第267話 明けの明星 3
それからというもの入道は、光源氏のことは家人に世話を任せて、足を向けることもなくなる。
おのれが招いたこととはいえ、京での暮らしを捨て、嫌がる自分の姫君に、無理矢理、光源氏に会わせるような真似をして、結果、自分の大願だけでなく、宝であった姫君を失った。彼には後悔しか残っていなかった。
一方の光源氏といえば、自由がないとはいえ、中流の貴族並み、不足のない生活であったが、無念の気持ちしか湧くことはなく、当然、一切感謝の気持ちなどない。明石の姫君のことも、いつものように、前世の宿縁かと、ひとしきり泣いて、すぐに忘れていた。
彼は「出家しようかな……」出家する度胸もないのに、そんな風に悩んだ顔をしたまま、細々と暮らしていたが、やがて入道が差し向けていた奉公人も、ひとり、ふたりと欠けてゆく。
ある日、光源氏が目を覚ますと、最後には、いつの間にか
ちなみに、光源氏が閉じ込められていた『やかた』と言う名の、豪華な監獄を作ったのは、例の飛騨の匠、伊蔵が率いる集団だった。
ぱっと一見すると、なんの変哲もない
「本当に大丈夫だろうな?」
「内裏の宝物殿より頑丈でさぁ!」
大工道具を片づけていたくだんの「ここだけの話」で、知らぬ間に国を救っていた佐吉たちは、門番の
各地の寺社の改築、内裏の再建、大貴族たちのやかたの大改修、ここ何年も休んだ記憶がなかった彼らは、ようやくこれで一応の急ぎ仕事が終わると、嬉しそうに、ワイワイと騒がしく、はしゃいでいた。
「ヒマ過ぎて死にたくなるより、忙しくて死にそうな方が、マシだけどよぅ……もう少しまくばって……」
「せっかくだから、京に寄って土産を買おうかな。銭湯とか言うのにも、寄ってみたいし」
「好きにすりゃいいが、ぼーっとして、稼いだ銭を、落とすんじゃねえぞ!」
「違えねぇ!」
そんなことを、楽しげに言い合いながら、彼らは大工道具を担いで、数年ぶりの故郷に向け、太宰府ではなく、明石に光源氏を置き去りにして、足取りも軽く帰ってゆく。
それからしばらくたったある日、光源氏は、彼らが念入りに建てた、抜け出せぬやかたの中で、昼も夜も降りたままの格子の間から、外に見える寂し気な景色を、筆で料紙に描いていた。
葵の上とは違い、芸術の才にあふれている彼が、料紙の上に描き出す景色は、見る人の涙を誘わずにはいられない。
そのように素晴らしい作品であったが、残念ながら誰が目にすることもなく、彼はその辺に描いた料紙を散らしたまま、数日前から少し痛む脇腹を押さえ、反対側の格子の向こうに見える、松の並木道をながめていた。
すると急に強い痛みを覚え、彼は格子を掴みながら、床にくずれ落ちていた。どれくらいの時がたったのであろうか、すっかり日は落ちているが、外からなにやらボソボソと話す声が聞こえる。
「初めは詐病かと思い、放置していたのですが……」
そう言っているのは、たまにやってくる、入道の家人の声のようだ。小さなロウソクの灯りがひとつ見える。
「食あたりでございましょう……」
そう答えた声は、どこかで聞いたような、聞いたことのないような、そんな声。
「まったく迷惑な厄介者ですよ!」
家人は鼻を鳴らしながらそう言うと、“京の医師”が処方してくれた薬を、申し訳なさそうに受け取り、頭を低く下げる。あの美しくもお優しかった主人の姫君を、死に追いやった原因の元皇子を、彼は悪くしか思っていなかった。
「せっかくですから、格子ごしにでも、患者を診てから帰りましょう」
「ああ、いえいえ、そこまでしていただかずとも!!」
家人はそう言う。中で聞いていた光源氏は、彼に内心大いに腹を立てていたが、医師であるらしい、暗がりにいる男に興味が沸く。どことなく雅な物腰は、最近では目にすることのない、内裏に出入りする貴族のような、優雅さを持っていた。
格子の近くまできた彼の側に、痛みをこらえて近づいてみる。格子の向こう、息遣いさえ分かるところまで近づいても、やはり暗闇が邪魔をして、彼の顔は見えない。
「……美しい絵にございますね」
「見えるのか?」
うしろに散らばっている絵が、夜目がきくらしい彼には、ちゃんと見えるようだった。
少しのやり取りのあと、改めて明日の夜に、きちんとした薬を用意してくると言い、彼は帰って行った。
光源氏は、明日の夜が待ち遠しかった。
翌日の夜、再び医師はやってくる。症状はすっかり落ち着いていたが、久しぶりに、物の分かるこの医師との会話に、すっかり彼は夢中になっていた。
気の利いた和歌を、詠み合ったりしていたある日、世間話のついでに、入道の北の方の
「分かるだろう? わたしの方が余程やり切れぬ想いを、抱えていることを」
「…………」
医師は、しばらく考え込んでいる風であったが、やがて供人に持たせていた薬箱から、なにか小さな瓶を取り出して、横にいた警備の
「これは?」
「
「ああ、そうでございますか」
見張りの
皆様のご想像通り、“京の医師”とは、命拾いしていた“
男は、
「よろしいんでございますか?
