第196話 収まらぬ火の粉 3

 ふたりの姿が消えたあと、しばらくボンヤリとした表情で、布団に横たわっていたつるばみの君に、年老いた女房が声をかける。


「どうかなさいましたか?」

「……いえ、ああ、そういえば、あの第二皇子は、どういった御方なのかしら?」


 女房は、今頃そんなことを言い出した姫君を、不思議に思ったが、きっと皇子がいなくなって、ほっとしたのであろうと思い、姫君の身支度をしながら、刈安守かりやすのかみのもとに出入りする官吏から聞いたことのある、第二皇子の話を、声を潜めてはじめた。


「なんでもいまは亡き“今楊貴妃”と呼ばれた桐壺御息所きりつぼのみやすどころがお産みになった皇子なので、未だに帝の御寵愛が深いそうで……今年の春に内裏に帰るなり、気に入らぬ女御を追い出したそうですよ」

「まあ……」

「浮世離れした美しさは、確かに伝え聞く通りでございましたが……帝の庇護があるいまはともかく、とにかく危ういお立場と……そう聞き及んでおります」

「……もういいわ、少しひとりにしてちょうだい」

「朝餉だけは召し上がって下さいませね」


 女房は、そう念を押してから姿を消した。彼女が姿を消すと、つるばみの君は、怪しい笑みを口元に浮かべ、どこか薄暗い印象を受けるゆっくりした動きで、伏せてあった鏡を手に取り、自分の顔をながめながら、何度も何度も手で撫ぜる。


『アノ札ノセイデ 手出シモ出来ズ 外ニ出ルコトスラ 叶ワナカッタケレド コレハ良イ依り代ヲ 見ツケタ……』


 鏡に映っていたのは、つるばみの君とは、似ても似つかぬ幼い女童めわらの顔。光る君が開いた扉には、女童めわらの怨霊を閉じ込める呪札が貼ってあり、彼が開いた隙に素早く逃げ出したのは、あの悲惨な事件の被害者であり、いまもこの世を漂っている夕顔の妹『玉鬘たまかずら』の亡霊であった。


 なにかの役に立つやも知れぬ、そんな、なんの罪の意識もなく取り置いていた壺の中にある玉鬘たまかずらの小さな頭蓋骨が、光る君が扉を開いた瞬間、カラカラと音を立てて揺れ、またすぐに元通りに、ひっそりと壺の中で転がっていた。


 開かれた扉をすり抜けて、つるばみの君の中に、潜り込んだ玉鬘たまかずらは、あの憎んでも憎み切れぬ男の妹の体の中で、さてこれからどう復讐したものかと考えながら、まずは先にあの呪札を作った、恨みが尽きぬ坊主を探すことにして、体を横たえて瞼を閉じる。


『タダ 憑リ殺スダケデハ 飽キ足ラナイ……』


 つるばみの君の瞳が、一瞬“ぽうっと”赤く光ったかと思うと、『玉鬘たまかずら』の亡霊は体から抜け出し、つるばみの君は深い眠りについた。玉鬘たまかずらは、少し透けた元の女童めわらの姿に戻り、京の空に舞い上がる。


 本来の物語であれば、まだまだ遠い先の先、頭中将とうのちゅうじょうと夕顔の間に生まれ落ち、数奇な運命により、その美しさゆえに、光源氏に翻弄されたあげく、意に染まぬ相手と、強引に流されるように、結ばれてしまったとしか葵には理解ができず『それでええんか!?』そんな感想しかない人生を歩んだはずの玉鬘たまかずらは、そんなことは知らぬままに、たぐいまれに幼く美しいながら、どこかなにかを抱えている、先ほどの皇子のことを、いまはこう思っていた。


『命ハ 助ケテ上ゲル 今ハマダマダ 使エソウダカラ……』


 まるで元の世界で陥った、あの時のわずらわしさの、無意識のうちの意趣返しだとでもいう風に、光る君におこりをもたらして、二条院に足止めをした彼女は、キュッと唇の両端を持ち上げると、やがて空からもふつりと姿を消した。


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