第195話 収まらぬ火の粉 2

「……第二皇子がお越しです」


 少しボンヤリした様子のつるばみの君が、慌てた女房の声に、ふわりと声のした方を向く。


 光る君は、気軽に朝の挨拶をしながら、元服前である幼さをよそおって、なんの遠慮もなく御簾内に入る。


 つるばみの君は、瞬きを繰り返してから、小さく口元に笑みを浮かべ、それからどこか、ぬるりとした印象を受けるくらい、白く艶やかな手を伸ばすと、子供らしい仕草で、自分に抱きつこうとする光る君の額を、優しくとがめるように、人差し指で柔らかく押してから、ゆっくりと髪を撫ぜた。


 光る君は、自分に伸ばされた彼女の白い右手を、両方の手で包んで自分の頬に当て、母君に重なって見える彼女の顔を見つめながら、胸が切ないほどに痛くなるのを感じた。まことの恋というものは、このように年も身分も……なにもかも飛び越えるほどに、せき止められぬ、激しくも美しいものなのだろう。


「遠いとはいえ、ご縁があったのも当然、そう思えるほどに、貴女は本当にわたしの母君に瓜ふたつなのです」

「わたくしが皇子の母君に?」


 つるばみの君の、儚げで美しい顔に浮かんだ、不思議そうな表情を見つめる。本当に母君がよみがえったような方だ。じっと見とれていると、不意に暗い影が差す。


 光る君の振り返った先には、穏やかな笑顔を浮かべた刈安守かりやすのかみの姿。


「どうして……」


 光る君の「どうしてここにいるのか?」そんな飲み込んだ言葉のうしろを見透かした彼は、実に温和な笑顔を浮かべながら口を開く。


「忘れものをいたしまして、取りに戻りました」

「そう……」

「ご挨拶にわざわざ足を運ばせてしまったようですね。朝餉はまだだとうかがいました。どうぞこちらに……」

「…………」


 そう言われた光る君は、あの鍵と曹司のことは、なんとなく知らぬ顔をした方がよさそうだと思いながら、刈安守かりやすのかみのあとを、実に無邪気な様子で、大人しくついて行く。


 刈安守かりやすのかみは、温厚な笑顔を浮かべて自分を釣殿へと誘い、あたりさわりのない話をしているが、実はかなり腹を立てているようだ。


 男の身にまつわる昔語りを思い返し、いまの状態を考えるに、あのつるばみの君に対して、実の妹に対して、この男はどこか『家族の愛』を超えた、暗い執着を抱いているのであろうか? そうとでも考えない限り、元服前の尊い皇子である自分に対して、敵意を見せられる理由など思いつかない。


『笑顔を自分の武器』として扱ってきた光る君には、明るい朝の光の下で、初めてまともに見た彼の笑顔は、とてもものではないのが、手に取るように分かった。


『人のよさそうなこの男は、なにか恐ろしいものを、内に飼っているのやもしれぬ』


 光る君はそう思いながら、後宮にいた時と同様に、たぐいまれに美しく華やかな『幼い皇子』の仮面の下に本音を覆い隠し、それでも楽観的に考えて、いくら過ぎた執着をこの男が妹に持っていたとしても、帝の命に逆らう訳にはゆくまいと、「世話になったが、これから帝の元へ見舞いに行く」そう告げて、右大臣のやかたに顔を出すのは、おっくうが過ぎるが、これも先々のためと思い足を進めようとする。


 と、急に体が震え出した。冷や汗も止まらない。


 光る君の異変に気づいた刈安守かりやすのかみは、彼を軽々と素早く抱き上げて、寝殿に連れてゆくと、布団の上に寝かせて様子を見ながら、大騒ぎをする女房たちに診断を告げる。


「きっとおこり(※周期的に悪寒や発熱を繰り返すき物の症状)でございましょう。おこりは僧侶の領分、加持祈祷にすぐれた者を知っておりますゆえ、すぐに手配いたします」

「まあ、すぐに、お願いいたします!」

「なんということでしょう……」


 心配そうな様子の女房たちに囲まれて、几帳台の布団の中で眠りについている光る君を、チラリと見た刈安守かりやすのかみは、自分の曹司に下がり、急いで煤竹法師すすたけほうしふみを書いて使いをやってから、隠し扉に少し切ない視線を向けたあと、鍵をしっかりとかけて懐にしまい込み、大内裏へと再び戻るために牛車に乗り込んでから呟く。


「はて、このやかたでおこりとは、奇妙なことだ。……まさか、あの法師になにかあったのか?」


 二条院は、煤竹法師すすたけほうしの呪札と祈祷によって、自分の曹司を中心に強力な結界が張られ、強い呪法の力がかかっている。


 おこりなどという軽いき物に、皇子がかかったことを、彼は不審に思ったが、あいにくと“螺鈿の君”が、曹司の奥の大宮がいる隠し部屋から飛び出して行ったことには、気がつかなかったので、ここで存在を密かに消すには、あまりにも無理がある『第二皇子』という名の厄介事を、早く追い払わねばと思いつつ、扉の内側に貼ってあったふだが、一枚、剝がれていたことに気づかぬまま、大内裏にある典薬寮へと向かった。


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