第139話 追走曲 6

 一瞬大きく光ったいかづちが、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの乗る牛車のすぐ側に落ち、驚いた牛が跳ねるような仕草をすると、無理やり牛車を置き去りに走り去る。あまりの出来事に驚いた供人たちも、みな散り々々に走って姿を消した。


 あとに残ったのは、激しい雨に叩かれる傾いた牛車と、中で慌てふためいている兵部卿宮ひょうぶきょうのみや


 牛車の横に近づいた“六”は、濡れることも気にせずに、朱塗りの傘を地面に放ると、しゅを唱えながら九字を切る。中務卿なかつかさきょうは無表情なまま、牛車の中から兵部卿宮ひょうぶきょうのみやを強引に引きずり出していた。


 地面に引きずり降ろされたはずの兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、自分が血でいたような緋色の不思議な空間にいることに気づく。


「ぶ、無礼な!! このような不届き決して許さ……」


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは最後まで言葉を発することはできぬまま、中務卿なかつかさきょうに後頭部を掴まれて、真っ赤な地面に顔から勢いよく叩きつけられる。耳障りな音と共に、彼の鼻はあらぬ方向に曲がり、勢いよく鼻血が流れ出していた。


「!!!!」


 彼は声にもならぬ絶叫を上げながら、しばらくの間地面を転がり回り、ようやく、よろよろと立ち上がったが“無品親王”と呼ばれ、取るに足らぬけがれた存在である男に、なんの頓着もなく、今度は腹を膝で蹴り上げられた。


「ごっ! げ! け! 貴様、尊き親王にっ……がっ!!」

「……尊き存在であるなら、その血で少しは、この状況どうにかしてはどうだ?」


 中務卿なかつかさきょうは、再び地面に転がって無様に震えている、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの首を両手で掴み、無理やり引き起こして、そのままじわじわと高く持ち上げる。


 首を絞め上げられ、両足が宙に浮いた状態の兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、当然息ができず、鼻血を垂らしたまま苦悶の表情で、両足をばたつかせていたが、顔色はどんどん赤黒く変わっていった。


「なによりも清らかな、わたしの“天”に向かって泥を投げ、なによりも穢れなき、わたしの“地”に向かって火を放った、直視にえぬけがれた親王よ、この先お前はなにひとつ手に入れることはなく、誰ひとりお前の相手をすることもない、永遠にな……」

「ご、ごぼっ……!! げほっ!! ひぃ!!」


 半狂乱だった兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、なぜか急に中務卿なかつかさきょうの両手が離れた感覚に気がつき、遠くに見える鳥居のような光に向かって必死に走った。


 なんとかそこを通り抜けると、果たしてそこは、怪しげな空間の出口であった。先程の激しく打ちつける雨はすっかり上がり、見慣れた、しかし違和感のある朱雀大路を、自分を置き去りにした下人たちを呪い、怒りで胸が一杯のまま、それでも自分のやかたに帰ろうと必死で走るが、なぜかやかたには、なかなか、たどりつくことができず、ようやくやかたの門をくぐった頃には、彼は疲労困憊であった。


「なぜ誰も出迎えぬ?!」


 傷ついた上に、びしょぬれの主人が帰ったというのに、北の方どころか女房の姿もない。兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、いくらうまく行っていない仲とはいえ、あんまりだと思いながら、北の方の部屋に向かおうとすると、女房の十二単じゅうにひとえの裾が目に入り、不思議な感覚に襲われると同時に、女房の大きな悲鳴が響き渡った。


「どこから、このような醜き生き物が! はよう、はよう誰ぞ!」


 彼は、女房の十二単じゅうにひとえの裾しか見えぬのを不思議に思い首を傾げたが、やがて現れた奉公人が、うっとおしそうな表情で、なにかを自分にかぶせると、周囲が真っ暗になる。彼は驚いたが、なぜか言葉を発することはできなかった。


 やがて再び周囲は明るくなり、見慣れた庭の景色が目に入る。何事が起きたのかと、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、疲れた体を引きずって、屋敷内に戻ろうとするが、ふと地面にできた大きな水たまりに映る自分の姿に、ぎょっとして立ちすくんだ。


 そこに映る自分の姿は、怪我をした醜い大きな“ガマガエル”であった。


 やがて、やかたの中から“自分”が帰ったという声が聞こえ、彼は耳を疑ったが、北の方が渡殿を歩くのが見え、ずぶ濡れになった、どこか様子のおかしい“自分”が、慌てた表情の北の方や女房たちに抱えられているのが見えた。


 それはニセモノだと、彼は必死に伝えようとするが、なんとか口から出た声は、聞いたことのある『かえる』の声だった。

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