第17話 とある日の宮中/夜御殿

 帝は、左大臣から受け取った献上品の筆を、ひとり嬉しげにながめていた。


 真っ白なうさぎの毛でできた筆の穂、沈香じんこうと呼ばれる香木の中でも、選び抜いた伽羅きゃらでできたじく


 神が創りたもうた、そんないわれのある、甘みがある中にもさわやかな香木で作られた筆は、帝から見ても素晴らしい一品であった。


 すぐにでも試し書きをしようかと思ったけれど、今日も桐壺更衣きりつぼのこうい夜御殿よるのおとど(帝が夜を過ごす部屋)へ呼んでいるのを思い出し、彼女にもこの美しい筆を、新しいままに見せてやろうと、漆塗りの箱に再び収めておいたのだ。


「まあ、なんとよい薫りのする、貴重な品でございましょう。きっと天竺てんじくでは、このような筆が使われているのでございましょうね……」

「そうであろう?」


 やがて姿を見せた桐壺更衣きりつぼのこういは素直に驚いて、うっとりと筆をながめている。優し気な美しい顔が灯りに浮かぶ。


 帝は、そんな桐壺更衣きりつぼのこういの顔を、これまたうっとりとながめながら、昼間の光景と、弘徽殿女御こきでんのにょうごを思う。


 あの女御にょうごでは、こうはゆかない。


 この筆を献上の折に見た女御にょうごは褒めはしたが、ひとまず品定めをし、文箱にしまう前に、物品管理表に記載をするように、官吏かんりに指示をしていた。


 普通の貴族と比べるのも畏れ多い話なれど、一夫多妻の平安時代、ある程度の貴族の正妻、北の方ともなれば、ただの妻とは違い、夫のために家政を万端滞りなく行う必要があり、身分が高ければ高いほど、その責任と煩雑さに追われる。


 多くの北の方は、時には大垂髪おすべらかしと呼ばれる、身の丈ほどもあるロングヘアの蔽髪がく(額のあたりの髪)を耳に挟むくらいの勢いで、奮闘せねばならぬ時もあった。


 優雅に見えて、平安時代の貴族の妻は、夫の地位が高ければ高いほど、基本的に多忙であった。(三条の大宮は、臣下に御降嫁した内親王なので事情が違う。)


 弘徽殿女御こきでんのにょうごも、あまたいる后妃こうひの中で、実家のくらいが最も高く、早くから入内し三人の子を成した自分が、いわば正妻、北の方といった誇りと矜持きょうじを胸に、帝に仕えていた。


 今現在、桐壺更衣きりつぼのこういとの甘い生活で、なにかと滞る帝の日常を賢く補佐し、いつか自分の大切さを思い出して、再び国のために手を取りあってゆける未来を描き、賢く行動しているつもりでもあった。


(あるいは、愛情はないと思うのは、弘徽殿女御こきでんのにょうごの心の奥底の、最後の意地なのかも知れない。)


 だが帝にとって女御にょうごの行動は、一夫多妻のこの時代、多くの身勝手な夫が、自分の北の方に抱く、理不尽ともいえる不満と、そう変わらなかった。


 これと決めた妻は家政に追われ、いつの間にか色香も優美さも足りない存在に変わり果てた。他に運命の相手がいるのではないか? などと世の中の夫たちは、これと思った姫君に、せっせと歌を送り、本来定めた北の方からは足が遠のく。


 そんな、どこにでも転がっていそうな、平安貴族の家庭事情と同じで、帝には三人の子まで成し、長く連れ添ってきた弘徽殿女御こきでんのにょうごが、最早、疎ましくさえ思える今日この頃であった。


 あの冷たい人形のような美貌も、美しさではなく、内面の冷たさが表れている気がする。


 よく似た顔の第一皇子にも、同じ血が流れているのかと思うと、彼は東宮に申し分ない身分なれど、第二皇子である光る君の、幼いながらも畏れを覚えるような美貌と、ゆく末が楽しみな才の片鱗に、光る君を東宮にしたい気持ちは、大きく膨らんでゆく。


『東宮には、第一皇子よりも、第二皇子の方が、ふさわしいのではないか?』


 日に々々、そんな思いは強くなっていた。


 そんな帝は遂に、年明け早々、名高い人相見を呼ぶよう、中務卿なかつかさきょうに申しつけていた。


 それを桐壺更衣きりつぼのこういに密かに教えると、少し間を置いて彼女は口を開く。


「お忙しい中務卿なかつかさきょうにまで、もったいないお話にございます……」

「…………」


 桐壺更衣きりつぼのこういの白い顔が、灯りの反射で一瞬、この世の者ではないような影が見えた気がした帝はドキリとする。


 が、次の瞬間、彼女の顔に浮かんだ笑顔に、そんな出来事はすぐに忘れていた。


『真の恋』と出会った帝は、夢うつつで桐壺更衣きりつぼのこういの髪を手でいている。


 美しく薫る『沈香じんこう乳香にゅうこう』がきしめられた髪は、今宵も艶やかに香り、より愛おしさが増す。


 弘徽殿女御こきでんのにょうごでは同じ香りでも、このような優雅さは出ぬことであろうとも思う。


(要は桐壺更衣きりつぼのこういのすることは、すべて善とし、それを引き合いに、弘徽殿女御こきでんのにょうごがなにをしても、帝は気に入らぬのであった。恋が盲目なのは、いつの時代も身分を違えず、同じ様子である。)


「良きことを思いついた」

「まあ、なんですの?」


 桐壺更衣きりつぼのこういは、白く美しい顔を愛らしく傾ける。帝は横になり頬杖をつくと、もう片方の手で更衣こういを抱き寄せながら、たのし気な声で、甘く耳元でささやいた。


「この筆を、光る君に新年の祝いとして差し上げよう」

「そんな、帝の代参だいさんをなさった第一皇子を差し置いて、畏れ多いことにございます……」


 控えめな彼女の言葉をさえぎる。


「才のある光る君の手習いにふさわしい品だ。もう決めたのだ。それよりも今日あった楽しい話をしてあげよう」


 これは自分にと差し出された品、ましてや小さな筆である。誰にはばかることもない。


「光る君には宝とさせますわ……」


 帝は迦陵頻伽かりょうびんがの声とは、このような声なのだろうと思いながら、更衣こういの美しい声に耳を傾ける。


 そんなこんなで、翌日のお出ましも、恒例のごとく遅れに遅れ、そのまま夜御殿よるのおとどに、こもりっきりになり、今日も今日とて、帝の決裁が必要な書類は、大量に溜まってゆくのであった。

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