第269話 青海波 2

 准太上天皇じゅんだいじょうてんのうの昔の境遇を知る者は、彼のことを羨み、日々の努力の大切さを、自分の子弟に説いていたし、准太上天皇じゅんだいじょうてんのうとなった中務卿なかつかさきょうや、女院となった葵の上も、光源氏を反面教師に、自分たちの子供に深く愛情は注いだが、幼い頃から決して甘やかさずに育てていた。


『あの御堂の缶詰地獄にならないように、小さな頃から、少しずつコツコツと……』


 それは葵の上の、お子たちへの愛情でもあったし、准太上天皇じゅんだいじょうてんのうの教育方針でもあった。


 そんな風に、二人は臣下の地位を離れ、その先も多忙ながら、栄耀栄華に包まれ、末永く幸せに暮らし、内裏や京のやかたにも、幸せな笑い声が途切れることはなく、国中も平和で豊かな時が流れ、人々はいつまでも幸せに暮らしておりました……。


小豆あずきご飯から、小豆あずきを抜いてしまっては、意味がないでしょう? お菓子は抜きです」

「ごめんなさい母君……」

「ごめんなさい母君……」

「ごめんなさい母君……」

「ごめんなさい母君……」


「少し目を離すとこれでは、先が思いやられます!」

「言うことを聞かぬのは、母君に似たのでは?」

「え?」

「仕事のし過ぎです。やかたには、持ち帰らない約束ですよ」


 まだ自分の子供たちが幼い時分に、小言を言っていた葵の上は、将仁まさひと様に内裏から持ち帰った料紙の束を取り上げられ、言い訳をする母君と、とがめながらも、ごく優しい眼差しで、母君を見ている父君を、子供たちは笑顔でながめていた。


「もう!!」

「せっかくの休みなのですから、なにか楽しいことをなさっては……」


 将仁まさひと様にそう言われて、葵の上は少し悩んでから、将仁まさひと様と一緒に子供たちを連れて、やかた内の道場に行くと言い出し、将仁まさひと様は、やれやれといった顔をしていたが、子供たちも嬉しそうなので、まあいいかと、家族団欒? の幸せなひと時を、道場で過ごしていた。


 *


 なお、刈安守かりやすのかみが残したラテン語の本が、彼のつけていた開くのも恐ろしい日記と共に、葵の上のところにたどり着き、無事に訳されたのは、それから少し先で、挿絵を担当した桜姫こと花音かのんちゃんは、その仕事が終わると、人になって魔法も使えないし、もう二度と例の謎の空間も表れなかったので、相変わらず陰陽師たちと二条院で、ロウソクや石鹸なんかを作りながら、たまに頼まれて女武官に、稽古をつけに行ったりして、平和に暮らしていた。


 彼女は、唐から摂関家の船に乗ってやってきた、やんごとなき姫君という触れ込みで、平和に暮らしていたのである。


「お代わりは二杯までです!」


 不満そうな彼女に、そう強く言うのは、まだ仕事を引退していない“伍”であった。葵が知っていた真白の陰陽師たちの中で、いまも現役なのは、この“伍”と“六”だけで、残りは無事に引退したのちに、桜姫の商いを手伝ったり、やかたの庭で蜜柑を栽培したりしていた。


「あ――、また、炊いた米がなくなっている! 桜姫!」


“弐”は“伍”がそう言って出かけたあと、釜をのぞくと、夕餉の分まで炊いたはずの、ご飯が減っているのに気づき、大声で叫ぶ。


「に、二回しか、お代わりはしてないから!」


 花音かのんちゃんが盛り上げた、昔話に出てくる以上に、高くそびえ立つような、ご飯の山の上で、直角に突き刺した箸は、あまりの高さに、ふるふると震えていた。


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