第70話 裳着と宴 1

〈 左大臣家/寝殿 〉


 東の対で裳着もぎの儀式がはじまる頃、寝殿と母屋にやってきた、右大臣を筆頭とした公卿や公達、それぞれの北の方や姫君たちは、ようやく割り振られた席についていた。


 花冷えの夜ではあったが、左大臣家の姫君の裳着もぎの儀式とうたげへの期待感(裳着もぎは目にすることはできぬので、どちらかといえば、ほとんどの貴族はうたげと出会いがメインの目的であった。)に気分が高揚し、誰ひとりとして気にするものはいなかった。


 楽器の得意な殿上人たちは、持ち寄った琵琶や横笛、和琴を用意し、楽師たちも管弦の準備のために、庭先に用意された席に並ぶ。特別に用意された、篝火かがりびに明るく照らし出された舞台に注目が集まってゆく。


 白酒しろき黒酒くろき、白湯や茶なども用意されていたが、女君たちが選んだ一番の人気は、すべての人がはじめて口にした、現代でいうところの、“フレーバーティ―”であった。


 一番上座が用意された、六条御息所ろくじょうのみやすどころも女房に勧められ、なんとなく選び、口にした“薫花茶こうかちゃ”の清々しさをもたらす甘さに、わずかに笑みを浮かべられた。


「これは唐梨からなし(カリン)の薫りがする。普通の茶ではありませんね?」


 他の女君や姫君たちが、これは宮中で召し上がっているお茶かしら? とうわさをしている頃、何事にも見識と造詣が深い、元東宮妃の御息所みやすどころは、これはいままでになかったものと、判断し女房に何気なくたずねる。


 御息所みやすどころに“薫花茶こうかちゃ”を運んできた、女房は控えめに答えた。


「こちらの“薫花茶こうかちゃ”は、当家の姫君が考案され名づけられた、唐梨からなしを蜂蜜につけ込み、茶に溶かした品にございます」

薫花茶こうかちゃ……」

「なんでも体や肌によく、風邪などの喉の痛みや咳の予防にもなるそうでございます」

「あの渋いだけの唐梨からなしが、このように上品で深い味わいに……」


 白磁の小さな茶器の中に浮かぶ、美しい琥珀色の薫花茶こうかちゃをながめながら、御息所みやすどころはそう呟いて、うわさには聞いていたが、このように素晴らしい茶を思いつく、左大臣家の姫君に深い興味をいだく。


 体によく風邪の予防になるのであれば、ぜひ自分の幼い姫宮にも、ご用意して上げたいと思った。


 喪が明けたとはいえ、まだまだ世間に出るのは早いと思っていたが、左大臣家の北の方、三条の大宮との御縁と、未だ『東宮妃』然とした、丁重な挨拶を頂いたことを考え、ことわる訳にはゆかぬと出席を決めたが、よき機会であったと思う。


 なるほど姫君は、うわさどおり様々な才に溢れているご様子。『薬師如来の具現』と呼ばれるほどに、優しい人柄であるのも伝え聞いている。


 先だっての恐ろしい女童めわらの事件解決に活躍を見せた、検非違使の別当をはじめとして、事件に関わっていた武官たちにも、京の平安を取り戻してくれた礼と、目立たぬように、自身で少なからぬ贈物をされたとの話も聞く。


 御息所みやすどころも被害にあった女童めわらたちの成仏を願って、寺への寄進はしていたが、姫君のなさりようには、驚きと共に考えさせられていた。


 神仏への願かけや、法要は大切にしてきたが、常日頃、労苦をいとわずに働いている者の行動は、それは当たり前のことと、あまり関心を抱いたことはなかった。


 大宮のご教育のせいか、姫君の心配りと思し召しは、御仏の後光のように分け隔てなく、人々を照らしている。


 これから先、皇子さえ産めば、否、入内さえすれば、国母となるであろう摂関家の姫君とよき関係を築いておけば、先々の後見に心配の残る、自分の姫宮の将来のためにもなるであろう。


