第105話 彼方からの晴嵐 1

〈 話は『葵』が転生した源氏物語の世界/時系列は、葵の君が朝餉を食べていた頃に戻る 〉


 葵の君は、気まずさしかない沈黙の中、それでも朝餉を全部食べ終えていた。


 中務卿なかつかさきょうは、本日の客人はすべて断るようにと家人に告げ、とりあえず四人で、「ああでもない、こうでもない」と、姫君の体の伸び縮みについて話し合う。


 時間はあっという間に過ぎ、昼を軽々と回り、葵の君は母君から届いた手紙を読みもせずに、横に置いて悩み続けていた。 


『寺だけは、精進料理だけは嫌だ!』


「これも怨霊の“祟りのひとつ”なのでしょうか……」


 同情を買おうと、しょんぼりとうつむいて呟いてみる。案の定、中務卿なかつかさきょうと“六”は、少し慌てた様子で、自分を慰めようと、言葉を選んでいる。やや安心した。


『まあ陰陽師は、寺に行けとか言う前に、わたしを退治しようとする気がするけど、わたしは悪人じゃないしね!』


 運命の女神の気も知らず、葵の君は、のうのうとそんなことを思っていた。


「朝、姫君が元に戻ったことをかんがみて、星の巡りは関係がなさそうですね。やっぱり“口づけ”じゃないでしょうか? それしかないでしょう!」


 わたしの耳を塞ごうとする、中務卿なかつかさきょうの動きを待たずに、業を煮やした様子の“弐”がハッキリと言い切った。


「えっ?!」


『わたしはキスされると、大人になったり、子供になったり伸び縮みするらしい!! なにその魔法?!』


「条件的に考えて、姫君の意識があることですね。あとは……」

「意識がある?」


 思わず聞き返したわたしに、“弐”は重々しくつけ加えた。


「姫君はご存じないでしょうが、裳着の夜、かなり大変なことがあって、姫君が無意識だと“口づけ”をしても、大きくならないのは、分かっているんですよ。あとは誰とでも“そう”なる体質なのかどうかの判断ですね」

「裳着の夜に“口づけ”……誰とですか?」


“弐”のあけすけな言葉に、その場の空気は凍りついていた。心の中では“弐”に賛同した“六”も、気まずそうに目を逸らす。


 中務卿なかつかさきょうが、視線で殺せるくらいの勢いで“弐”を睨みつけていたので、はっと気がついた。


「裳着の夜のことは、覚えていないことが多いのですが、ひょっとして、その時、わたくしは中務卿なかつかさきょうと……」

「いや! 誤解なきように願いたい! 姫君は裳着の夜、酒がまわり過ぎて意識を失われ、その介抱のために、口移しで水を飲ませただけで、寝込みを襲ったとかではなく!」

「酒……」


 恐らくは人生で初めて、心底から釈明をする中務卿なかつかさきょうを、葵の君はボンヤリとながめていた。


『そうか、この世界でのファーストキスは、知らない間に終わってたのか……いや、救助活動だけどさ。十歳であれだけ、お酒を飲めば、急性アルコール中毒にもなるよね……』


 そんなことを思っていたが、さすがにどう言葉をを返せばよいものかと、右手を口元にあてたまま、固まっていると、中務卿なかつかさきょうは、なにを誤解したのか、自分にきちんと向かいあって、たたずまいをなおし、深々と頭を下げるので大いに慌てた。


「いえ、その、わたくしを助けて頂いたことですし!」


 そう言っても、彼は頭を上げない。どうしようかなと思って、彼の右手の上に、自分の小さな両手を重ねると、ぱっと閃いた言葉を口走る。


「わたくしは“源将仁みなもとのまさひと”様の妻となる身、今更、気になさらず! それより誰とでも“口づけ”すると、大きくなってしまうのか、そうではないのかの方が問題です!」


『そうだよ! これから、あの光源氏がいる後宮に出仕するのに、誰でも変身するとなったら、病気で弱ってる時とかに襲われたら、大変なことになってしまう! ええい、この際だ!』


 元の子供サイズの葵の君は、若干のやけっぱちと、他の誰かを呼ぶ訳にもゆかぬ、究極の取捨選択をした。


“弐”と“六”に視線をやり、当然ながら安全性と、いままでの信頼関係から“六”を選ぶと、素早く近づいて、彼の顔を小さな両手で固定すると、軽くキスをしてみた。


「な、なにをするんですか?!」


 真っ赤な顔で飛び上がって、目の前から下がる“六”、葵の君を慌てて引き寄せる中務卿なかつかさきょう、なにかうるさくワーワー言っている“弐”。人払いをしているにも関わらず、母屋は大混乱であった。


