第238話 修羅場 11

「葵の上!! 葵の上!!」


 中務卿なかつかさきょうは、葵の上を抱えて、何度も名前を呼ぶ。


 助け出された葵の上は、もう気力も体力も限界だったが、なんとか、あの事件のことだけは、うまく伝えなければと、細い声でささやいた。


「神託がありました。あの僧は、女童めわら事件にかかわる者です。あの僧侶が、“桐壺更衣きりつぼのこうい”を生かすために、どこかの貴族と協力して、女童めわらたちを生贄いけにえにしていました……」


 彼のうしろには、いつの間にかやってきた紫苑たちが心配そうな顔で、集まっている。


 中務卿なかつかさきょうは、紫苑たちが持っていた、葵の上が脱ぎ捨てたころもで、彼女を包み込んでから抱き上げる。するとそこに、一瞬の間隙をついて、息絶えた煤竹法師すすたけほうしの下に広がっていた血から、黒い稲妻のような物が走り、彼女に巻きつくとすぐに姿を消す。


「葵の上!!」

「大丈夫、だいじょ……」


 そう答えていた葵の上であったが、目の前がいきなり暗くなると、そのまま意識を失っていた。


「葵の上!!」


 中務卿なかつかさきょう頭中将とうのちゅうじょう、“六”、紫苑たちが、次々と葵の上に声をかけたが、彼女が呼びかけに応え、まぶたを開けることはなかった。


 残っていた鬼共は、次々に空に舞い上がり出す。彼らは煤竹法師すすたけほうしの呪法の力で呼び出されて暴れ回っていたが、彼の強制力が消えたいま、こんな面倒なところにいるよりも、愛宕郡おたぎごうりの葬場でうろつく方が“魅力的”であり、つき合う義理はなかった。鬼たちはあっという間に姿を消す。


 そこに引きつった顔の僧官と、彼についていた官僧たちが、ようやくやってきた。彼らは平身低頭の呈で、中務卿なかつかさきょうの部下から再び差し戻された『波羅夷はらい状』を、自分たちの手で北山の大僧正や、あちらこちらに散らばっている酔いどれ坊主たちに、右往左往しながら突きつけて回る。


 武官たちは波羅夷はらいの宣告を受け、僧侶ですらなくなった彼らを、荒々しく次々と捕縛してどこかに連れて行った。


 寝殿付近に集まって怯えていた多くの公卿たちには、この一連の騒動は、桐壷御息所きりつぼのみやすどころ桐壺更衣きりつぼのこういの御霊を利用した、北山の大僧正一派の起こした仕業と捉えられ、彼らと間一髪で関係の切れていた僧官そうかんたちは、大きな安堵のため息をつく。


 葵の上の身の上に起きた一件を、真白の陰陽師たちに記憶から消された公卿や僧官そうかんたちは、ひそやかに言葉を交わしながら、その日の深夜になって、ようやくそれぞれ自分のやかたや寺院に帰っていた。


「いやはや、三毒に、桐壷御息所きりつぼのみやすどころ、すべて北山の大僧正の画策とは」

「第二皇子はどうなることですかな? 母が『狐』と言われた、どこぞの陰陽師よりも危ういお立場……おっと、これは他言無用でしたな。それに正式には、既に皇子でもいらっしゃらぬのでした」

「そうですよ、これは出してはならぬ、先帝の信用にかかわる大事です。しかしながら、な公卿は、第二皇子の後見には立たぬでしょうな」


 なお捕縛された北山の大僧正や他の僧侶たちは、洗いざらいを白状させられ、後日、すべての特権を褫奪ちだつされ、籍を置く寺や私財をも朝廷に接収された上に、『補陀落渡海ふだらくとかい』の修行をみずから申し出たと公式には発表された。


 補陀落渡海ふだらくとかいとは、百と八の石を体に巻きつけた行者が舟に乗り込み、伴走船が沖まで舟を曳航したあと、綱を切って見送る片道切符の修行であり、もちろん生きて帰る者などなく、この発表は彼らにとって、修行という名の死刑宣告であった。


「助けて、誰か助けてくれ!」


 遙か沖合の荒い波間、暗闇で北山の大僧正たちは、叫んでいたが、やがて声は消え、いつしか船ごと海の藻屑となった。


 数か月後、彼が用意していた少なくない寺院に隠された武器の数々と僧兵は、新しい帝の元、その錦の御旗の元に、朝廷が差し向けた使者と、背後に控える圧倒的な兵力に囲まれる。


 僧兵たちは、はじめは籠城戦を唱えていたが、新しい帝の名の元で、次々に打ち出された政策により、帝はすでに圧倒的な民の人気を集め、自分たちの荘園からですら、物資の提供は見込めなかった。


 その上、新しい帝は桐壷帝が放棄していた、本来行われるべき儀式の数々を、休みなく執り行い、歴代でも屈指の力を発揮し、平安京に彼らの呪法の力が入り込む隙のない結界を作り直していたので、すべての意味で観念するしかなく、無血のままで、大僧正たちの残党と、朝廷側の戦いは終わることとあいなったのである。

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