第193話 大火のあとの変 5

〈 狐事件の日の右大臣家/早朝 〉


 大火からの大騒動で、体の弱い三の君は、ずっと顔色が優れず、それに気がついた母君は、苅安守かりやすのかみに早くこちらに向かうようにと、世も明けぬうちから使者を出していた。


 やがてやってきた彼は、三の君の状態を見て、極力静かなところでの養生をお勧めしますと言いながら薬を処方すると、典薬寮からのひっきりなしの使者に、急かされるように姿を消していた。


 この大火での大勢の怪我人の手当に、典薬寮も検非違使に負けず劣らず大忙しである様子が透けて見える。それに気がついた右大臣の北の方は、あとで検非違使所や蔵人所と一緒に、典薬寮に差し入れの御弁当を届けるようにと、側仕えの女房に指示を出していた。


 公卿と呼ばれる上流貴族社会の『北の方』という地位にいる『白月会しらつきのかい』に所属している方々は、右大臣の北の方を筆頭に、大火で出仕していた内裏から帰ってきているご自分の夫や姫君たちの世話だけでなく、それぞれに連絡を取って、さまざまな大火のあとの支援にも忙しかった。


 本来であれば、『白月会しらつきのかい』を取り仕切る役目は、摂関家の嫡流、左大臣家の北の方、三条の大宮の役目であるが、元々、実務的なことを、お願いしてよい身分出自の方ではない上に、今回は内裏より避難されたばかり。


 六条御息所ろくじょうのみやすどころは、あくまで関白の『姫君』というお立場で筋違い。いきおいすべての責任と差配は、右大臣の北の方が担っていた。


 処方された薬を飲むと、三の君の体調も少しよくなり、母君は少し安心して、里内裏となったやかたの差配にと、再び姿を消した。


白月会しらつきのかい』の会員からの問い合わせも、ひっきりなしにやってくる。右大臣家の母君は、寝る暇もない忙しさであった。


 そして、右大臣はと言えば、大火の夜に、いきなり気を失った帝が大勢の供とやってきて、ただでさえ手狭であった(※関白には『せせこましい』と言われているが、一応は一町の大邸宅ではある。)やかたの中で、大いに苦悩していた。


 二町もある左大臣のやかたに張り合って、姫君の頭数も考えず、あちらこちらに豪華な設えや丁度品を飾っていたのも、いまとなってはアダとなり、ただただ息苦しく、ひたすらに狭さを強調する。


 帝とほとんど時を同じくして、実家である右大臣家に帰ってきた弘徽殿女御こきでんのにょうごの部屋は、当然、広く取らねばならぬので、しわ寄せは残りの姫君たちにゆき、三、四、五、の三人の姫君たちは、抗議もむなしく、「三人でひとつ! 三人でひとつ! 三人でひとつの部屋です!」


 そう念仏のように唱える右大臣に押し切られ、まるで紫苑たち三姉妹と同じように、ブーブー言いながら、部屋の“お引越し”の指示に追われていた。


 四の君にいたっては、姉である三の君のお体の調子がよくないので、二人分の支度と、まだまだ幼さが前に出る妹君の監督までせねばならなかったので、姉である弘徽殿女御こきでんのにょうごも顔負けの勢いで、父君の文句を言いながら、朝の支度に使う品を、三人で使えば少しは場所が広くなるかしら? でも、時間がかかってしまうし……などと、さまざまな櫛や身の回りの品の入った漆塗りの箱を手に、顔をしかめて考え込んでいた。


 そんな慌ただしい空気しかないその日の昼過ぎ、大騒動になっている四の君の部屋に、右大臣が文字通り駆け込んできた。


「四の君! 四の君はいらっしゃるか?!」

「もう! 今度は一体なんですか?!」


 四の君はそう言いながら、大量の自分の荷物が詰まった葛籠つづらの隙間から、右大臣めがけて檜扇を投げようとするが、父君の様子が、あまりにおかしいので、ふと首を傾げて手を止めた。