 母であるわたくしが引きこもって育てるよりも、摂関家の姫君とよしみを結び、接する機会が得られれば、くらい高き者が持たねばならぬ“徳”と“教養”というものを、自然と得る機会も増える。


 左大臣家の姫君は、自分の産んだ幼い姫宮のよき手本となる人物とお見受けした御息所みやすどころは、美しい桜の花を御簾越しにながめながら、ご自分の姫宮の行く末を思っていた。


 女君がおおやけに酒を飲むのがはばかられるこの時代、女君たちは貴族の女君がたしなむにふさわしい“薫花茶こうかちゃ”を味わいながら、いつの間にか舞台にあらわれた、華やかな春を思わせる唐装束の六人の舞姫に注目する。


 はじまったのは『桜花宴おうかえん』と呼ばれる、久しく途絶えていた、この季節だけの女舞。これは若き日に桜花宴おうかえんの女舞を好んでいた関白が、季節にも合うことであるからと、特別に舞姫と大勢の楽士を用意させた、素晴らしい舞台であった。


 夜の暗がりの中、灯りに照らし出された花盛りの桜の下で、雅楽に合わせて舞姫たちが軽やかに舞う。女舞をながめていた人々は、まるで桃源郷の中に身を置いているような思いがし、席が足らず庭先に溢れている公達や、そもそも席がない、宿直とのゐや警備に当たっている随人のような、半分公務をしている公達の多くも、職務を忘れてしばらく見入っていた。


 この女舞の時間は長く、この長さゆえに時代と共に簡略化され、いつしか途絶えていたのであったが、今宵のように葵の君が裳着の儀式を執りおこなっている間の『場つなぎ』としては、最高の演目であった。


 行事ごとにうるさい趣味人たちも一応に押し黙り、中にはうっすらと涙を浮かべて、食い入るように舞台を見つめている者もいる。


「何事も昔がよかったというのは、年寄りの繰りごとと思っておりましたが、『桜花宴おうかえん』を拝見すると、なるほどとしか言いようがございませんね」

「本当に……」


 美しいながらも、やや華やか過ぎるうわさを耳にする機会の多い、隣に座っていた藤壺の姫宮が、顔の下半分を隠していた檜扇を下げて、ため息をつくように言うのに、御息所みやすどころは心から同意し深く頷き、次の瞬間、内心ぎょっとしていた。


 なぜならば、藤壺の姫宮の顔は、自分が知っている『桐壺更衣きりつぼのこうい』に生き写しであったから。そして、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの妹宮は、左大臣家の姫君よりもひとつ上だが、同じように早くも去年、裳着を終えている。


 御息所みやすどころは僅かに苦笑すると、姫宮の兄に当たる、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやが、自分をはじめ帝に縁のある者に、妹宮の入内のあと押しを頼んでいる理由を理解した。


 宮中にいる口の軽い女房の誰かが、桐壺更衣きりつぼのこういと妹宮が、瓜ふたつであることを、彼に教えたのだろう。


 妹宮の若さと地位の高さを持ってすれば、今度は妹宮が帝の寵愛を独占し、引いては自身の栄達につながるという、浅はかな考えを抱いているに相違なかった。


 あの男は、自分が東宮妃であった時にはへりくだり、その地位を失ったあとは、まるで手のひらを返したような、無礼な態度をわたくしと姫君に見せる。そんな男であった。


「どうかなさいましたか?」


 一瞬、食い入るように自分を見ていた、御息所みやすどころに、姫宮は声をかけたが、御息所みやすどころは優雅に頭を左右に振ると、上品に笑みを浮かべ返事をする。


「いいえ別に。今宵の月の光は桜の薫りまで、浮かび上がらせるように美しいですね。花盛りの姫君を連想いたします」

「まあ、そんな……」


 御息所みやすどころは、左大臣家の姫君のことを想像し、口にしたのだけれど、どうやら目の前の兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの妹宮は、自分が褒められたと思い恐縮されていた。