 色々と一杯々々の葵の君は、星の巡りの話は華麗にスルーしていた。


「なにをって、出仕前に確かめておこうと……あら?」


『体が痛くない』


 自分の手を見てみると、元の十歳のままで小さい。体にはなにの異常もない。


 その後“葵”は“葵の君”になってからは、誰ひとりとして自分にしなかった説教を、中務卿なかつかさきょうにされる羽目になり、視線を落としたまま自分が座っている美しいへりに縁どられた畳の目を数える羽目になったけれど。


 普段の大音量の、彼の怒声を知っている陰陽師たちからすれば、それは深窓の姫君を気づかった、極軽い“おとがめ”だったので、前世から持ち合わせている『体育会系仕様』で、どんなに大声で怒鳴られても「わたしの耳は、いまチクワ……」そんな風に、心の中でボリュームが下げることができる葵の君には、これっぽっちもこたえていなかったが。


『それどころじゃないのに……』


 葵の君は叱られながら、そんな風に思っていた。命に比べれば、キスのひとつやふたつ、軽いものである。


 持ちあわせている、千年以上先の現代的な価値観も、自分の行動をいいように正当化する原因だった。(現世“葵”であった時のファーストキスは、高校の時に家にホームステイしてた、エレナに挨拶でキスされて、残念なままに終了していた。)


 葵の君は畳の上で、説教をおとなしく聞いていたが、少しだけ伸びあがって、今度は中務卿なかつかさきょうにキスをする。周囲が唖然とする中、姫君は一瞬、光に包まれていた。


 そんなこんなで、大混乱の中、話は葵の君が、大人サイズでぐったりと、中務卿なかつかさきょうが寄り添っていた頃に戻る。


『顔色が悪い……』


 中務卿なかつかさきょうは、どこから見ても美しく大人びた、花盛りの姫君にしか見えない、でも十歳になったばかりの、葵の君の頭を自分の肩に乗せ、そっと撫ぜながら、姫君の顔色を心配げにうかがっていた。


 元の幼い姿から、大人の姿に変化するのを見ていた“六”たちが言うには、葵の君が姿を変えるのは、陰陽師や一部の僧侶が使う“幻術”の類いではなく、十年をかけて成長するような体の成長を、一瞬に集めて変化へんげしているため、体に相当な負担がかかっているらしい。


 痛みを我慢しようと、噛み締めた唇が怪我をしそうで、思わず姫君の口をこじ開けて、自分の指を割りいれた。


 これも怨霊の呪いなのだろうか? 誰よりも后妃にふさわしい身分に生まれ、誰よりも美しく秀でながらも、后妃となることを諦めざる得ない立場に追い込まれた上に、なんの因果でこのようなことにと、思わず姫君の運命を手配りした神仏を呪う。


 これが、姫君の類まれなる神懸った才を持つことへの、代償であれば、いますぐにでも姫君を、ごく普通の存在へ取り替えてくれと願った。


 中務卿なかつかさきょうに持たれて、浅く速い息を繰り返していた葵の君は、ふいに意識を取り戻し、目を開けて数回瞬きを繰り返すと、自分の置かれた状況に無言のまま、目をカッと見開いた。


『いててて! いつの間に、中務卿なかつかさきょうの腕の中に?』


 一度目の変身よりも、いくらかは体の痛みはマシだったが、この変化には心はともかく、体がついてゆかなかったようだ。いきなり立ち上がろうとして、目の前が暗くなり、慌てた中務卿なかつかさきょうに、再び抱き留められる。この様子だと完全に寺送りはなさそうで、ひとまず安心した。


『だめだ、いきなり育ってるから、血が足りてない。鉄分不足やね……』


 葵の君は「変なところだけ、現実が混ざっているなぁ」と思いながら、誰が着せてくれたんだろうと、自分が着ている大人サイズの、体に合ったころもはかまに目をやった。


「昨日の夜、“弐”に持ってこさせていました」

「そうなんですね……」


『あの大荷物か!』


 やっぱり変なところだけ、現実的だと思いながら、中務卿なかつかさきょうに目を向けると、ふいと視線をらされて、着替えさせてくれたのは、この人だなと確信して、仕方のないことだけど、やっぱり恥ずかしいし、紫苑くらいには、そのうち秘密を打ち明けねばと思った。


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