第138話 追走曲 5

※例によってウソが多い参考資料です⇓

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・後宮➡https://kakuyomu.jp/users/momeaigase/news/16817139558960595439


 *


 右大臣は、藤壺の姫宮の“入内未遂事件”のあと、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやに対して大いに恨みを持っていたが、関白により大宰府送りにされた大納言と違い、親王である彼には確固たる理由がなければ、さすがに手出しができぬので、虎視眈々と機会を狙っていたのだ。


兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、どこでそんな無礼極まるうわさ話を手に入れられたのか? 少なくともこの場にいる、常識のある公卿は誰ひとり知らぬこと。ましてや、昨夜のうたげ貴方あなたがどこで……ああ、ひょっとして、不埒なうわさを広めて、昨夜、帝のうたげに呼ばれなかった腹いせを? しかしなぜ中務卿なかつかさきょうに? 昨夜のことは中務省なかつかさしょうの管轄外でありますぞ?」

「あれは帝の差配によるお取決めゆえ、蔵人所くろうどどころが手配いたしました。中務卿なかつかさきょうには関係のないことでございますが、その程度のことも知らぬはずは……ああ、帝にはできぬ八つ当たりをされているのですか? 親王とはいえ、帝に対して無礼極まりなき話にございますね」


 右大臣の尻馬に乗って、蔵人所くろうどどころの別当も追い打ちをかける。

 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやはまったく気がついていなかったが、幼き頃の自分の立ち位置と、現在の中務卿なかつかさきょうの立ち位置は、『親王』という肩書が大きな影響力を持つ、宮中の女官や女房たちはさて置き、まつりごとの世界においては、完全に入れ替わっており、彼が再びやすやすと成し遂げようとした悪事は、おかしな方向に向かってゆく。


 中務卿なかつかさきょうは、ちらりと右大臣に目をやってから、彼の兵部卿宮ひょうぶきょうのみやへの仕返しに対して、味方をする気もないが、止める理由もないので、素知らぬ振りを決め込んだ。


「なっ!! 無礼な!! なぜわたしが?! うたげなど関係ない!! う、うわさ話は、皆もしておったであろうが?!」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、そう言いながら、隣にいた中納言に顔を向けたが、彼も、その隣で書簡を無心に巻き直していた参議も、「いま初めて聞きました!」そんな表情を浮かべて首を横に振った。


 確かに彼の言うとおりであったが、元々「無能親王」と陰口を叩かれていた兵部卿宮ひょうぶきょうのみやと違い、空気が読める彼らは、目の前にいる右大臣の顔色をうかがい、関白の顔を思い浮かべ、うたげに呼ばれた者も、呼ばれなかった者も、皆一様に「誰かそんなうわさ話を聞きました?」そんな表情で顔を見合わせて、話の決着を見守りながら参議を見習い、いつもは官吏に任せている書簡の巻き直しを無心の表情ではじめる。


「やはりみなも知らぬ様子。それに尚侍ないしのかみが公務を終えてすぐに帝のところから下がられたのは、弘徽殿女御こきでんのにょうごもご存じのことですから、どう考えても、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやが悪意あるうわさを、広げようとされたとしか思えませぬなぁ……」


 右大臣が持ち出した、「弘徽殿女御こきでんのにょうご」という言葉に、ひたすら書簡を巻き戻しながら、ことの成り行きを見守っていた公卿たちは勝敗を読み切って、右大臣の言葉に同意を現すべく深々とうなずいた。


 なぜならば、登華殿とうかでんから清涼殿の一角にある『夜御殿よるのおまし』に向かうには、弘徽殿女御こきでんのにょうごが住まう、弘徽殿こきでんの前を必ずとおらねばならぬ。(逆コースもなくはないが、遠回りが過ぎるので、うわさが本当であれ、真実はご公務であったのであれ、帝をお待たせしているのに、それはあり得ない話であった。)


 それに弘徽殿女御こきでんのにょうごの気位の高さと、嫉妬深さは内裏中の周知するところであり、その女御にょうご尚侍ないしのかみのうわさを、否定なさっているのであれば間違いはなかった。


 右大臣は転がり込んできた“絶好”の機会に、内心ほくそ笑んでいた。

 もし、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやや宮中の女房たちがうわさしていた、「尚侍ないしのかみと帝がどうのこうの……」そんなことが本当であれば、今頃、自分は弘徽殿女御こきでんのにょうごに呼びつけられて、大いに“厄介事”に巻き込まれているはず! ゆえにうわさ話は、尚侍ないしのかみか、貴族派の頂点である摂関家を妬む、親王派の誰かだと踏んで、彼は朝議の前から様子を見ていたのだが、「無能親王」の立ちふるまいで、すっかり合点がてんがいった。どうやら話の震源地は、自分たち貴族派を目の敵にするこの男であろう。


 そんな訳で、尚侍ないしのかみのうわさを嘘だと見抜いた彼は、真実どころか堂々と嘘をつき、娘である弘徽殿女御こきでんのにょうごを証人として、引っ張り出したのだ。


「……それよりも問題は、兵部卿宮ひょうぶきょうのみや、そんなうわさ話を親王という重い立場の方が、おおやけの場で持ち出したことですな」

「なんだと?」


 右大臣のもったいぶった言葉に、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは気色ばむ。


「夜の長話の余興のひとつと、なんの根拠のないうわさを女房たちが口にするのと、二官八省の頂点に立つ公卿が集まるこの場で、そのようなうわさを広げるのは、まったく話は違いますぞ? 尚侍ないしのかみは、関白と帝が国家のためと、無理を押して出仕をさせて下さった姫君! それをこの場で親王は公然と批判なさった。それは、尚侍ないしのかみと摂関家への侮辱だけに終わらず、ひいては帝への公然たる侮辱! この件は明日にでもわたくしが奏上いたしますが、ひとまずはこのまま謹慎なさるように!」


『大宰府……』


 関白が休みだと言うのに、妊娠中の妻が心配でならない、書簡を延々と巻いては広げ、広げては巻いて、そんなことをくり返していた参議の脳裏には、その言葉がよぎった。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは思ってもいなかった展開に、青ざめて立ち尽くしていたが、彼に声をかけるものは誰もなく、親しくしていたはずの公卿たちも、「大人しくしていれば、ご自分の仕事の負担も減って、気楽な生活も見えたのに、いくらなんでも軽々しい……」などと小声で言いながら、そそくさとその場を去った。右大臣が言う通り、いくら親王とは言え、帝に対しての非礼の責任は免れぬ。彼らはそう思ったのだ。


 朝から薄曇りだった空は、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの先行きを示すように、みるみるうちに暗くなっている。


 謹慎を言い渡された彼が、今更だというのに体裁が悪いと、公卿たちが一斉に牛車で退出する時間を避け、夕刻を回ってから大内裏の門を出て、牛車で朱雀大路を少し進んだ頃、ついいましがたまで小雨がぱらつく程度だったのに、急に雨脚が強まったかと思うと、空からは雷鳴がとどろきだす。


 いきなり滝のような雨が、激しく降ってきたので、朱雀大路の人影は、あっという間に消えて、まるで夜がきたような暗さに支配されていた。


 屋根が抜けるかと思うほどの雨音に、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、早くやかたに帰ろうと小窓を開けて、外でびしょ濡れになって、とぼとぼと歩いている供人たちを急かすが、急な豪雨で伸ばした手の先すら見えぬ、そんなありさまであったので、ゆっくりと進むしかなかった。


 一行の誰ひとりとして、自分たちのあとからついてきた、“六”と中務卿なかつかさきょうに気づいてはいなかった。

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