第268話 青海波 1

〈 花音かのんちゃんが明石から帰ってから翌年/左府さふのやかた 〉


「なんと美しい姫君でしょう……」


 紫苑はそう言いながら、葵の上が二人目にお生みになられた姫君を、胸に抱いていた。やがて聞こえてきた牛車の音に、「父君がお帰りですよ」まだ赤子の姫君に、そうささやいてから、やがてやってきた左府さふに、姫君をそっと手渡していた。


鬼左府おにさふ』(鬼の左大臣)は、ご自分のお子が生まれて、ようやく人並みに、まあまあ定時定刻で帰るようになっていた。


 そのあおりは、帝や頭中将とうのちゅうじょうたちが受けていたが。


 実は、葵の上が初産の時に、彼が十何年分も溜まっていた有給を、一気に使うと言い出したので、帝は慌てて、殿上人の有給の年越しはなしと、法令を整備され、その代わりに正妻の出産から一年以内は、定時定刻&宿直とのゐが免除される法整備がされる運びとなっていた。


 乳母や女房に囲まれて暮らす殿上人の北の方たちには、ワンオペ育児など関係のない話で、育児に夫の手伝いがいる訳でもなく、「親子の情が増す」そのくらいの認識であったが、制度は世の中への影響は大きく、裕福な町人に始まり、じょじょに一般の民にも広がってゆき、彼らは基本的に共働きであったので、いわゆる産休、育休が、どちらも取りやすくなり、大いに助かっていた。


「葵の上に似て、聡明で美しい姫君に、お育ちでしょう」

「父君に似ても、聡明で美しい姫君になりましょう」

「いや、兄は、わたしに似ているのだから、絶対に葵の上に、瓜ふたつでなくては。ああでも、もう少し大人しい方が、よいかもしれないですね」

「まあ!」


 彼は笑って姫君をあやしながら、葵の上に嬉しそうに寄り添い、そんな冗談を言う。葵の上の膝の上には、左府さふに瓜ふたつの、兄となった若君。


 そんな風に、葵の上は無事に初恋の人と結ばれて、御伽噺のような幸せを手に入れ、生まれてからずっとひとりぼっちだった左府さふは、葵の上が自分と成り行きで結婚するしかなかったことを忘れ、お互いが初めから、世界で一番大切だったのだと思い、慈しみあっていたことを、いまではしっかりと、受け止めていた。


『これからも色々あるんだろうけど、これからも文武両道、精一杯頑張って、前を向いていこう!!』


 葵の上は、東山葵ひがしやまあおいはそう思いながら、彼にもたれて、そっと呟いた。


「月が綺麗ですね……」

「え? いま、なんと?」


 姫君に気をとられていて、聞き逃したらしき左府さふが聞き直す。


「愛しています……」

「……そういう意味でしたか」

「え?」

「いえ、なんでもありません……」


 それからまた何年かたち、左府さふとなり、三人の若君と姫君をひとり、四人の子宝に恵まれていた彼は、光源氏とは違い、血のもたらした恩情ではなく、自身の功績の大きさゆえに、ついに臣下の地位を離れ、帝の宣下によって、“准太上天皇じゅんだいじょうてんのう”となる。


 尚侍ないしのかみであった葵の上も、その地位が彼女より先は、血筋ではなく、功績による実務的なものとされたため、帝は、国にもたらした彼女の功績は計り知れぬと、后妃でもなく、親王や内親王を産んだ訳でもない彼女に、前例のない女院の地位を授けられた。 


 なぜならば、彼女の発案による『日本地図』の製作の過程で、佐渡と太宰府の近辺に、巨大な金の鉱脈が発見され、異国との取引により、莫大な富が、国にもたらされていたのである。


 なお、海外と安定した交易ができるほどの、巨大な帆船などの造船、運用技術は、摂関家以外には、未だ持ち合わせがなかったので、一族は海外交易の富を独占し、朱雀帝が治める国は、黄金の国と呼ばれるようになる。


 そんな理由で、彼女もまた自身の力で、臣下の地位を離れたが、女院と尚侍ないしのかみを兼ねる彼女には、他の女院方とは違い、頸飾けいしょくと呼ばれる、精巧な金細工とぎょく(宝石)でできた、肩にかかる豪華な飾りが、帝より特別に送られた。


「短い老い先で、このような幸せを、目にできるとは……」

「きっと関白は、まだまだ長い老い先ですよ……」


 平たい目をした帝は、自分の側で嬉しげに、そんなことを言っている関白に、そう言葉をかけていた。


 御簾の向こう側で、それぞれに、ご自分の内親王を連れて、叙位の式典に出席されていた女御たちは、必死に笑いをこらえる。


 そうして、左府さふが臣下を離れ、皇籍に復帰を果たし、上皇、太上天皇だいじょうてんのうにならぶ御位みくらいである“准太上天皇じゅんだいじょうてんのう”の地位に就いたことで、二人の間にできた三人の若君は、特別に皇子の位を授かり、姫君も内親王となられた。



 朱雀帝には、男子が生まれず、内親王も結局お二人しか生まれなかったので、第一皇子となった、一番上の若君は東宮となり、次の若君が第二皇子となる。


 どちらの皇子にも、帝の二人の女御が生んだ内親王が入内し、ここに国家の安定は、確たるものとなり、国のいしずえは盤石のものとなった。


 三番目の皇子は、いまは、左大臣となった頭中将とうのちゅうじょうの、一番下の姫君と恋仲になり、丁度、摂関家に嫡流の男子がいなかったので、臣下に降りて当主となり、奮闘することとなる。


 内親王となっていた姫君は、右大臣家の三の君と、皇后宮職こうごうぐうしきの別当の間に生まれていた若君に、祖母である三条の大宮と同じように、拝まんばかりに頼みに頼まれて、右大臣家に御降嫁した。


 元のお話では、ただ没落してゆくだけであった右大臣家は、三の君の産んだ若君の、弱腰ながらの精一杯の健闘によって、押し寄せる実力主義の荒波の中で、なんとか大貴族の地位から、転落してはいなかった。


 その上、葵の上によく似た内親王は、母君に似て、大層真面目な性格であったので、右大臣となるまで、いや、なってからも、婿君はいままで以上に、頑張り続ける他はなく、母君である三の君は、少し気の毒に思っていたが、内親王に御降嫁を頂いてから、父君に似て優しくはあるが、性格の弱かった息子が、人が変わったように、凛々しさを見せるようになり、皇太后亡きあと、ようやく見えた一族の明るい先行きに安堵していた。



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