第75話 裳着と宴 6

『かなり話はズレてきているけど、まだ大体あってるはず! 神様お願い!』


 葵の君は、自分が関白に仕掛けた大勝負の行方を、相変わらず困った時だけの神頼みをし、心配そうに自分の手元をみつめている中務卿なかつかさきょうに少しだけほほえむと、目の前の“螺鈿らでんの君”を爪弾き出した。


 前世の彼女は“気の強い者しか残っていない”


 内実はともかく、世間一般にはそんな風に喧伝けんでんされることの多い、はえ抜きの体育会系女子であり、勝とうが負けようが、次の試合で勝負に出ることに躊躇しない、前しか見ない短い人生を送っていた。


 ゆえに平安貴族の姫君とは真逆の、神経の図太い姫君であり、とんでもないカードを切ったいまも『思いがけず中務卿なかつかさきょうと、ふたりっきりの時間を持てて、とても嬉しい! その上、結構、自信が出てきて、面白くなってきたことを聞いてもらえるチャンス!』“こんな風”に前向きに思える性格であった。


 文武両道を旨とする短い大学生活でも、足りない才能は、虚仮こけの一念とでもいった、地味な努力でなんとかしてきた彼女は、転生したいまでも、そんな姿勢が花開くように、地道な努力が実を結び、元々、自分の守備範囲でなかったことも、かなりの腕前になっていた。


 指がつるかと何度も泣きそうになったけど、一旦、弾けるようになると、これが結構いい気分転換!


 御簾の向こうにいる関白は、聞いているのかいないのか、ことの音にも無反応だが、中務卿なかつかさきょうが向かいでことに耳を傾けつつ、わたしを気づかっている様子が、はっきりと分かり、ふと手を止めて声をひそめて、一歩、話を踏み出してみることにした。


「聞いて頂いて、胸のつかえが降りた気がいたします」

「ええ、夢でございます。どうぞ心を強くお持ち下さい。全力でお守りいたします」

「…………」


『ひょっとして、この話を聞いた彼の中で、わたしは母君の面影を持つ、可愛い姪ポジションに、悲劇のヒロイン要素が追加されたのだろうか?』


 真面目で不器用で変に図太い、そんな彼女の想像は大当たりであった。


 ちょっと待って! いま、全力でお守りいたしますとか言われた? そんなこと言うことはあっても、言われることなんて、想像したこともなかった!


 幼い頃より武道系女子だった彼女は、ヒーローになったことはあっても、ヒロインになったことはなかった。


『そうなの、ヒーロー扱いをされた経験はあるけど、ヒロインなんて、ヒロインなんて……感激!!』



 そんなこんなで、葵の君は人生初めてのヒロインポジ(しかも大好きな人から!)に、涙目になるほど感動していたのだが、もちろん中務卿なかつかさきょうは、恐ろしい夢見の話を思い出して、泣きそうになりながら必死にこらえている、たおやかで健気な姫君の風情に、深く同情をしていた。


 誤解とは恐ろしいものであり、こうして運命は成り立ってゆく。


 彼は恐ろしい事件のあとに、おおいかぶさるように、忍び寄る悪夢のような未来を、夢の中に見てしまった葵の君に対して、推し量れぬこととはいえ、尚侍ないしのかみとして出仕することが最善と話を進めた浅慮を深く反省し、それでも自分に笑顔を見せて、けなげにことを爪弾いてくれる姫君に、不吉なことなれど、関白になにかあれば彼の言うとおり、姫君に助けの手を伸ばしてやれるのは、朝廷では自分しかいないと、大宮にも感じたことのないくらい、庇護欲ひごよくと使命感を感じていた。


 ちなみに左大臣への評価は、彼も関白とおおむね同じ程度であった。彼が関白から継いだのは、歌と舞の才だけだ。


 彼はいままで、高い政治的地位に就きながらも、出世欲は皆無かいむであったが、姫君のためにも、これから先、己自身の政治的影響力を、もっとまつりごとの世界に浸透させ、お守りしてゆかねばと心に誓っていた。思い詰めた表情の姫君が、紅を引いた形のよい唇を薄く開く。


「……もし、もしも、わたくしが夢の通りになりそうになったら、わたくしと駆け落ちしてくれますか?」


 幼くも美しいかんばせに煌めく、黒蒼玉ブラック・サファイアのような瞳が、上目遣いに彼を見つめていた。夜の射干玉ぬばたまが流れ出したような黒髪が、姫君が首を傾げた拍子に、するりと床に美しく流れ落ちる。


 中務卿なかつかさきょうは、十歳とも思えぬ大人びた視線に、一瞬ドキリとしたが、いかにも子供らしい、物語に出てくるようなセリフに、思わずそのまま破顔してしまう。


(普段“不愛想が歩いている”とうわさする、内裏の殿上人たちが見れば、驚いたことと思う。)