そう聞かれた
「だからだよ……。罪なきわたしの妹君が、酷い取り調べの末に、この世から消えた原因が、ただの気楽な隠居暮らしだと? わたしが見逃せる訳がなかろう? そのために、御仏はわたしに少し時間をくれた……いや、地獄があの大火事で押し寄せた罪人で溢れかえり、
「因果なことで……」
「それにひとつ間違いがある」
「なんでございましょう?」
「あれは
「……さようでございますか」
早く地獄の込み具合が改善された方が、世のため人のためだな……。
つき添う男は、自分が助けたにもかかわらず、一番の悪人が生き残って、なにか言ってるよ……。そんなこと思っていた。
警備にあたっていた
***
「あの女……」
光源氏が、壮絶な死を遂げ、この世を旅立つ寸前に思いだしたのは、『自分の好きにしてよい、美しいオモチャ』だったはずの「葵の上」の顔で、あの姫君に出会ってから、自分の運命の歯車が狂い出したことに気づき、桐壺帝からたまわったあの筆で、兄である朱雀帝に、「あの女は、この世の者ではない」そう書き残し、例の『真っ白な
彼には想像だにできぬ話であるが、実に、最後の数日間に味わった、つらくて苦しい、悶え苦しむ生き地獄のような、そんな酷い体験は、まさに元のお話で、葵の上が、彼の子を身ごもり、彼が他の恋人にうつつを抜かし、身勝手な行動に走っていた間、彼女が、つわりや産みの苦しみに身悶え、生霊によって、何ヶ月もの間味わった、「地獄を這いずるような苦しみ」に相違なく、ほんの数日で済んだだけ、
そこら中に舞い散っている、彼が描いたらしき絵は、実に見事な物であったが、なんとなく気味が悪く思った
遁世僧の読経と共に、火にくべられた棺からは、この世の物とは思えぬ、あの『
「重大な失態によって左遷の上、気鬱の病で病死……葬儀は現地にて火葬っと。元は五位、ふんふん……ああ、それではこちらの台帳にですね、名前をご記入下さい……はい、確かに受付いたしました! 長い間、明石での赴任生活、お疲れさまです!」
京に戻ってきた
新しく任官したばかりの彼は、臣下に降りた光源氏のことを、あまりよく知らなかった上に、そんな簡単な手続きは、ままある出来事で、内容によく目も通さなかった。
まだまだ仕事の基本の“基”を覚えることも多く、すぐに彼はそのことを、忘れてしまったし、侍も彼の配下も、久しぶりの京ではあったが、また、次の辞令が降り、銭湯に寄ってから、翌日には、別の赴任先に向かったので、殿上人の間に、光源氏の話題が登ることはなかった。
「……く、くくくっ!」
「なに? どうしました?!」
その数日前、式神からの報告に、不気味に笑う“六”の横で、“伍”は怯え切っていたが、“六”はすぐに
人払いを願い出た彼から、光源氏の死亡報告を受け、
「おのれのことを棚に上げて、よく言えたものだ。しかし、手を下すまでもなく、無事にカタがついたか……」
「天網恢恢疏而不漏……とは、よく言ったものです」
『天網恢恢疏而不漏』とは、『
“六”は、その言葉を引用したあと、いつの間にか姿を見せた
「それなんですか?」
ある日の夜遅く、“六”からなにやら桐の箱を預かってきた“壱”に、そう聞いていたのは、
箱をのぞき込むと、中には怪しい雰囲気の
「触っても構わないけれど、絶対に顔につけてはいけないよ」
「どうなるんですか?」
「死ぬまで取れないよ。まあ、すぐに死んじゃうけど、恐ろしい“
「…………」
通りすがりの“弐”が、わざと顔の下から、蠟燭の灯りをあてて、恐ろしい顔をすると、怖がっている
「ほんとに?」
「本当ですよ、せっかく用意したのに、先方の都合で、使わなくなったからって、うちの蔵に預かったんです」
「先方の都合って……怖っ!!……誰に使うつもりだったの?」
「さあ、そこまでは……」
当然、光源氏に使うつもりであったのだが、なぜか先に、彼の寿命の糸は、断ち切れてしまい、その原因は誰も知らなかったし、特に誰も興味もなかったので、
もちろん葵の上も、光源氏の最後のことを知らず、『光源氏が明石から、ずっと帰ってきませんように……』
