第77話 裳着と宴 8

 中務卿なかつかさきょうは、思わず目の前の問題から目をそらそうと、天香桂花てんこうけいかの君の、髪の長さについて考えたが、現実問題として、もしも彼女が女房たちに見えてしまえば、それはそれで生霊が取り憑いたと、大騒動になるのは目に見えていた。


(そうなれば、今日は大勢の貴族が参加している裳着もぎの日ゆえに、どんなことになるのか、想像もできない!)


 ゆらりと立ち上がり、どこかへ歩き出そうとする姫君を引き留めるべく、彼は慌てて姫君を抱き上げてから、あたりを見回して、いるはずの『式神』を探す。


 しばしの間を置いて、なんとか薄暗い部屋の隅にあった、金色の鳥籠の中に式神を発見し、姫君を抱え上げたまま鳥籠に近づく。扉を開けようとするが、扉にある小さな金色の錠に邪魔をされ、彼は常にないあせった声をだした。


「自分で出ろ! 誰でもいいから、陰陽師を呼んでこい! 早く!」


『チュンチュン』


「ふざけるな、さっさと陰陽師のところに、行ってこい!」


 姫君の“夢見”の話も大変な話ではあったが、いまの姫君をなんとかする方が先であった。


「陰陽師? わたくしは陰陽師では、ありませんよ? ひっく!」

「鳥籠の鍵、鍵はございませんか?」

「鍵?」


 自分の首に腕を回している姫君の、煌めく黒蒼玉ブラック・サファイアと呼ばれる、瞳は美しいけれど、どこにも焦点が合っていない。


 数秒後、金の鳥籠は蓋ごと壊され、やっと“ふーちゃん”は、空に舞い上がり飛んでゆく。


「さっさと行け!」


 彼は夜空を見上げて小声で罵りながら、どうしたものかと、真っ赤な顔で、ご機嫌な様子の姫君を持て余しつつ、高欄こうらんの近くに設置されている几帳の影に、姫君を抱えたまま座り込む。


 東の対の庭に居た“六”たちが駆けつけるまでの間、彼は、いままでの人生で、一番うろたえていた。


(ちなみに、いままでの一番は、姫君を早朝に自分のやかたで発見した時で、それまで、不動の一位であった、大宮の火災現場からの救出事件は、最早、三位まで順位が落ちていた。)


「姫君、しっかりして下さい」

「葵、わたしは葵です……」


 姫君はささやくように、当たり前のことをいうと、ぐったりと自分に体を預けて、ウトウトしだす。


 こんなところを誰かに見られたら、“夢見”うんぬん以前に、姫君の輝かしい未来が、ここで終わってしまうと、中務卿なかつかさきょうは姫君が眠ってしまわぬように、小さく声をかけた。


「そうです、姫君はもう裳着もぎを終えた大人なのです。姫君、葵の君!」


 気ばかりがあせる。先程までは、真っ赤な顔で、うつらうつらとした様子であった姫君が、今度は完全に意識を失い、荒かった息は段々と浅く短くなる。顔色は紙のように白く、血の気が引いてゆき、先程までいた天香桂花てんこうけいかの君の姿は、いつの間にか消えていたが、最早それどころではなかった。


 あとに残った姫君のご様子は深酒をし過ぎて、大事に至ってしまった者と同じ症状だった。(葵の君は、いまで言う急性アルコール中毒寸前であった。)


 近くにあった水差しから、さかずきに水を移し、一旦、横に寝かせた姫君を片手で抱き起こして、水を飲ませようとするが、紅を引いた可愛らしい口元から、水はそのままこぼれて、今日のためにあつらえられた豪奢な十二単衣を、ただただ濡らすだけ。


 命には代えられないと、覚悟を決めた彼は、姫君を抱きよせて、さかずきの水を口移しで姫君に、何度も注ぎ入れる。ようやく水を飲ませたが、姫君の長く美しい黒髪は、まるで持ち主を失ったかのように、床の上に乱れ広がり、彼を心底ぞっとさせた。


