第76話 裳着と宴 7

「最近は気晴らしに、自分で曲を考えているのですが、難しいです……」


 葵の君は音を調節するために、弦を抑える左手と爪弾つまびく右手を、優雅にことの上をゆききさせながら、彼の顔をチラリとながめ、彼の感嘆の表情に、地味に特訓していてよかったと、関白の苦悩や、彼のザラついた冷たい心中も知らず、のんきに心の中でガッツポーズを決めていた。


 本当は背負った刀の抜刀術とか、実用的なことを習得したかったけど、ことの稽古ばっかりは、いつもはなにもかも優しい母君が、手を抜くのを許してくれなかったので、特訓に注ぐ特訓の日々だったの! 御祖父君の勉強地獄が終わったと思ったら、このザマだと、枕を濡らした夜もあったけど、なにごとも努力は報われるよね!


 このこと、弾きにくいから伝説になったんじゃない? そのくらいはじめは、うんともすんとも弾けなかったが、名前を呼んでペット扱いしだしてから、弾きやすくなったのは、気のせいだろうか?


 心中は穏やかでないながらも、耳を傾けていた中務卿なかつかさきょうも、なるほど、これは付喪神つくもがみとなっていたことも、主人を迎えて穏やかに暮らしているはずだと納得していた。


 彼女は思い切って、ことくのをやめて小さな声で、続きに想像している音を、口ずさんでみる。


 自分で言うのもなんだけど、いまならひとりカラオケしても、むしろしてみたいと思うくらい、綺麗な声だと思う。母君にもいつも褒められているの! 葵の君って、つくづくなんでもできる子だと感動!


 Is this the real life?


「美しい、聞いたことがない音色だ……」

「中々、進みません……」

「とても美しい。楽才のないわたくしも、なにか夢を見ているように、感動を覚えます」

「そうおっしゃって頂けると、勇気が出ます」


 おしとやかに答えてみた。


 感動は当然で、実はいま弾いているのは、彼女が前世、気分転換に流していた『作業用音楽シリーズ』で、よく耳にしていたピアノの曲を少しずつ思い出しては、ずっと試しいていたのである。


 ちなみにそれが可能だったのは、付喪神つくもがみでもある、伝説のこと螺鈿らでんの君”が、通常は左手で弦を押さえて調節しても、5オクターブ前後の音域である、七弦のことの限界をはるかに超え、ピアノに迫る7オクターブに近い音域を持っているためであり、姫君を気に入った“螺鈿らでんの君”が、己の能力を発揮してくれているからだった。


 姫君が左手で調節をするついでに、“螺鈿らでんの君”が、自分が合うと思う音まで、“音の振れ《ビブラート》”をきかせて、はじき出してくれているので、それはもう、伝説のことにふさわしい音色が響く。葵の君の努力もあるが、感動も当然であった。


螺鈿らでんの君”は目の前に、以前の持ち主であった嫌な男が現れて、一瞬、逃げ出そうかと思ったが、別に取り返しにきた様子はなく、自分は姫君の側にいられるようで安心していた。


 葵の君は“螺鈿らでんの君”の気遣いにも関わらず、『こんなことなら、作業用和楽器シリーズ! とか聞いておけばよかった。耳コピだし、弦の数も種類も違うので難しい!』そんなことを思いながら、ふと手を止めて彼にたずねてみる。


「なにかご希望はございますか? わたくしにける曲があればよいのですけれど」

「いや、その、わたくしは楽才がなく、あまり詳しい曲は……ああ、先ほど姫君が、うたわれた部分は……」


 ことの上に現れた彼の手が弦に触れて音を出す。ふと触れた中務卿なかつかさきょうの指の感覚に、彼女の胸がキュッとなり、彼が視線をことに落としたままなのをよいことに、暗がりに浮かぶ彼の精悍な顔立ちを、またチラ見していた。


『変なの、稽古だったら同期の男子に両腕を掴まれても、なんにも思わないのに!』


「えっと、先ほどの続き……」


『どうしよう、心臓がドキドキし過ぎて爆発しそう!』


 耳の側で、音階を口ずさむ彼の低い声が聞こえてきて、ますます顔が赤くなったのを自覚する。

 もう一度、頭からきながら、出仕したら色々と口実を設けて、中務省なかつかさしょうに行けないものかと考え、ああ、そういえば、“わたしと帝の怨霊疑惑! あとわたしのしょうもない皇子様”の悩み! などと、ありあまる口実を思い出していた。


『気絶しそうなくらいカッコイイ!』


 彼女がそんなことを思いながら、この間のお礼もきちんと……と、思っていたのに、興奮しすぎたのか、目の前の彼の周囲には、いつの間にか星が飛び、赤と黒の点滅の中に彼の顔は、段々と消えてゆく。


『なんだろうこの感覚、夏合宿で頑張り過ぎて、救急車に乗せられた時と似ている……』


 一方の中務卿なかつかさきょうは、芸術音痴の彼にしては珍しく、真剣に音階を探し、楽譜に目を移していたが、突然、耳に入った異音にまばたきをする。下げていた視線を上げて、姫君の顔に視線を向けた彼は、思わず目を見開いた。


 なぜならことを爪弾いていた、小さく白い手は、体を支えるように、ことの弦の上に押しつけられ、少し大人びた、幼くも美しい姫君は、顔どころか首筋まで朱色に染まっている。


 そして姫君は、自分に向かって大輪の花のような笑みを浮かべ、やがて可愛らしい小さな声で笑い出した。


「……です」

「えっ?」


 突然の出来事にうろたえていると、姫君の手は自分の頬に伸びて、柔らかな手の感覚を感じた。紅を引いた小さな唇が、なにか言葉を耳元でささやくと同時に、そのままゆっくりと姫君は、自分に向かって倒れ込んできた。腕の中で目を閉じたままの姫君に彼は確信する。


『完全に酔っ払っている……』


「姫君! 葵の君!」


 腕の中の姫君は、瞼を閉じてなんの反応もない。差し込む月明かりが、長い睫毛の影を作り出す。


 これが部下であったなら、さっさと庭の池にでも捨ててくればよいが、呑んだこともない酒を呑んでしまった姫君を、まさか捨てる訳にはゆかない。


 いや、そもそも、儀式でさかずきには、口をあてるだけでよいと、伝えそこねた自分が悪かった。姫君は見よう見まねで、酒を飲み干していた!


「関白に申し上げます!」


 少し離れた御簾の向こうの関白に声をかけるが、集中しきっているらしき彼からの返事はなく、なんなら邪魔をするなとばかりに、奥の屏風の向こうに姿は消えた。


 女房を呼ぼうとも思ったが、可愛らしい声で笑っている姫君からは、見たこともないくらい、くっきりと、同じように嬉しそうな表情の『天香桂花てんこうけいかの君』が現れていた。


『前に見た時より、髪が長くなっているような……』


 ひょっとして、さっきの二十歳はたちと言うのは、彼女の声だったのだろうか?


 月明かりが庭の夜桜を照らし出していた。

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