「それでは、わたくしがただの人攫いになってしまいます。わたくしを先日の女童事件めわらじけんの犯人と同じ目に会わせたいのですか?」

「まあ! わたくしはもう大人なのに! いま、裳着もぎをしたところなのに! (二十歳なんですけど!)」

「本当の大人は、自分で自分のことを、大人とは言いませんよ?」


 彼は少し不服そうな表情も可愛らしい姫君の頭を、思わずそっと撫ぜていた。


「もう裳着もぎは済ませたのですよ?」

「知っています」


 中務卿なかつかさきょうは姫君が、不服気に言いつのる姿が、年相応に可愛らしいと思った。そんな訳で残念ながら、彼女は彼にとっていまのところ尊き悲劇の幼き姪(若しくは実の娘)ポジであった。


 姫君が再び弾きはじめたことの音色に耳を傾けながら、いままでは桐壺更衣きりつぼのこういにも第二皇子に対しても、公務に関係しない限り、関心を持ったことはなかったが、姫君の話を聞いて、彼は関白の同意さえあれば、万難を排するためにも、皇子には早々に表舞台から退場してもらおうと、現実的な対応を考える。


 帝同様に、桐壺更衣きりつぼのこういである母君を、ことのほか大切にしているとのうわさは聞いているので、母君の進退を盾に、さっさと出家してもらうなり、無品親王として、自分と同じように、皇子から臣下に降りるのであれば、どこぞ遠くに好待遇で赴任してもらうのを、画策するのもよいと思う。


 いまは宮中の重鎮のひとりではあるが、皇子であった幼き日より不遇な人生を歩み続けていた中務卿なかつかさきょうにとって、大宮と葵の君のふたりだけが大切な身内であり、見る者すべてを魅了するといわれる第二皇子には、なんの興味もなかった。そして、葵の君に災難をもたらす可能性が高いというだけで、皇子は危険人物として、いまは大きく心の中に書きとめられた。


 もし姫君に降りかかる未来が、姫君が持つ才知と引き換えに、御仏が与えた試練だと、葵の君自身がつけ加えていれば、彼は合法的に、『廃仏毀釈はいぶつきしゃく/仏教を壊し、教えを否定する行為』の推進もいとうことはなかったであろう。


 彼は国家に仕える有能で実直な官吏であり、武人でもあったが、その生まれと生い立ちゆえに、彼の信仰は国家でもなく、帝でも神仏でもなく、つねに葵の君の母である大宮(元女三宮)にあり、彼女がいればこそ、彼は幼少期の冷たい後宮の生活も、己の孤独も欠落も耐えられた。


 ゆえに、その信仰が生み出した“葵の君”は、出会ってからの短くも立て続けに巻き起こる事件や、姫君自身の愛らしくも尊き人柄によって、いまでは姫君が彼の精神的な“宝”、誰よりも聡明で優しい『掌中の珠』であった。


 彼は葵の君の未来を守るために、なにがあろうとも、自分は姫君のために行動しようと心に決める。


『きっと自分は、この姫君を守護するために、あの日、あの火事の日も、生き延びたのであろう』


 耳に入る姫君の奏でることの音色は、美しくも切ない調べで、数多くのうたげに参加してきた自分も、いままで聞いたことがなかった。


 不思議に思い、姫君の顔に視線を向けたが、そのままなにも言わずに耳を傾けて、彼は自分の刺すように冷たい思考の世界から、姫君の口にした透き通った言葉を耳にして、ようやく現実の世界に戻る。


 姫君のまとう優しい睡蓮の薫りが心地よかった。


「最近は気晴らしに、新しい曲を考えているのですが、難しいです……」


 そんな姫君の言葉を耳にしながら、彼はことの横に添えられていた、姫君の手書きと思われる楽譜をそっと手に取り、目を走らせ、なるほど姫君の創作であったならば、自分が知らぬのも無理はないと納得し、はにかんだ笑顔の姫君に優しい視線を向け、楽譜に再び目を落とす。


二十歳はたちなんですけど!』


 ふと、どこからか、そんな声がした気がしたが、気のせいだろうと思った。



 *



『多分本編とは関係の無い小話/中務卿と六』


中「むやみに御簾の端に近づかない、人を信用しない、門に近づかない、家から出ない、わたくしの館以外には行かない」


 ことあるごとに、葵の君に何度も、注意書きの手紙を書いている。


六「段々、ハードルが下がっていませんか?」

中「……誰のせいでこんなことになったと……」

六「手紙、届けてきます」そそくさ。


葵「じゃあ、時々、遊びに行くのはセーフですね」


 武道場、見逃して残念だと思っていた。


六「……」


葵「わたくし弓を習いたいし、剣も少し嗜んでみたいな――って」結局、母君に呼ばれて、筝の特訓に行った。


六「その内くると思いますよ。なんだか弓に興味津々でした」


弐「子供用の弓、注文しておきましょうか?」たまたま業務報告にきていた。


中「~~~~」


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