第30話 Letter 2

「恐縮です……」


 姫君の身も蓋もない言葉に“六”は言葉の返しようがなかったが、あまりの無防備さに、少し心配にもなる。


 深窓の姫君ゆえ、一度信頼した相手には、疑いを知らぬご様子であった。


 本当のところは顔を隠すことに、いまだに慣れていない葵の君だった。思い込みとは不思議なものである。


「遅くなりましたが、あらためて名を、おうかがいしても?」

「……“六”とお呼びください」


 一瞬、本名を口にしようとした自分に、内心で自嘲じちょうした“六”は、しばし沈黙したあとに、通り名を口にした。


「昨日はありがとうございました。“六”、貴方あなたがいらっしゃらねば、わたくしも紫苑もどうなっていたことか、お礼が言えてよかったです」


 いと高き身分の姫君が、こともあろうか自分に直接、礼を述べられている。


 驚きに瞬きを数回。


 中務卿なかつかさきょうはまだ分かる。彼は姫君の母宮と同じく、先の帝を父に持つ元皇子だ。しかし自分と姫君は、立ち位置が違いすぎる。本来なら声を聞くのも畏れ多い立場であった。


 姫君の透き通る声が、耳に心地よくこぼれる。優しく微笑む口元から吐く息は白く、小さな手が寒さで小刻みに震えているのに気づいた彼は、口の中で小さくしゅを唱え、姫君にそっと自分の手をかざす。


 これも無礼な振る舞いに入るであろうが、凍えそうな姫君を、見て見ぬ振りは、できようはずもない。


 彼を知る者が見れば、彼が自分の意思で、人を気遣うなどということができたのかと、驚いたことであろう光景ではあったが。


「あ……」


“六”の手からでて、部屋全体に広がる暖かな“気配”に驚いた顔をして、姫君はしばらく“六”の顔と、自分にかざされた手を、不思議そうに交互に見ていたが、やがて当初の目的を思い出したのか、胸元に挟んだ綺麗な若苗わかなえ色と、桜色の料紙で包まれた二通の手紙を、そっと柔らかくなぞって取り出すと、一通ずつ自分に差し出した。


「こちらを中務卿なかつかさきょうに届けて頂けますか?」


“桜色は中務卿なかつかさきょう”心の中に書き留める。


「うけたまわりました」


 昨日の礼状なのであろうか、そうであれば使用人ではなく、陰陽師おんみょうじに託すことは、九歳とは思えない判断力である。


「もう一通は、どちらに?」

貴方あなた様に」

「え……?」

「今日、お会いできるかどうか分からなかったので、ご用意しておりました」


 そう言った姫君は、若苗わかなえ色の手紙を“六”に手渡すと、安心したような表情をしてから、ぽつぽつと独り言のように、自分に向かって話をはじめる。


 多分、自分でなくともよかったのだろうが、昨日の怨霊騒ぎは、誰にでも話せることではなく、ひとりで不安を抱えていたのであろう。


 この優しい姫君が、ご自分の母宮に気をつかって、なにも言わなかったことが、簡単に推察できた。


 内裏に尚侍ないしのかみとして出仕すること、自分の安全もあるが、帝にも怨霊の気配がないか注意を払うこと、その他、ほぼすべての話を、すでに聞いているご様子である。


 回復したとはいえ、大人でも重圧であろう話を心に抱える、病み上がりの幼き姫君を、“六”は心から気の毒に思った。


 自分も加担しているが、深窓のいとけない姫君を『薬師如来の具現』と持ち上げ、内裏での保護をうたうことで、大人たちは姫君を帝のためにいいように、利用しているのでは? そんな風にすら思えてくる。


 陰陽師おんみょうじに備わるべき、突き抜けた才があった幼い自分を養うことで、周囲に同情と称賛を買い、利用してなり上がった、いまはこの世にはいない、どこぞの胡散臭うさんくさいつわり陰陽師おんみょうじと、姫君を守ると言いながら、危険に追いやろうとする自分たちは、ひょっとして同じではないのだろうか?


