第137話 追走曲 4

「おや、お早い出仕にございますね」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみや兵部省ひょうぶしょうに戻ると、やかたに帰ったと思い込んでいた大輔たいふ(次官)が、彼に声をかけたが、それを無視して曹司に引き戻り、彼はほくそ笑む。


 あの時、関白が現れた大騒ぎの日に、左大臣家の姫君の出仕を望んだのは本心であったが、自身の出世のための大切な『駒』であった妹宮が“加茂斎院かものさいいん”となってしまったいまでは、うとましい存在でしかない。


 それでも左大臣の無能さゆえ、関白が引退する秋までの辛抱と、尚侍ないしのかみの出仕に関しては、やや楽観視していたが、このまま帝のお気に入りとして、尚侍ないしのかみが後宮での地位を確固たるものにし、第一皇子が東宮となり、その上、尚侍ないしのかみが第一皇子の寵愛まで獲得し、実質的な后妃となれば、帝が譲位でもした日には、せっかく弱まるはずであった、尊き帝の血の系譜におおいかぶさる『摂関家』の勢いが、再び増すのが目に見えている。


 尚侍ないしのかみという地位は、おおやけには后妃ではない立場であるがゆえに、後宮や帝の代替わりにしばられず、このままでは二代の長きに渡って、尊き帝の溺愛と寵愛を、その一身に取り込んでしまうかもしれない。


 尚侍ないしのかみが、たかが臣下の分際で、何十年も内裏で君臨してきた関白の再来になることだけは、それだけは阻止せねばならない。あのうっとうしい中務卿なかつかさきょうが、尚侍ないしのかみを『駒』にして出世してゆくのも、我慢がならないことであった。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやにとって、国家運営やまつりごととは、尊き身分である帝や親王である自分たちを中心に、絶対的な律令国家の制度を作り、自身の地位を押し上げ、栄耀栄華の中で華やかに生きるためにのみ、その情熱が向けられていたので、絶望的に傾きかけている国体のことなど、気にしたことはなく、知る気もなかった。


 それらすべては帝と、それを取り巻く皇子や親王たちの徳を持って、こともなく収まるべきものであり、今現在の雲ゆきの悪い世情は、摂関家を中心とした貴族たちの忠誠心と、信心が足らぬからだと思っていた。


 ゆえに尚侍ないしのかみが出しゃばり過ぎるのは、世のことわりを今再び混乱に招くものだととらえ、自身の行動をあの時と同じように正当化する。


「つまらぬ真実よりも、真実をひと匙混ぜた、煽情的せんじょうてきなうわさ話の方が、人は大好きだからね……」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、そうひとり言を呟くと、まだ皇子であった頃の中務卿なかつかさきょうを、世間の爪はじきにした時と同様に、これをきっかけに尚侍ないしのかみは、わきまえることを知るだろうと思い、朝議の時間だと、大輔たいふが呼びにくるまで、仮眠を取ることにした。


 朝がすっかり明ける頃には、尚侍ないしのかみのうわさは、収拾がつかぬほどに広がっているだろう。いくら才に長けているとはいえ、しょせん世間知らずの姫君、すっかり気落ちして、大人しく左大臣家に帰る……。いや、うわさに絶望して出家するかもしれない。尚侍ないしのかみが出家すれば、中務卿なかつかさきょうの摂関家のうしろ盾もなくなるではないか。


 そう思い、満ち足りた気分で、うたた寝をしていた兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、やがて大輔たいふの声がけで目を覚まし、彼をしたがえて朝議の場に向かう。


 案の定、集まった公卿たちは、それぞれにツテのある宮中の女房たちから“尚侍ないしのかみのよからぬうわさ話”を仕入れているようだった。


 やがて、官吏を従えた中務卿なかつかさきょうの姿が現れたことで、周囲の“尚侍ないしのかみのうわさ話を半信半疑でささやき合っていた口は、一旦ピタリと止まる。


『そなたがおらねば、わたしが要らぬ苦労をすることも、なかったであろうよ』


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、そんなことを思いながら、中務卿なかつかさきょうすがめた目つきでとらえ、兵部省ひょうぶしょう大輔たいふが一生懸命に書簡を持って、自分に説明をしているのを、話半分で聞いていた。


「本日の朝議、関白は御欠席、帝への奏上は見送りにございます」


 蔵人所くろうどどころの別当が、朝議の間に現れてそう述べ、周囲に落胆が広がる中、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、薄らと上品な笑みを浮かべていた。


「さて、こうしていてもいたしかたがない。公卿だけで終わる案件を片づけねば!」


 本日の最高責任者である右大臣が、気を取り直してそう言うと、周囲もそれなりに動き出し、朝議の時間は刻々と過ぎていった。やがて昼過ぎに終わりをむかえる。


 他の省との折衝ごとで、まだ多くの公卿や、その省の官吏たちが残って、非公式に話を続ける中、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやについてきていた、兵部省ひょうぶしょう大輔たいふは、いつものように自分の上司にさっさと見切りをつけて、自分で中務省なかつかさしょうとすり合わせをするべく、中務卿なかつかさきょうのところで、お伺いを立てていると、不意に彼の上司である兵部卿宮ひょうぶきょうのみやが面白そうな顔でやってきた。


 彼は怪訝な顔をする。

 兵部卿宮ひょうぶきょうのみや、つまり自分の上司が中務卿なかつかさきょうを毛嫌いしているのは、彼も周囲の公卿たちもよく知っている、いわゆる周知の事実であり、それゆえにいつも必要最低限以外は自分任せであった。


 それなのに、今日は特段の用事もないのに、彼はわざわざ中務卿なかつかさきょうに話しかけている。(朝まで兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの尻拭い、とでもいう仕事に追われていた彼の耳に、うわさ話は入っていなかった。)


