第136話 追走曲 3

 兵部卿宮ひょうぶきょうのみや源典侍げんのないしのすけの声を聞きながら、相変わらずかんにさわる声の女だと思う。(彼女のよく通るキンキンとした声を、彼は嫌っていた。)


「貴女の存在は、わたしが皇子の頃から、時間がたったことを忘れさせるね」

「まあ……」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやが言ったのは、昔と変わらない彼女の男性遍歴の派手さだったが、典侍ないしのすけは「昔と変わらずに美しい」そう言われたと思い込み、にっこりと笑みを浮かべて、彼をつぼねの奥に“そのつもり”で案内した。


 彼女のつぼね尚侍ないしのかみと大宮が住まう登華殿とうかでんの裏口にほど近い、皇后宮職こうごうぐうしきの入る貞観殿じょうがんでん孫庇まごひさしの一角を几帳で仕切って、女官や女房たちのつぼね(個室)にしている場所にあった。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやがなにげなく庭に目をやると、女主人が帰ったからであろう、登華殿とうかでんの中に灯りが増え、誰かが貞観殿じょうがんでんの前を通り過ぎ、しばらくしてから、弘徽殿こきでんにも女御にょうごが帰ったようだった。


 どうやら他の女御にょうごたちも、それぞれの殿舎(御殿)に戻った様子である。


「今日のうたげは、さぞ華やかだったことでしょうね」

「……そうだね」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、親王である自分がうたげに呼ばれなかったなど、少しも思ってもいない源典侍げんのないしのすけの言葉に、あやふやな言葉を返し、ここも居心地が悪いと周囲も静まりかえった頃、そろそろ自分も帰ろうかと、自分の肩にしなだれかかる典侍ないしのすけを片手で押しやって、こっそり外の様子をうかがっていると、清涼殿の方からなにやら灯りを手にした宮中の女房たちの行列が、こちらに向かってくる。


 てっきり、桐壺更衣きりつぼのこういを、夜御殿よるのおましに呼びにゆくのかと思っていたら、行列は登華殿とうかでんの前で止まった。


「どういうことだ……?」

「あら、てっきり淑景舎しげいしゃ(桐壷)に、向かわれるのかと思いきや……」


 あごに手を当てて首を傾げていた彼は、面白そうな顔をすると邪険にしたところの源典侍げんのないしのすけに「ちょっと何事か見てきておくれ」頬に軽く口づけをひとつ落としてそう頼んだ。


「しかたのない皇子様ですこと……」


 親王に言い寄られたなんて、「明日の自慢話はこれで決まり!」そう思った彼女は愛想よく返事をすると、登華殿とうかでんの方に様子をうかがいに、皇后宮職こうごうぐうしきの端までいって、渡殿の角から向こうをのぞいた。


 警備にあたっている蔵人所くろうどどころの武官は彼女を見とがめたが、内侍司ないししの女官であったので、特段の注意も払わなかった。


 そうして“尚侍ないしのかみ夜御殿よるのおまし呼出し事件”を、目を丸くして目撃した“極めつきの恋愛体質”である典侍ないしのすけは、自分のつぼねに帰ると「あらあら尚侍ないしのかみは、早くも帝の御心を射止められたのかしら?」とか「でも同腹の妹君と瓜ふたつの姪であらっしゃる尚侍ないしのかみ、危うい恋ですわね……」「わたくしが十歳の時は、まださすがに……でも、確かに夜御殿よるのおましの方に向かって、帝の女房たちと一緒に……」そんな風に紅潮した頬をさますように、檜扇であおぎながら、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやに報告していた。


「おやおや、それは、大変なことだね」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは帰るのをやめて、典侍ないしのすけを抱きしめたまま、またしばらく外の様子をうかがっていたが、意外にも尚侍ないしのかみは半刻(30分)も過ぎるや過ぎぬや、そんな頃合いで帰ってきていた。つまらないことに、どうやら本当に公務で呼び出されたらしい。


「あら? もう尚侍ないしのかみは、お戻りになられたのね。では、いまのはわたくしの早合点でしたわ。それは、そうですわね、姫君はまだ十歳、母宮が御心配のあまり、御一緒に参内されたほどの方ですもの」

「いやいや、尚侍ないしのかみの行動は典侍ないしのすけや“周囲”が、そう思うのも、いたしかたのないことではないか。典侍ないしのすけの想像と、わたしが思ったことは、変わりなかったと思うよ……」


 彼は、典侍ないしのすけつぼねの外に並ぶ、彼女の同僚や女房たちが几帳越しに、耳をそば立てているのを知りながら、面白そうに彼女をあおった。

 案の定、彼女は面白そうに、“自分が考えてしまったこと”を口にする。


 彼女のキンキンとした声は、几帳の一枚や二枚では、外に丸聞こえであった。


「そ、そう、そうでございましょう? わたくしは、尚侍ないしのかみ夜御殿よるのおましに帝が御召しになられたのは、絶対に帝が尚侍ないしのかみに、一目で恋をされたとしか、思えませんでしたもの! でも、次期東宮である第一皇子も、尚侍ないしのかみには、大いに興味を持たれているご様子とか! どうなるのでしょう?! 尚侍ないしのかみには特別な魅力がおありなのでしょうね!」

「たった一夜で、ふたりの高貴な方々をとりこにするとは、さぞ素晴らしい姫君なんだろうね」


 几帳の外に、複数の気配が集まっているのを知って、彼自身は声を落として、自分と悟られぬようにするが、典侍ないしのすけは、自分の人生の一番のお楽しみ“恋物語”を想像し、膨らませることに集中していて、そんなことはまるで気がつかず、気も回さず、やんごとなき女君が聞けば、大いに眉をしかめる、そして兵部卿宮ひょうぶきょうのみやにとっては愉快でしかたがない。そんな妄想を広げた持論を熱く語っていたが、明け方近くようやく、締めくくりの言葉を述べて、彼を送り出していた。


「まあでも、こんなことを言ってしまえば、まるで尚侍ないしのかみが、一晩でふたりと逢瀬を楽しまれたみたいに聞こえてしまうかもしれません。でも、第一皇子はともかく、帝にとって尚侍ないしのかみは、同腹の妹宮に瓜ふたつの姫君、いかがなものかと思いますわね」

「…………」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、蔵人所の武官たちが朝の交代の時間を待ち、人目が少なくなってから、なにか酷くゆがんだ笑みを浮かべて、後宮から姿を消す頃、尚侍ないしのかみの尾ひれがついた、よからぬうわさ話は真実味を持って、宮中の女房たちを中心に広がっていた。


 彼女たちは左大臣家の女房たちと、日頃から仲が悪いこともあって、左大臣家の姫君のよからぬうわさ話は、とても面白きものであったのである。

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