第223話 祓い 4

 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、言うまでもなく誰よりも気が強く、尚侍ないしのかみにも、全幅の信頼を置いていたが、やはりそこは、人知の手が及ばぬ『御仏の御告げ』の話。顔には出さぬが、やや心細く思う気持ちもあった。


 しかしながらその異変に、公卿や坊主たちの恐れおののく様相とは正反対に、ようやくほっと一息をついて、萩が女房に用意させた『薫香茶こうかちゃ』で喉をいやす。


 彼女は萩が柱の隙間からのぞき見た、大僧正だいそうじょうのあっけにとられた様子を聞いて、愉快そうに、ほほえむと、空の高くに見えるまるですべてを覆うような鳥の大群を見上げ、「あとは頼みましたよ」心の中で尚侍ないしのかみにそう言った。


 帝がいる寝殿しんでんにつながる木階(階段)には、ぞろぞろと蛇の群れが庭から這い出し、どこからきたのか青白い炎をまとう白いいのしし(豚)が、御簾内で眠る帝の左右に、どっかりと腰をおろす。


 国家の最高機関である、二官八省の頂点に座する公卿たちは、さすがに逃げ出す者こそいなかったが、目の前の光景に騒然となるのは、しかたのないことであった。


「おお……なんという……」

「“三毒さんどく”が、とんじんが、帝のまわりを……」

「大火は、帝がいらした後涼殿こうろうでんから出たとは聞いておりましたが……」

「それもなにやら仏罰とのうわさ……なんと恐ろしいことでしょう」


三毒さんどく”とは、仏教の教えにある“人の世にある諸悪と苦しみの根源”であり、とんじんとは、もっとも大きなみっつの煩悩とされている。そして、とりへびぶたは、それぞれの象徴であった。


 そんな時、周囲の怯えをよそに、突然むくりと起き上がった帝は、“三毒”がまるで見えておらぬ様子で、あたりを見回しているのが、御簾越しにも分かり、視線で合図をしあってから、蔵人所の別当と頭中将とうのちゅうじょうが、恐る々々、中に消え、皆は息を飲んでじっと様子をうかがっていた。


 帝は側に控えていた女房たちが、大騒ぎをして姿を消したのをいぶかしく思ったが、すぐにやってきた蔵人所の別当が、いのししの様子をうかがい、太刀に手をかけたままの頭中将とうのちゅうじょうを従えて、昨夜の大火で内裏が燃え落ちたことや、いまは里内裏として、弘徽殿女御こきでんのにょうごの実家である、右大臣のやかたにきていることを奏上する。


「内裏が燃えた……」


 しばらく周囲を見回していた帝は、それを聞いて慌てて自分の懐を探る。当然のことながら、懐にあったはずの『離縁状』は消えていた。


「燃えたのか……」


“離縁状”を心配して呟いたその言葉に、勘違いした別当が返事を返す。


「内裏はすべて燃え落ちましたが、幸い東宮や后妃方、親王、内親王方、皇子は皆様ご無事でいらっしゃいま……」

「内裏などどうでもよい!!」


 別当に返した悲痛な帝の声は、御簾の外にも響き渡った。


『内裏などどうでもよい!!』


 これすなわち、国の守護者としての最高位を放棄した言葉に、御簾の近くに座していた承和大納言そがのだいなごんは苦悩の表情で、みなの総意を絞り出すような声で口にした。


「帝は……もはや、もはやあの時、桐壷更衣きりつぼのこういが、後宮に現れたあの日より、内裏の内側で“三毒”に取り憑かれていたのだ……」

「内裏を出たことで、帝に取り憑いていた“三毒さんどく”がついに姿を現した! あな恐ろしや! 恐ろしや!!」


 横にいた中納言は手にしていた杓を取り落とし、さも恐ろしそうに、袖で顔を覆いながらそう口走る。


 まるで押し寄せる波のような“三毒さんどく”の蛇や鳥の群れは、なにかを狙うように御簾内に殺到すると、やがていのししと一緒に帝の体の中に入るように消えてしまう。それを境に右大臣家のやかたに流れる遣水やりみずが赤く染まり、帝は再び床に臥せると、苦悶の表情で浅い息を繰り返しだした。