 無感情になることで、生き延びてきた“六”は、無表情なまま、内心、心がざわつくのを感じ、気がつくと、姫君に言ったとて、最早どうしようもない台詞が、つるりと口からこぼれていた。


「お断りになっては、いかがでしょうか? あまりに重すぎる話でありましょう……」


 驚いた顔で姫君は自分を見上げ、少し悲しそうな色を瞳に浮かべると、うつむいてしばらく考えてから、ささやくように返事を返して下さった。


「どうしてわたくしが断ることができましょうか? 母君、父君、そして周りの皆様方のすべてに、わたくしが病に伏せてから、どれほどのお力添えを頂いたことか……この度も、皆様がわたくしを心配するがゆえの思し召しです」


 葵の君は、自分でそう言いながら、ぐっと奥歯を噛みしめる。


 そうなのだ、あの時、自分が“本物の葵の君”を、この世界から弾きだした。


 ひたすら姫君を見守る優しい家族に恵まれた環境。ひょっとしたら、自分がなにも言わずに、暗いトンネルを、お互いに引き返せば、彼女は自分自身で、自分の力で運命を変えて、新しい人生を送ったのかもしれない。


 彼女はあの暗がりを歩き、わたしとすれ違っただけなのかもしれなかった。


『薬師如来の具現』などと言われながら、周囲をあざむき続けている自分は何者だ? ただの『詐欺師』ではないか。


 根が真面目な彼女は、いまは小さな手のひらを、膝の上で握りしめた。だからそのくらいの、お返しは当然なのだ。


「姫君……」

「ありがとう、優しい言葉をかけてくれて、少し心の整理がつきました」

「わたくしたち陰陽師をはじめ、中務卿なかつかさきょうが、姫君をお守りしていることを忘れないで下さい」


 無礼ながらも、つい慰めてあげたくて、そっと頭を撫ぜた“六”は、責任感の強い姫君の心が、少しでも軽くなればとそう言う。


 姫君は“六”にかけられた言葉に、嬉しそうにほほえんで、薄藤うすふじ色の唐紙でできた不思議な“小鳥”(折り紙の鶴)と手紙を自分に渡してから、部屋の奥へ戻ろうとする。


「これは?」

「紙で折ったつるです」

つる?」


 自分たちも紙で式神を作ることはするが、姫君のくれた紙でできた不思議な“鳥”(つるには見えない)は、確かになんの“しゅ”もかかっていないのに、端をそっと引っ張ると翼を広げる。


 初めて見た紙の小鳥は誠に可愛らしく、それを誰に聞くでもなく折り上げたのは、目の前の不思議な姫君だと“六”は直感し、唐突に気がついた。


 地位、権力、財産、知性、美貌、すべてに恵まれながら、姫君は自分と同じくひとりぼっちで、この豪華で壮麗な箱庭にポツンと住んでいるのだと。


 家族にも将来にも恵まれた、何不自由のない身分高き姫君なれど、話の端々に出る何者も持ち合わせない異端ともいえる聡明さ、さまざまなことを見通す不思議な力と、魂の色から思うに、幸せそうに見えても常に気を張り、周囲に合せて暮らしているのだろうと察する。


 比べるのも畏れ多いが、周囲を等しく拒絶することで生きてきた自分と、周囲に等しく慈悲を見せる姫君は、浮きこぼれた存在の、裏と表のようなものだと思う。


 そして“六”はいままで理解ができなかった、中務卿なかつかさきょうが、彼の人生の中で、三条の大宮のために払う心配りを、やっと理解することができた。


 口には出さぬが、彼の幼き日の小さな大宮との幸せな思い出と、彼女からの支援に比べ、彼が密かに払ってきた犠牲は大き過ぎるし、馬鹿らしいとさえ、いままで思ってきた。


 しかし、だからこそ、いまの己の気持ちと、彼の心情を理解する。


 この小さき姫君の笑顔を守るために、自分にあてられた若苗わかなえ色の手紙と、今宵のささやかな楽しい思い出ゆえに、これから先の自分は、姫君を光の中で保護するために、喜んであらゆる闇を引き受けるのであろうと。

