第30話 Letter 2
「恐縮です……」
姫君の身も蓋もない言葉に“六”は言葉の返しようがなかったが、あまりの無防備さに、少し心配にもなる。
深窓の姫君ゆえ、一度信頼した相手には、疑いを知らぬご様子であった。
本当のところは顔を隠すことに、いまだに慣れていない葵の君だった。思い込みとは不思議なものである。
「遅くなりましたが、あらためて名を、おうかがいしても?」
「……“六”とお呼びください」
一瞬、本名を口にしようとした自分に、内心で
「昨日はありがとうございました。“六”、
いと高き身分の姫君が、こともあろうか自分に直接、礼を述べられている。
驚きに瞬きを数回。
姫君の透き通る声が、耳に心地よくこぼれる。優しく微笑む口元から吐く息は白く、小さな手が寒さで小刻みに震えているのに気づいた彼は、口の中で小さく
これも無礼な振る舞いに入るであろうが、凍えそうな姫君を、見て見ぬ振りは、できようはずもない。
彼を知る者が見れば、彼が自分の意思で、人を気遣うなどということができたのかと、驚いたことであろう光景ではあったが。
「あ……」
“六”の手からでて、部屋全体に広がる暖かな“気配”に驚いた顔をして、姫君はしばらく“六”の顔と、自分にかざされた手を、不思議そうに交互に見ていたが、やがて当初の目的を思い出したのか、胸元に挟んだ綺麗な
「こちらを
“桜色は
「うけたまわりました」
昨日の礼状なのであろうか、そうであれば使用人ではなく、
「もう一通は、どちらに?」
「
「え……?」
「今日、お会いできるかどうか分からなかったので、ご用意しておりました」
そう言った姫君は、
多分、自分でなくともよかったのだろうが、昨日の怨霊騒ぎは、誰にでも話せることではなく、ひとりで不安を抱えていたのであろう。
この優しい姫君が、ご自分の母宮に気をつかって、なにも言わなかったことが、簡単に推察できた。
内裏に
回復したとはいえ、大人でも重圧であろう話を心に抱える、病み上がりの幼き姫君を、“六”は心から気の毒に思った。
自分も加担しているが、深窓のいとけない姫君を『薬師如来の具現』と持ち上げ、内裏での保護を
無感情になることで、生き延びてきた“六”は、無表情なまま、内心、心がざわつくのを感じ、気がつくと、姫君に言ったとて、最早どうしようもない台詞が、つるりと口からこぼれていた。
「お断りになっては、いかがでしょうか? あまりに重すぎる話でありましょう……」
驚いた顔で姫君は自分を見上げ、少し悲しそうな色を瞳に浮かべると、うつむいてしばらく考えてから、ささやくように返事を返して下さった。
「どうしてわたくしが断ることができましょうか? 母君、父君、そして周りの皆様方のすべてに、わたくしが病に伏せてから、どれほどのお力添えを頂いたことか……この度も、皆様がわたくしを心配するがゆえの思し召しです」
葵の君は、自分でそう言いながら、ぐっと奥歯を噛みしめる。
そうなのだ、あの時、自分が“本物の葵の君”を、この世界から弾きだした。
ひたすら姫君を見守る優しい家族に恵まれた環境。ひょっとしたら、自分がなにも言わずに、暗いトンネルを、お互いに引き返せば、彼女は自分自身で、自分の力で運命を変えて、新しい人生を送ったのかもしれない。
彼女はあの暗がりを歩き、わたしとすれ違っただけなのかもしれなかった。
『薬師如来の具現』などと言われながら、周囲を
根が真面目な彼女は、いまは小さな手のひらを、膝の上で握りしめた。だからそのくらいの、お返しは当然なのだ。
「姫君……」
「ありがとう、優しい言葉をかけてくれて、少し心の整理がつきました」
「わたくしたち陰陽師をはじめ、
無礼ながらも、つい慰めてあげたくて、そっと頭を撫ぜた“六”は、責任感の強い姫君の心が、少しでも軽くなればとそう言う。
姫君は“六”にかけられた言葉に、嬉しそうにほほえんで、
「これは?」
「紙で折った
「
自分たちも紙で式神を作ることはするが、姫君のくれた紙でできた不思議な“鳥”(
初めて見た紙の小鳥は誠に可愛らしく、それを誰に聞くでもなく折り上げたのは、目の前の不思議な姫君だと“六”は直感し、唐突に気がついた。
地位、権力、財産、知性、美貌、すべてに恵まれながら、姫君は自分と同じくひとりぼっちで、この豪華で壮麗な箱庭にポツンと住んでいるのだと。
家族にも将来にも恵まれた、何不自由のない身分高き姫君なれど、話の端々に出る何者も持ち合わせない異端ともいえる聡明さ、さまざまなことを見通す不思議な力と、魂の色から思うに、幸せそうに見えても常に気を張り、周囲に合せて暮らしているのだろうと察する。
比べるのも畏れ多いが、周囲を等しく拒絶することで生きてきた自分と、周囲に等しく慈悲を見せる姫君は、浮きこぼれた存在の、裏と表のようなものだと思う。
そして“六”はいままで理解ができなかった、
口には出さぬが、彼の幼き日の小さな大宮との幸せな思い出と、彼女からの支援に比べ、彼が密かに払ってきた犠牲は大き過ぎるし、馬鹿らしいとさえ、いままで思ってきた。
しかし、だからこそ、いまの己の気持ちと、彼の心情を理解する。
この小さき姫君の笑顔を守るために、自分にあてられた
いつの間にか、うっすらと浮かんでいた姫君に重なる人影は、どちらが本体か分からぬほどに、まるで『
“六”は受け取った自分宛の手紙を
彼が小声で“
姫君は“六”に『紙の小鳥は“式神”になった』と聞いて、不思議そうな顔で、両手で小鳥を包むように持っている。
彼女は“式神”の説明に注意深く耳を傾けたあと、ニッコリと“六”にほほえんで、神妙な顔で小鳥をのぞきながら屋敷の奥に帰ってゆく。
『小さな救いの光を、“
“六”は生み出した“式神”にそう念じ、はからずも
そして無事に朝がきたあと、そっと左大臣家から姿を消した。
彼もまた、
「か、かわいいですね――!!」
「……でしょう?」
翌朝、
葵の君は内心ドキドキしていたが。
いざとなれば命令にしたがって、敵を攻撃したりもできるんだって! なにその恐ろしい機能のついたWebカメラ! この子、本当はミサイル搭載のドローンかなにかなの?!
鳥籠の用意をと言いながら、姿を消した紫苑を見送った葵の君は、
〈
『
わずかに甘い、睡蓮のような薫りのする桜色の料紙を開くと、料紙の上に、素直な筆運びで書かれた文字が浮かんでいる。
「恐るべき存在ながら、実に子供らしい姫君だ……」
手紙の筆の跡の美しさと、大人びた内容に感心したが、最後に描かれている猫の絵に、苦笑いする彼であった。
やはり彼女は幼い姫君なのだ。
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