 まあ、それも仕方のないことかもしれないと、御息所みやすどころは思う。目の前の姫宮は御年、十一歳。美しい姫君であるし、身分の申し分もなく、多少は居丈高になるのも仕方ない。ふみが降り注ぐように届いているとのうわさも聞いている。


 いま、裳着の行事に出席している、関白、左大臣、そして大宮の代理として、蔵人少将くろうどのしょうしょうが、右大臣や公卿への挨拶回りをすませ、御簾越しに御息所みやすどころへ丁寧な挨拶をしている間中、姫宮の視線は蔵人少将くろうどのしょうしょうに釘づけだった。


 すぐ近くの、やや下座に座っていた、彼の正妻である右大臣家の四の君が、それを素早く見とがめて、わざわざ「夫の至らぬところはわたくしに」と、牽制がてら藤壺の姫宮の前に、姉妹を引き連れて挨拶にきたのも、御息所みやすどころや周囲の女君たちには見ものであった。


 摂関家を除いて太政官の最高位に当たる、右大臣家の姫君が相手では、さすがに親王の妹宮とはいえ、蔵人少将くろうどのしょうしょうが余程の熱意を持たぬ限り、彼女の正妻の地位を脅かすことはできない。


 世間知らずながらも、それくらいは分かっている様子の藤壺の姫宮が、やや口惜しげに下唇を噛んでいるのも、内心おかしかった。


 うたげが盛り上がる中、密かに、やがては大っぴらに、飛び交い出したふみが、自分のところに数多く押し寄せ出すと、藤壺の姫宮は気を取りなおした様子で、満更でもない顔をし、御息所みやすどころに向かって、また兄君に叱られますと困った口調で、しかしながら、少し自慢げにふみの束をさし示していた。


 高貴な未亡人である御息所みやすどころは、蔵人少将くろうどのしょうしょうの挨拶に品よく祝辞を述べてから『桜花宴おうかえん』が目にできた存外の幸せと、義理とはいえ、三条の大宮と自分は姉妹の間柄、左大臣家の姫君に個人的な祝いを述べる時間が持てるよう、蔵人少将くろうどのしょうしょうに、女房を通じてさり気なく伝えてから、姫宮に苦笑して見せ礼儀として、さらりと返事を返す。


「殿方というのは往々にして、自分の主張ばかりを声高に押しつけて、困ったものですね」


 大きくうなずく姫宮から、御息所みやすどころは舞台に眼差しを戻した。自分が送った檜扇が祝いの品に展示されていないのは、大切な裳着の儀式に用いたいとの大宮の思し召しと、蔵人少将くろうどのしょうしょうに先ほど聞いて、安心した御息所みやすどころは、つかの間の夢舞台に心を漂わせていた。


 そんな訳で葵の君がなんとか、なんとしてでも“ツテ”を作りたいと願っていた六条御息所ろくじょうのみやすどころは、当然のことながら、いまのところ彼女に対してなんの恨みも、そねみも持ち合わせていない、『早すぎる生霊』ではなく、高貴な未亡人であり、幼い自分の姫宮のことにのみ思いを巡らせている、悲劇の元東宮妃であった。


 一瞬、大きく柔らかな風が起き、『桜花宴おうかえん』の舞姫たちを包み込み、うたかたの夢のような情景が、左大臣家の庭に照らし出されてゆく。


 昼間はあれほど感動した清涼殿の『桜のうたげ』の華やかさも、光る君の舞すらも霞んでゆくような……。


 今宵のうたげに参加できた殿上人たちは、それぞれに満足げな様子で、そううわさしていた。


 やがて裳着の儀式がほとんど済んだと見え、御簾の外と内に左大臣と大宮があらわれる。それぞれが序列を守って祝いを述べ楽奏をし、二人は丁寧な礼を述べながら、特に優れた歌を詠んだ者や奏者には、慣例にしたがって、豪奢な衣や絹織物、馬などを送っていた。


 最後の儀式は関白と中務卿なかつかさきょう、そして姫君で執りおこなわれている様子であったが、もちろん気配すら知ることはできなかった。


 *


 ※裳着の儀式は、ほぼ完全にフィクションです。

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