 

 いつの間にか、うっすらと浮かんでいた姫君に重なる人影は、どちらが本体か分からぬほどに、まるで『天香桂花てんこうけいかの君』といった風情で、月の光に輝いている。


 あやかしでもなく怨霊でもない、この輝ける『天香桂花てんこうけいかの君』を背負った、幼き姫君の真白の笑顔に魅入られる運命であったがゆえに、自分の持ち合わせていないはずの感情と魂は、いままで密かに取り置かれていただけなのだろう。


“六”は受け取った自分宛の手紙を直衣のうしにしまうと、そっと右手で左の胸元に薄藤うすふじ色の紙でできた“鳥”を押しつけて目を閉じる。


 彼が小声で“しゅ”を唱えて、右腕を高く夜空にかかげると、紙でできた“鳥”は、一瞬彼の手の中で藤色の煙となり、直後に本物の小鳥の姿に変化へんげすると“式神”として、驚いた表情の姫君の元へ羽ばたいてゆく。


 姫君は“六”に『紙の小鳥は“式神”になった』と聞いて、不思議そうな顔で、両手で小鳥を包むように持っている。


 彼女は“式神”の説明に注意深く耳を傾けたあと、ニッコリと“六”にほほえんで、神妙な顔で小鳥をのぞきながら屋敷の奥に帰ってゆく。


『小さな救いの光を、“天香桂花てんこうけいかの君”を、僕の代わりに見守っていておくれ……』


“六”は生み出した“式神”にそう念じ、はからずも中務卿なかつかさきょうと同じく幼き姫君に浮かび上がった姫君を『天香桂花てんこうけいかの君』と心の中で呼ぶ。


 そして無事に朝がきたあと、そっと左大臣家から姿を消した。


 彼もまた、中務卿なかつかさきょうが幼き姫君に浮かび上がる不思議な姫君を『天香桂花てんこうけいかの君』と称していることは知らなかった。


「か、かわいいですね――!!」

「……でしょう?」


 翌朝、薄藤うすふじ色の小鳥が姫君の側で愛らしく羽ばたいては、姫君の手にとまっているのを、紫苑をはじめとした周囲の女房たちは、ほほえみながらながめていた。


 葵の君は内心ドキドキしていたが。


 いざとなれば命令にしたがって、敵を攻撃したりもできるんだって! なにその恐ろしい機能のついたWebカメラ! この子、本当はミサイル搭載のドローンかなにかなの?!


 鳥籠の用意をと言いながら、姿を消した紫苑を見送った葵の君は、薄藤うすふじ色の文鳥のような可愛い小鳥に、しばらくかまっていたが、やがて紫苑がどこからか持ってきた金色の鳥籠に、小鳥を入れると、朝の支度をと女房たちにうながされて、おもむろに立ち上がった。



中務省なかつかさしょう


 中務卿なかつかさきょうは“六”に姫君から自分宛の手紙を受け取り、彼が曹司から姿を消すと、厨子ずし(手紙入れ)に入れて、仕事に戻ろうと思ったが、思いなおして包まれた料紙を開く。


中務卿なかつかさきょうへ』


 わずかに甘い、睡蓮のような薫りのする桜色の料紙を開くと、料紙の上に、素直な筆運びで書かれた文字が浮かんでいる。


「恐るべき存在ながら、実に子供らしい姫君だ……」


 手紙の筆の跡の美しさと、大人びた内容に感心したが、最後に描かれている猫の絵に、苦笑いする彼であった。


 やはり彼女は幼い姫君なのだ。



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