「公務の忙しさに、まだ婚儀の祝いを述べていなかったが、なにやら尚侍ないしのかみは大変な人気のご様子だね?」

「なんの話ですかな?」


 自分の謎かけに平然と返事をする中務卿なかつかさきょうは、さすがにまだうわさを知らぬ様子で、これから自分が口にする言葉に、目の前の男の慌てふためく顔が見られるのを、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは楽しみだと思った。


 うわさという名の『毒』が回り切っていることに、確信しか抱いていない兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、自分で尚侍ないしのかみと、うとましい中務卿なかつかさきょうに、とどめを刺すことにした。


 いまいましい六条御息所ろくじょうのみやすどころの『善き行いによる早めの功徳』とされた、彼と尚侍ないしのかみの婚儀すら、この度のうわさと絡めて、まとめて一気におとしめてしまおうと思う。


「いやいや、ご同情申し上げる。帝をあっという間に篭絡した手管てくだをみるに、尚侍ないしのかみは、元々、東宮妃になる資格のない(男遊びにたけた)姫君であったゆえ、関白に押しつけられたのであろう? 幼き日の大火といい、このたびの婚儀といい、“三条の大宮”に関わると、そなたはロクなことにならぬ……心からご同情を申し上げるよ」

兵部卿宮ひょうぶきょうのみや貴方あなたがなにを言っているのか、わたしには理解できぬが、ご自分が一体なにを言っているのか、本当に理解していらっしゃるか?」


 腰を抜かさんばかりに、大いに慌てると思った中務卿なかつかさきょうは、平然とした様子で自分を、軽蔑を含む、射るような視線で見つめていた。兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、けげんな顔をしたまま、彼を見つめ返す。


 それぞれの打ち合わせに、ざわついていた周囲も、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの言い出した“尚侍ないしのかみのうわさ”を補填した上に、尚侍ないしのかみの不名誉すら、あてこする言葉にぎょっとして、水を打ったように静まり返っていた。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、元々、その役職ゆえに政治的な地位は、中務卿なかつかさきょうよりも格下であったが、親王としての地位の高さゆえに、彼に対して常に高圧的であったし、周囲も眉をひそめながらも、それを見て見ぬふりをしていたのは、正式な東宮がいない中、その次の帝のくらいに対する『控え』である彼の“親王”としての地位ゆえであった。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、中務卿なかつかさきょうの反応にとまどいながらも、あの大火の日と同じように、確かにこの場でも耳に挟んだ、「尚侍ないしのかみが帝に取り入って、さっそく夜を供にしたとか」「第一皇子も彼女の虜になってしまい、一晩で二人と逢瀬を楽しまれたとか」そんなうわさは最早動かぬもので、中務卿なかつかさきょうは、「男にだらしのない姫君に頭を痛めた関白が、体裁を取りつくろうために当てがった男」として、再びつまらぬけがれた存在(彼の頭の中では、常にそういう存在だった)に戻ったと確信し、周囲の空気も読めず、やがて中務卿なかつかさきょうが、大きく息を吐くのを見て薄く笑ったが、次に彼が発した言葉に顔が引きつった。


「一体、なんの話をされているのか……昨夜、うたげのあとに公務で蔵人所くろうどどころの別当と共に、尚侍ないしのかみが帝の御前に再度拝謁した話だとすれば、とんだ見当違いですが、一体、どこでそんな曲がったうわさ話を聞かれたのか……ああ、そう言えば、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、昨夜のうたげには、呼ばれていらっしゃらなかったので、どこぞでありもしない、怪しげなうわさ話を拾われて、信じてしまわれたのでしょうか?」

「な、なんだと?!」


 中務卿なかつかさきょうに「昨夜のうたげので、そんな怪しげなうわさ話を信じてしまったのか?」そんな不名誉なことを、大勢の公卿や官吏たちの前で、あきれた口調で言われた彼は怒り混乱した。


 なぜこの男が、こんな風に落ちついていられるのか分からなかった。そうこうする内に、いつの間にか気づかぬうちに、蔵人所くろうどどころの別当が、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやのうしろに立っていた。


「少なくともわたくしが、その場に居合わせたことは保証いたしますし、尚侍ないしのかみは、わたくしより先に、ご自分の殿舎(御殿)にお帰りになりました」


 別当が口にした言葉も、真実を混ぜた嘘に近かったが、彼は兵部卿宮ひょうぶきょうのみやと違って、色恋はともかく常識人としての周囲の評価が高く、うたげに出席していた公卿たちは、自分自身の“帝に選ばれた特別な人物”、その重々しさを大事にせねばと思い、宮中の女房が、面白そうに自分たちに持ち込んでいた“尚侍ないしのかみのうわさ”など、知らなかったことにしようと心に決めた。


「恐れながら、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやに置かれては、そのような根も葉もないうわさ話よりも、ご自分のご家庭を……おっと、余計なお世話でしたな。これも、年寄りの老婆心ゆえ見逃してくだされ」


 うたげに出席していた、関白と同世代の公卿のひとりが、わざと心配そうな顔でそういうと、その日の出席者の最高位であり、藤壺の姫宮の件で兵部卿宮ひょうぶきょうのみやに恨みを抱いていた右大臣は、転がり落ちてきた好機に、あとは任せよとばかりに、中務卿なかつかさきょうに目配せをした。



登華殿とうかでん


「は、は、は……」

「お風邪ですか?!」


 朝議で公卿たちが、右往左往している頃、葵の君が体を震わせてから、くしゃみをしそうになったのを見た紫苑は、心配になって姫君の額に手を当てていた。

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