毎日そんなことを思っていたが、いつまでたっても音沙汰がない上に、元のお話は、新しい帝の御代の始まり以来、すっかり影も形もなくなったので、あれだけ怯えていたことも忘れ、やがて思い出さなくなっていた。
そんなある日の真夜中、彼女の側に、ジワリと影が近づく気配がして、彼女は一瞬驚いたが、もうすっかり悪霊慣れ? していたので、慣れた仕草で御神刀を手にして、すらりと抜いた。
「……どこの狐か、妖怪か、姿を見せませい!」
「…………」
庭先からなにかの影が、ずるりずるりと這い上がる。黒い霞はしばらくの間、木階のあたりに漂っていたが、やがて人の形を作りだす。
「……葵の上、お迎えに参りました」
「……誰?」
「わたくしが分かりませぬか? この光り輝く君と言われた……」
「え……?」
ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待て! ちょっと待って! 本人が悪霊になって、どうするのよ?! いや、須磨に行ってから、すっかり忘れてたけど! ちょっとごめん! なにせ、みんな忙しいから!
『それにしても……自分で自分のこと、“光り輝く君”とか言ってる……相変わらずだなこの男……』
うっすらと、人の形を創った光源氏は、須磨に行ってから自分に起こった悲劇を、
「……おかわいそうな光源氏さま」
葵の上は、いったん抜いた御神刀を鞘に戻して、彼をじっと見つめていた。
「ようやく、ようやくわかって下さったのですね。いまからでも、分かってくださればよいのですよ。さあ、わたくしのそばへ……」
そう言って、光源氏が手を伸ばした時である。もの凄い音がしたのは。
「どうしましたか!?」
焦った声で、外に控えていた女房たちが駆けつけると、なにやらひどく醜い怨霊を、葵の上が、鞘をつけたままの御神刀で、タコ殴りにしていた。『顔面』だけを狙って。
「鏡! そこの大きな鏡を持ってきて! 早く!」
「は、はいっ!」
怨霊も恐ろしいが、とにかく頭がまっしろな女房たちは、慌てて大鏡を抱えて、持ってくる。
「あんたには、この顔が一番お似合いよっ!」
「ひ、ひぃ――!」
美しい光源氏の顔は、見る影もなく無残に膨れ上がり、顔こそが自分の自尊心の一番の柱であった、怨霊となりし光源氏は、自分で自分の顔の醜さに耐えきれず、思わずへたり込んでいると、そこに一刀両断、葵の上にスラリと抜いた御神刀を振り下ろされ、彼はかき消すように、その場からから消えて行った。
『ギリシャ神話に、自分の顔に見とれて、池に落ちた間抜けがいたけど、どっちもどっちの痛さよね……本当に朱雀帝と血がつながっているのかしら? いや、どっちかといえば、朱雀帝が瓢箪から駒なのか? 桐壺帝とノリが一緒だもんね。帝にもう少し目の細かい結界が張れないか、今度聞いてみよう……』
葵の上は、仕事に戻りながら、そんなことを考えていた。(ゆえに、現代に生まれ変わっていた光源氏は、葵の正体に気づきつつも、手を出そうとはしなかったのであった。)
影からは、『沈香と乳香』の薫りが漂っていたが、その日の昼間、自分の産んだ若君が、さまざまな香壺の壺が乗った棚を、ひっくり返して、大変な騒ぎを起こし、せっかく手に入れた念願の個室、曹司が、今日は仇となり、まだ部屋の中に鼻が痛いくらいの、複雑な匂いが充満していたので、葵の上は、それには気づかなかった。
「まだ鼻が痛い……」
彼女はそう言いながら、仕事をあきらめると、姫君の部屋に行ったので、乳母の紫苑は驚いていたが、目を覚ました姫君は大喜びで、葵の上にしがみついて、その日は眠る。
そうして人知れず、認識すらされずに、葵の上に退治されてしまった光源氏の霊は、輪廻転生の魂の群れから外れたのか、例の千年先の未来に転生して行った。
なお、朱雀帝はといえば、多忙を極めていた上に、円満な家庭生活を送っていたので、便りのないのは元気な証拠だろう。そんな風に、いつしか彼のことを忘れてゆく。
“京の医師”は、光源氏が没してから、いつの間にか明石から姿を消し、
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