第70話 裳着と宴 1
〈 左大臣家/寝殿 〉
東の対で
花冷えの夜ではあったが、左大臣家の姫君の
楽器の得意な殿上人たちは、持ち寄った琵琶や横笛、和琴を用意し、楽師たちも管弦の準備のために、庭先に用意された席に並ぶ。特別に用意された、
一番上座が用意された、
「これは
他の女君や姫君たちが、これは宮中で召し上がっているお茶かしら? とうわさをしている頃、何事にも見識と造詣が深い、元東宮妃の
「こちらの“
「
「なんでも体や肌によく、風邪などの喉の痛みや咳の予防にもなるそうでございます」
「あの渋いだけの
白磁の小さな茶器の中に浮かぶ、美しい琥珀色の
体によく風邪の予防になるのであれば、ぜひ自分の幼い姫宮にも、ご用意して上げたいと思った。
喪が明けたとはいえ、まだまだ世間に出るのは早いと思っていたが、左大臣家の北の方、三条の大宮との御縁と、未だ『東宮妃』然とした、丁重な挨拶を頂いたことを考え、ことわる訳にはゆかぬと出席を決めたが、よき機会であったと思う。
なるほど姫君は、うわさどおり様々な才に溢れているご様子。『薬師如来の具現』と呼ばれるほどに、優しい人柄であるのも伝え聞いている。
先だっての恐ろしい
神仏への願かけや、法要は大切にしてきたが、常日頃、労苦をいとわずに働いている者の行動は、それは当たり前のことと、あまり関心を抱いたことはなかった。
大宮のご教育のせいか、姫君の心配りと思し召しは、御仏の後光のように分け隔てなく、人々を照らしている。
これから先、皇子さえ産めば、否、入内さえすれば、国母となるであろう摂関家の姫君とよき関係を築いておけば、先々の後見に心配の残る、自分の姫宮の将来のためにもなるであろう。
母であるわたくしが引きこもって育てるよりも、摂関家の姫君とよしみを結び、接する機会が得られれば、
左大臣家の姫君は、自分の産んだ幼い姫宮のよき手本となる人物とお見受けした
女君がおおやけに酒を飲むのがはばかられるこの時代、女君たちは貴族の女君がたしなむにふさわしい“
はじまったのは『
夜の暗がりの中、灯りに照らし出された花盛りの桜の下で、雅楽に合わせて舞姫たちが軽やかに舞う。女舞をながめていた人々は、まるで桃源郷の中に身を置いているような思いがし、席が足らず庭先に溢れている公達や、そもそも席がない、
この女舞の時間は長く、この長さゆえに時代と共に簡略化され、いつしか途絶えていたのであったが、今宵のように葵の君が裳着の儀式を執りおこなっている間の『場つなぎ』としては、最高の演目であった。
行事ごとにうるさい趣味人たちも一応に押し黙り、中にはうっすらと涙を浮かべて、食い入るように舞台を見つめている者もいる。
「何事も昔がよかったというのは、年寄りの繰りごとと思っておりましたが、『
「本当に……」
美しいながらも、やや華やか過ぎるうわさを耳にする機会の多い、隣に座っていた藤壺の姫宮が、顔の下半分を隠していた檜扇を下げて、ため息をつくように言うのに、
なぜならば、藤壺の姫宮の顔は、自分が知っている『
宮中にいる口の軽い女房の誰かが、
妹宮の若さと地位の高さを持ってすれば、今度は妹宮が帝の寵愛を独占し、引いては自身の栄達につながるという、浅はかな考えを抱いているに相違なかった。
あの男は、自分が東宮妃であった時にはへりくだり、その地位を失ったあとは、まるで手のひらを返したような、無礼な態度をわたくしと姫君に見せる。そんな男であった。
「どうかなさいましたか?」
一瞬、食い入るように自分を見ていた、
「いいえ別に。今宵の月の光は桜の薫りまで、浮かび上がらせるように美しいですね。花盛りの姫君を連想いたします」
「まあ、そんな……」
まあ、それも仕方のないことかもしれないと、
いま、裳着の行事に出席している、関白、左大臣、そして大宮の代理として、
すぐ近くの、やや下座に座っていた、彼の正妻である右大臣家の四の君が、それを素早く見とがめて、わざわざ「夫の至らぬところはわたくしに」と、牽制がてら藤壺の姫宮の前に、姉妹を引き連れて挨拶にきたのも、
摂関家を除いて太政官の最高位に当たる、右大臣家の姫君が相手では、さすがに親王の妹宮とはいえ、
世間知らずながらも、それくらいは分かっている様子の藤壺の姫宮が、やや口惜しげに下唇を噛んでいるのも、内心おかしかった。
高貴な未亡人である
「殿方というのは往々にして、自分の主張ばかりを声高に押しつけて、困ったものですね」
大きくうなずく姫宮から、
そんな訳で葵の君がなんとか、なんとしてでも“ツテ”を作りたいと願っていた
一瞬、大きく柔らかな風が起き、『
昼間はあれほど感動した清涼殿の『桜の
今宵の
やがて裳着の儀式がほとんど済んだと見え、御簾の外と内に左大臣と大宮があらわれる。それぞれが序列を守って祝いを述べ楽奏をし、二人は丁寧な礼を述べながら、特に優れた歌を詠んだ者や奏者には、慣例にしたがって、豪奢な衣や絹織物、馬などを送っていた。
最後の儀式は関白と
*
※裳着の儀式は、ほぼ完全にフィクションです。
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