 皆は、なんとかしろと、北山の大僧正だいそうじょうの方に、視線を一斉に向けたが、彼は曲がった腰を抜かして、その場にへたり込んでいるだけだった。


 しかし横にいた煤竹法師すすたけほうしは、大きな問題を抱えた人物であったが、同時に苅安守かりやすのかみが認めるその実力で、その濁ったまなこに、真実を見い出していた。


『この騒ぎがとんだ茶番だと』


 彼が庭に飛び降りて、経を唱えようとしたその瞬間、明るい一筋の光が差し、それまでの毒々しい空は、いつもと変わらない美しい夜空に変わり、法師も思わず口を開けたまま、ポカンと光の方角に目をやった。


 どよめきが起こる中、多数の女官を従えて現れたのは、神々しいまでのご様子の、しかしまだ幼さの見える姫君。


 煤竹法師すすたけほうしは、誰に言われずとも己の心眼をもって見た、“六”がかつて見出した、彼女から放たれる見たことがない『不思議な色の光』に理解する。


『アレが薬師如来の具現だと……』


 それは、臣下においては、摂関家だけに許された竜胆唐草りんどうからくさ文様をあしらった高雅な十二単じゅうにひとえを身にまとい、数日前に焼け出されたばかりとは思えぬ、光り輝くように美しく、威風堂々とした尚侍ないしのかみのお姿であった。


尚侍ないしのかみが、薬師如来の具現が、この禍々しき世界を、騒動をお救い下さった……」


 承和大納言そがのだいなごんの漏らした言葉は、極一部を除いたこの場にいるすべての人々の総意であり、我が身を顧みずに、あまねく周囲の者を救うために『降臨された』そんな神聖な尚侍ないしのかみを凝視する非礼を犯さぬように、みなは次々とひれ伏してゆく。


 尚侍ないしのかみには中務卿なかつかさきょうが、影のようにつき添っている。彼女はへたり込んだ北山の大僧正だいそうじょうを無視し、中務卿なかつかさきょうになにか伝え、女官たちを待たせたまま、帝がおわす御簾の中に優雅に滑り込む。


 煤竹法師すすたけほうしは、呆然としたまま尚侍ないしのかみを見送っていた。初めて目にした尚侍ないしのかみの照り輝くような、拝むことすら恐れを抱くような美貌と、堂々としたご様子、彼女を取り巻くなにもかも恵まれた環境と地位を思い、自分が救えなかった桐壷御息所きりつぼのみやすどころはかなさと不遇を振り返ると瞼を閉じる。


 あのなにもかも恵まれ、御仏の加護すら受ける尚侍ないしのかみには、内裏で苦労に苦労を重ね、ただひたすらに自分の産んだ皇子のことを心配し、周囲から受ける心労のあまり、寿命を縮めて死んだ彼女の気持ちなど、ひと欠片かけらも理解はできはしないだろうと思いながら。


 目がくらむほどの聖なる光と、豪奢な衣に身を包み、なにひとつ憂うこともなく、帝ですら疎かにはできぬ……摂関家のいと優雅な、幸せしか知らぬ姫君。


 葵の上の『それどころじゃない&公務だから!』そういった理由で、大慌てで走り抜けただけの、姫君にあるまじき所作ですら、視線を送る無礼を避けるのは『支配される側の役目』そんな態度だと、法師の眼には映った。


 突然、煤竹法師すすたけほうしは、もう忘れていた、俗世に置いてきたはずの突き刺さるような、煮えたぎるような、生まれ持った境遇と運命への理不尽な怒りと憎しみを、なぜか尚侍ないしのかみに覚える。


『だから君は“破戒僧”にしかなれぬのだよ』


 そんな苅安守かりやすのかみあざける言葉が聞こえた気がしたが、もうそれすらも、どうでもよかった。


『どうかわたくしのために、あの女を深淵しんえんふちに投げ込んで……』


 誰よりも優しい心を持ち合わせたばかりに、誰よりも辛く虐げられていた、夢のようにはかなく美しかった桐壷御息所きりつぼのみやすどころが、どこからか自分にそう語りかけている……そんな気がした。


『やり過ぎじゃないのかなぁ……』


 当の本人、葵の上は、見ず知らずの僧侶が睨んでいることにも気がつかないまま、そんなことを思いつつ、帝のいる御簾の中にいた。


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