「中止! 三人で一部屋は中止! 貴女はすぐに左大臣のやかたに、出立する支度に取りかかりなされ!」

「え……?」


 料紙を握りしめたまま、右大臣が口から泡をふかんばかりの勢いで、かくかくしかじかと説明を続け、四の君は驚きのあまり檜扇をポトリと取り落とす。


「……左大臣が宇治で長期間ご療養なさるので、左大臣家のやかたにわたくしを迎えたいと……え? えっ?! わたくしが正式な『北の方』に? ええぇ!」


「摂関家の家政のかなめは、六条御息所ろくじょうのみやすどころがなさるが、左大臣がすぐにでも出立されるため、三条の大宮が帰られるまでは、左大臣のやかたの家政は、頭中将とうのちゅうじょうの正妻であるそなたに任せたい、早々に移って頂きたいとのお話である! この大きな災難の中で、不謹慎かつ急過ぎる話ではあるが、四の君、貴女は晴れて名実ともに、『頭中将とうのちゅうじょうの北の方』と呼ばれる御身分におなりですぞ!」

「わたくしが名実ともに北の方……」

「おそらくだが、わたしの見るところ、政治的な野心は持たぬ左大臣は、京に帰ってこない公算も高い! あの方は三条の大宮がいらっしゃれば、それだけでよいと、最近はそればかりであったゆえ、四の君、ここは勝負どころですぞ!」

「まあ、そのような……」


 なんの騒ぎかと様子を見にきた、四の君の姉君である三の君と、妹君の五の君は、降って沸いたような四の君の晴れがましい話に、目を丸くして驚いていた。


「なんと、四の君が左大臣のやかたに?!」


 女房に騒ぎを聞いて、遅れて顔を出した弘徽殿女御こきでんのにょうごも、その話には瞬きを繰り返す。

 ほどほどに上手くいっているとは聞いていたが、頭中将とうのちゅうじょうと四の君の婚儀は、自分と同じように政治的な色合いが強く、夫を慕い過ぎる四の君のことを、姉としては、いささか案じていたが、存外にも彼は四の君のことを、大切に思ってくれていたようである。

 自分の分も妹たちには幸せになって欲しかった女御にょうごは思わず目を潤ませて、袖で目元を押さえながら再び口を開く。


「まあまあ、いきなりすぎるお話ですが、左大臣がご療養なさるのであればと、頭中将とうのちゅうじょうは四の君のことをご心配なさって、関白にお頼み下さったのでしょう。ここは東宮の母であるわたくしの実家、大騒ぎになることは目に見えておりますもの。お顔だけでなく、関白に似て本当に優秀な方ですわね」


 右大臣家の中で、どちらかと言えば、低い方であった頭中将とうのちゅうじょうの婿としての評価は、誤解と曲解の末、思いもかけず天高く急上昇していった。


 ちなみに後日、左大臣家に無事に迎え入れられた四の君は、ただただ愛する夫である頭中将とうのちゅうじょうの心配りに、喜びで胸が一杯であったし、頭中将とうのちゅうじょうも広々とした実家で、右大臣に気を遣うこともなく、いつもニコニコと出迎えてくれる四の君との暮らしが存外に楽しく、ふと興味が沸いた夕顔のことは忘れ、この大火の混乱が収まったあとも、新しい暮らしにすっかり満足することになる。


 なお、四の君は、左大臣家に向かうまでは、あくまで婿をとった正妻ではあるが、実家に暮らす“姫君”という気楽な立場から、いきなり右大臣家の北の方であった母も経験したことのない、大きな左大臣家のやかたの『北の方』になってしまったことで、頭中将とうのちゅうじょうが留守の間の時間のすべては、六条御息所ろくじょうのみやすどころから教えを受ける『北の方見習い』的な立場になってしまい、毎日が『家政に関する勉強地獄』に陥り、かつて葵の上が使用していた御堂おどうで『缶詰』になっていた。


 そんな彼女を頭中将とうのちゅうじょうは、なにもそこまでと言いながら心配していたが、四の君は、もともと弘徽殿女御こきでんのにょうごと同じく負けん気の強い性格であったので、夫である頭中将とうのちゅうじょうの正妻としての誇りを支えに、たゆまぬ努力と研鑽を積み、その数年後には周囲も感心するほど立派な『北の方』となられることとなる。


 そして何本もあった運命の赤い糸を、知らぬ間に葵の上に切り取られた頭中将とうのちゅうじょうと、その流れに乗った四の君は、何人もの子宝に恵まれて、末永くふたりは幸せに暮らすこととなり、姫君が多いとこれほど大変なのかと、頭中将とうのちゅうじょうは遠い未来、ふと右大臣に同情する時もあったが、それはまた別の話。


 そんなこんなで、葵の上の『兄君と夕顔を自然消滅させる作戦』は、ひとまずの成功を納めようとしていたが、現在のところは、関白を含んだ各々の思惑を持った人々が、まだまだ、きな臭い京を中心に、うごめいていた。


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