まれず、わたしの今現在の意思に関わらず、源氏物語自体の大きな話の流れのひとつが崩れる。
なによりひとつ目と、ふたつ目の関連性が、非常に気になっていた。
ただの平安時代ではなく、陰陽師や怨霊が“本物”の力を持つ、『源氏物語絵巻』の世界にとって、国家にとって『帝』という存在の『徳』は、品性などと言う精神的な意味ではなく、『神』からもたらされた『物理的加護』、『国を護る神聖なる力』的な意味合いが強い印象だ。
『葵の上』という
であれば、益々もって自分が『光源氏』と結婚しても、自分にとっても、摂関家(家族)にとっても、無意味なのだ。(でしょ?)
恨み? を捨てて、どう大目に見積もっても、光源氏に
記憶の中の彼の才能と偏差値の高さは、顔立ちと芸術系に全振りされていた。
自分が面倒を見た姫君に、手を出しそうになりつつ、帝に入内させる以外、政治的になにかしていたっけ? してないよね? 忘れてるだけ?
自分も含めて、これだけ源氏物語の『前提の環境設定』が変わってきている以上、モタモタしていると、『光る君』可愛さに、皇子の行く末が心配になった帝に、嫁入りを決められる恐れがある上に、ことは『摂関家/家族』の存亡にも関わると考えた葵の君は、いまのうちに打てるだけの手は打っておこうと、心に決めていたのである。
そしてこの話ができるのは、いまここにいるふたりだけだと思っていた。これが運命の女神が見落とした、最初で最後のチャンスだと思う。
小さな灯りには、飲み干した酒に、ほんのり頬を赤らめた姫君の顔が浮かび上がり、姫君は声を潜めて、自分の“夢見”の話を語りだす。
不意に外で強い風が吹き、庭の篝火が消えた。
少なくたよりない光を残し、彼女の前途を差し示すがごとく、周囲には暗闇が広がっていた。
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