第106話 彼方からの晴嵐 2

「…………」


 いきなり育っての鉄分不足。きっと骨密度も下がっているだろうなと、中務卿なかつかさきょうにもたれながら、葵の君は思う。


 説教も忘れて、心配そうに自分を見ている彼に、照れたように小さく笑いかけた。


「ほかの人は、大丈夫みたいですね」

「まったく……あきれてなにも言えない」


 中務卿なかつかさきょうは、大きなため息と共に安堵して、葵の君を思わず抱きしめた。姫君の意識が戻るまでは、どうさとしたものかと、考えあぐねていたが、気がついた葵の君の、花がほころぶような笑顔を見てしまっては、本当になにも言えない。


 姫君の行動は幼いゆえに、深い考えもなくしでかした短絡的なことであるし、それよりも目の前の美しく華やかに大人びた魅惑的な姫君が、なんの下心もなく自分に懐いている姿に、「本当は十歳なのだ」と、密かに自分をいましめていた。


 懐いてくれるのは嬉しいが、相応の年頃の姫君が取る態度ではない。


 かと言えど十歳の姫君に、いわゆる男女の事柄を説明するのも、早過ぎるのか遅すぎるのか、子供どころか結婚も予定になかった自分にはサッパリであったが、裳着もぎを済ませたとはいえ、やはり早すぎる気しかしない。頭の中に元の姫君の姿を思い浮かべた。


『十歳、十歳、十歳……』


 彼は心の中で呪文のように三度唱え、混乱するのも無理のないことだと、自分で自分に言い訳をしてみたりもする。


 なにせ目の前に現れた、尊き美しさに包まれた木花咲耶姫このはなさくやひめもかくやといった姫君は、摂関家のうしろ盾がなくても、求婚者が左大臣家から羅城門を突き抜けて、京の門外まで、並んだとしても、不思議ではないと正直思う。


「十歳……」

「どうかなさいましたか?」


 中務卿なかつかさきょうは、姫君の自分を見つめる、無邪気で不思議そうな顔に、罪悪感を抱いた。


 第二皇子のことがあって、自分の妻とすることで緊急避難させたというのに、自分が姫君に対して、どうこう思うのは本末転倒。いずれ葵の君の安全が保障されれば、せめて入内できないという事実以外、姫君が世間を知り、恋文を交わすような相手が現れれば、自由にして差し上げるべきなのだ。


 一夫多妻制の世の中ながら、臣下の立場であれば、母系社会であるため、たとえ夫がいても、実家のうしろ盾と本人次第で、複数の恋人を持つことや、正妻の立場であっても、夫以外の恋人の子を産む場合も、割合にあることであったので、中務卿なかつかさきょうは、その心積もりで姫君を、籍だけの自分の妻とするつもりであった。


「もう二度と、このようなことは、なさらないで下さい。これが明るみに出れば、かばい切れません」

「どうなってしまうのでしょう? いっそのこと、大宰府にご一緒しようかしら?」


 首を傾げ、悪戯っぽい笑みを浮かべる姫君は、なぜか元の姿よりも年相応に見えた。ふと、姫君の本来の姿は、こちらではないのかと思い、そんな風に考える自分の下心にうんざりした。


 彼は桜色の爪が綺麗に並んでいる葵の君の両手を取って懇願する。


「“葵の上”これからは、このような無茶な振舞いは、決してなさらないで下さい」


 どうして“葵の上”と呼んだのかは、自分でも分からなかった。


天香桂花てんこうけいかの君”の具現そのものであるいまの姫君を、幼い姫君と同じように“葵の君”と呼ぶのは、無意識に違和感があったのか、本当のところは“葵の上”と姫君を呼ぶことで、姫君を自分が恋をしてもおかしくない、年相応の存在だと位置づけたかったのかもしれない。


将仁まさひと様が、そうおっしゃるのであればそういたします」


 中務卿なかつかさきょうは、自分の中に芽生えた下心がやましくて、素直に返事をされる姫君の顔をまともに見ることができず、早く元に戻して、なかったことと忘れてしまおうと思う。


『十歳、十歳、十歳……』


 彼は再びそう思いながら、そっと姫君のほっそりとした首のうしろに片手をあてて、触れるだけの口づけをしようとするが、不意に姫君が床下に吸い込まれる灰色の幻覚が浮かび、姫君を抱き上げてうしろに飛び下がると、一瞬の差で畳の周囲にどす黒い穴が開き、畳はその穴の中に吸い込まれてゆく。


御神刀ごしんとうを!」


 九字くじを唱えだしている“弐”の横で、“六”は、自分にかけられた声に、素早く反応していたが、目の前の光景に目を疑った。


“六”が『中務卿なかつかさきょう』に投げた御神刀ごしんとうは、姫君の手元に飛んで行ったのだ。

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