 美しいが、嵩張るころもを脱がせ、単衣と袴だけにし、襟元をくつろげると、葵の君の息は少し収まりをみせる。


 わずかに目を開けて、なにか言いたげな姫君の髪を撫ぜ、安心させようと「大丈夫ですから」と、何度も耳元にささやいてから、中務卿なかつかさきょうは、勝手知ったる東の対と、姫君をそのまま抱き上げて、天蓋のように四方に几帳や布で囲われた、姫君の寝所、御帳台の布団の上に、そっと降ろしていると、ようやく陰陽師たちが、人目を忍んで静かに駆けつけてきた。


 彼らは式神に案内されて、通り道に散らばっていた、姫君のころもを抱えながらやってきたのはよいが、なぜかあたふたしていた。しかし中務卿なかつかさきょうに訳を聞くと、安心した様子で、例の事件で“六”が用いた回復のしゅを、十四歳ながら、“ザル”どころか、“枠”しかないと言われている蟒蛇うわばみの“伍”が、しゅを唱え、姫君の悪酔いを自分に移し取る。


 すると先ほどまでは、紙のように真っ白だった姫君の頬は、あっという間に血の気が戻り、やがて規則正しい寝息が聞こえ出し、中務卿なかつかさきょうは、ようやく安堵の息をついた。


 もちろん“伍”の体調には、なんの変化もなく、彼らは失礼がないよう、素早く御帳台を出てゆく。


「……だから早く駆けつけようって、言ったじゃないですか?」

「だって、もし、お取込み中だったら!」

「押し倒しているんだったら、呼ばれる訳ないでしょうが!」

「もし姫君に、なにかあったら、貴様、腹を切れ腹を……」

「もう、大丈夫だって!……でも、裳着もぎは済んでいるんだし、綺麗な姫君だし、将来の女御様だから、役得……いてっ!」


 姫君に水を飲ませていた、現場を目撃してしまった彼らが、小声で言い争っていたことを、中務卿なかつかさきょうは知らない。


 中務卿なかつかさきょうも姫君を置いて、そっと御帳台を出ようと立ち上がったが、かけられていた鏡になにかが映り、滑り消えたのを目の端にとらえる。彼はゆっくりと振り向いて、鏡の反対にある几帳の一枚に、鋭い視線を投げかけた。


 几帳には鏡に一瞬影が映った蛇が、尻尾を道具立てに絡ませながら、ぬるりと這っている。中務卿なかつかさきょうの存在に気がつくと、彼に向かって、ヒュウと鎌首を持ち上げた。


 瞬時に頭が冷えた彼は、静かに自分が下げていた、飾り太刀の紐を外し、刀をゆっくりと抜いて、さやを蛇に向けて差し出す。


 蛇は少しためらったあと、本能には逆らえなかったのか、さやを締め上げるように巻きつく。彼はそれを手に静かに御帳台を出るや否や、さやを天井に向かって放り投げ、巻きついた蛇の頭を一閃の元に叩き切った。


 驚いた表情の陰陽師たちを、仕草で黙らせて、刀傷のついたさやに太刀を収め、何事もなかったかのように、昼御座に足を向け、まだ御簾の向こうで長考に入っているらしい関白に、一応、声かけはしてみたが、やはり返事がないので、下がらせてもらう旨を紙にしたためて、御簾内へそっと差し入れてから、母屋につながる渡殿に控えていた女房に、姫君が裳着の儀式で、お疲れになり意識を失われたと、大宮に伝えるように申しつけた。


 慌てながらも、ゆき届いた教養を持つ女房は、目立たぬよう静かに、寝殿にいらっしゃる大宮の方に向かう。


 裳着の儀式で、姫君が意識を失うのは、“奥ゆかしさ”の表れ、そう捉えられるので、体調が戻られ、天香桂花てんこうけいかの君も消えたいまは、姫君に意識がないと周囲の貴族たちに知れても、なんら問題もなかった。


 彼の思惑通り、うたげに参加していた貴族たちは、みな姫君の奥ゆかしさに、感嘆の声を上げ、大宮は姫君が心配なのでと、やはり慌てつつも優雅に席を立ちながら、六条御息所ろくじょうのみやすどころには、是非とも泊まってゆかれてはと声をかけていた。

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