第194話 収まらぬ火の粉 1

〈 時系列は、光る君が惟光これみつに、葵の上へのふみを持たせる前に戻る/二条院 〉


 朝も明けぬ二条院に、どこからか使いがやってきた。まだ誰も起きてはいなかったので、なんとなく目が覚めて、それを眺めていた光る君は、使いの装束から、どうやら右大臣のところからきた者だと気がつく。


 興味が沸いて、そろそろと近づくと、屏風の陰に身を潜める。大いに慌てた様子の右大臣家の使いは、出迎えた女房に、なにやら深刻そうな顔で話をしていた。


 しばらくすると、そこに整った姿の刈安守かりやすのかみが現れた。彼はなにやら小さな箱を抱えて、牛車に乗り込んで出かけ、彼が姿を消した渡殿には、小さな輝きがひとつ落ちている。


 あとに残った年老いた女房は、目が悪いのか、それにはまったく気がつかずに、元いたらしき東の対に戻って行った。


「ふん……」


 輝きに近づいた光る君が手にしたのは、金色の鍵であった。


 いますぐにつるばみの君のところを訪ねようかと、東の対の方に歩いて行くが、まだ朝の支度も終えていない単衣姿では、さすがに恥ずかしいと思い、少し立ち止まって、しんと静まり返ったやかたの中をぐるりと眺めていると、元は母君の実家であった二条院に、懐かしさで胸が一杯になり、母君のことを思い返しながら、あちらこちらと歩いてみる。


 誰かに出会えば、鍵を返そうと思いながら。


 釣殿に出て池に泳ぐ魚をながめてから、東の対を振り返ってみると、記憶の中のやかたにはない、大きな二つの塗籠が目にとまる。


 昨日の女房たちの会話を思い出すに、どうやらあれが刈安守かりやすのかみの曹司と特別な塗籠のようだ。仕事柄、薬草を多く扱う彼は、間違いが起きぬように、塗籠のような特別な曹司を作っていると聞いた。


 恐るべき存在ながら、まだ八歳の子供らしい好奇心を押さえられない光る君は、そっと曹司の妻戸を開こうとしたが、当然のことではあるが、鍵がかかっていた。


「……しかし、その鍵は僕の手の中にある……」


 光る君は、手の中にある鍵を強く意識して、しばらく逡巡したのちに、やがて好奇心に負けて、横から錠前に鍵を差し込んでみると、鍵はカチリと音を立てて外れて扉が開いた。


 扉の内側に貼ってあった何枚ものふだが、扉を開けた拍子に一枚だけ剝がれ、どこかヒヤリとした風が自分の横をすり抜けて行ったが、光る君はそんなことには気づかず、なぜか目の前にある『螺鈿の君』に驚いていた。


「なぜこんなところに“螺鈿の君”が?」


 そう呟きながら、光る君が手を伸ばしてみると“螺鈿の君”は、『クキキキキ……』そんな、威嚇するような声を出したかと思うと、にょきりと細い手足を伸ばす。


「……付喪神つくもがみ?!」


 そう言って、驚きのあまり気を失った光る君の上を、“螺鈿の君”は、ぴょんと飛び上がって、開いた扉をすり抜けて、あっという間に姿を消した。


 しばらくして目を覚ました光る君は、“螺鈿の君”を探してみたが、鼻につく匂いを放つ様々な薬草の他には、なにも見当たらなかったので、この匂いに気分が悪くなり、幻でも見たのかと思い、葵の上にふみでも送ろうと、文机の横にあった料紙を何枚か手にすると、慎重に扉に鍵をかけて、元通り渡殿の床の上に鍵を置き、しきりに首を傾げながら母屋に帰る。


「まあ、一体どちらに? いかがなさいましたか?」

「少し釣殿で風に当たっていた……」


 女房たちに朝の身支度をさせながら、光る君は考え込んでいたが、装束が整うとふみをしたため、庭の片隅に垂れている藤の花をひとふさ所望して、綺麗に結んだふみと一緒に扇子の上に乗せた。


 自分とつるばみの君の幸せのためには、是非とも尚侍ないしのかみは手に入れなければならないし、あの方の美しいお顔を思い出すと、情緒も趣もない方とはいえ、やはり鑑賞に値する存在だと思い、自分の計画のための正妻としては、申し分なかろうと思う。


惟光これみつ尚侍ないしのかみふみを届けておくれ。あの方はきっと中務卿なかつかさきょうのやかたに帰っていらっしゃるだろうから」


 そうして惟光これみつは、意気揚々と用意された小さな牛車に乗って、中務卿なかつかさきょうのやかたに向かったのである。


 女房たちは、皇子の身支度のあとの片づけをしながら、帝のところにもう彼が出立すると思い込んでいたので、「いとまを告げに行こうと思いましたが、あいにく刈安守かりやすのかみは、もう出かけたそうにございます」そう光る君に残念そうに言う。


「知っている……」

「え?」

「まだしばらくここにいるよ。ああ、そうだ、妹君に朝の挨拶に行ってくる!」


 そう言った光る君は、尚侍ないしのかみは、先ほどのふみを見て、どんな反応をするか、やはり元服を急がねばなどと、色々と考えながら孫庇を歩いていると、いつの間にかつるばみの君の部屋の前に着いていた。


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