第107話 彼方からの晴嵐 3
“葵の上”は床に空いた穴に驚きながら、さっきまで力が入らなかった体に、驚きのあまり分泌されたアドレナリンが、心拍数と血糖値を押し上げ、体中にエネルギーが満ちたのを感じ、“六”が『
羽織っていた何枚もの
元来、合氣道は、剣捌きを体術にした流れを持ち、その稽古もあるので、木刀しか触ったことがないとはいえ、大きくなった彼女が
『アドレナリン充填!! 火事場のナントカって、きっとコレだよね! いまこそ前回の恩返しをする時!』
前回の怨霊騒ぎの時、姫君が
黒い穴から現れた大蛇と、姫君の視線が絡んだ瞬間、向かってきた蛇の頭を、葵の上は
が、そこは実践のなさに加え、
蛇は首を大きく傷つけられながらも、再び鎌首をもたげて向かってきた。
「ええぇっ?!」
『普通ここまできたら、これでヒーローになれるのに!! ウソでしょ?! 助けてー! 神様――!!』
いつもいつも、調子のいい時だけ神頼みをする、彼女の願いは、もちろん今回も神仏には届かず、伸ばされた救いの手は、やはり
「姫君!!」
幸いなことに、二人の上に降る黒い血は、“弐”が張った結界によって、丸いドーム状に二人の上を、恨めし気に流れてゆくだけであった。
“弐”が結界を張っている間に、“六”は、彼だけが使役している式神の十二神将を降ろし、“希代の陰陽師”と呼ばれるにふさわしい、その力を持って、現れた蛇を封じながら、呪詛返しをすると、空間を丸ごと閉鎖していた母屋は、元通りの姿を取り戻し、静かな空気に包まれた。
ボトリと落ちた首と、穴から見えている首の落ちた胴体が、黒い血を吹き出しながら、のたうち回りつつ、どろりとたれ流される黒い血と同じように、閉じられてゆく『穴』の中に、ずるずると吸い込まれて消えてゆく。
“六”は『穴』を封じたあと、姫君が心配になって目で探し、
「この、大馬鹿者――!!」
「うへぇ!!」
案の定、一瞬ののちに、
すぐに泣きだすか、気を失うかと思った葵の上は、耳の側で聞こえた彼の怒声に、ただただションボリとしていらっしゃる。
やがて
「貴女は大人しく、“葵の君”が大きくなるのを、待っていて下さい……」
そしてやはり一瞬の輝きのあと、
「さっさと床下を見に行くぞ!」
「ああ、うん。でも、
“六”の険しい顔に、“弐”は慌てた顔で話を続ける。
「姫君の
彼の指摘通り、
「それはない」
「なぜ断定できる?」
「それは……」
『几帳台の中で姫君から、
「馬鹿と違って、ちゃんとした陰陽師には分かるから。さっさと床下に行くぞ!」
“六”は“弐”を蔑んだ目で見やり、ちらりと
床下にちらりと見えた人影は一瞬で消え、“六”が走り寄った土の上には、禍々しくも
やがて呪詛は、蛇ごと放った本人に帰るために、彼らの目の前から壺ごと消える。
床下から出た“六”は、“弐”にあとを頼んで陰陽寮に戻り、内裏の結界を強めるべく、朱雀大路を急ぐ。心情的には帝は姫君のついでながらも立場的には、帝を守るのが彼の本来の仕事であるし、姫君が内裏に出仕するまでに、あちらの方も総点検するべきだと思った。
“六”は夜明け前の道を歩きながら、唇にそっと手を当てる。姫君の唇の感触を思い出して、頬が赤くなっていることを自覚し、顔色が分からない街中の暗さに感謝した。
その頃、
もう明け方も近い。昨日は急に欠勤してしまったので、文机の上に、大量の書類が積もっているのが、容易に想像できた。
「ねえ、思うんだけどさ、お前、左大臣家の姫君が好きなんだったらさ、入内しなくてよかったじゃん」
交代要員に“伍”を無理やり呼んで、入れ替わりに陰陽寮に帰ってきた“弐”は、真面目に仕事をしていた“六”の肩を励ますように叩く。
「なにが?」
「だってさ、后妃でなかったら、お前にも希望があるじゃないか!」
“弐”が言いたかったのは、恋愛優先の母系社会における、正式な夫を持ちつつも、複数の恋人を持つ妻の存在であった。
「お前の代わりなんて、探せばすぐ見つかる。いますぐ空の星にしてやろう……」
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