第5話 宮中の騒動 2

 案の定、誇りと矜持きょうじの具現である女御にょうごの機嫌は急降下し、最上級の絹織物で仕立てられた十二単じゅうにひとえの袖口から見える、優雅な白い手が小さく震える。


 皇子と瓜ふたつの、冷たい人形のような美貌には、怒りのあまり頬に、うっすらと朱が浮かんでいた。


「第二皇子の母とはいえ、女御にょうごの身分でもない、更衣こういが帝の代わりを務めるなどなりません! そのような出過ぎた行為、東宮とうぐうとなられる、わたくしの“第一皇子”の顔が立ちませぬ!」


 右大臣の娘である女御にょうごは、帝の桐壺更衣きりつぼのこういと第二皇子への寵愛を見るにつけ、息子である第一皇子の立場をより完璧にするため、関白を筆頭に貴族の頂点に立つ摂関家せっかんけ嫡流ちゃくりゅう、左大臣の姫君を、是非とも“第一皇子”の妃に迎えたいと、常より左大臣に願いながら、色よい返事は、未だもらってはいない。


 第一皇子が生まれて以来、貴族社会では、第一皇子と左大臣の姫君は、年回りも丁度よく、いずれ東宮となられるはずの第一皇子の東宮妃として、入内するものと思われていたが、当事者同士の間では、確たる約束のひとつもなかった。


 最近では、左大臣に“第二皇子”のうしろ盾になって欲しい帝が、(あるいは帝を間に桐壺更衣きりつぼのこういが)姫君を“第二皇子”の妃にと、暗に頼んでいるからだと、貴族社会では推測されている。


 そこに起こった、このたびの左大臣家の姫君のための寺詣てらもうで騒動である。


 姫君が病に伏せたことで、健康上の不安から、女御にょうごが姫君を、第一皇子の女御へと迎える意欲は、やや落ちかけていたものの、摂関家せっかんけ嫡流ちゃくりゅうという家柄、伝え聞く美貌と才能、やはり“第一皇子”が東宮になったあかつきに、女御にむかえたい姫君は他に見あたらぬ。


 それに桐壺更衣きりつぼのこういが、帝の代わりに寺詣てらもうでをし、左大臣家の姫君が、つつがなく平癒した場合、更衣こういへの帝の寵愛ちょうあいは、さらに増し、左大臣も第二皇子への姫君の入内を考えるに違いなかった。


 そうなれば摂関家せっかんけの力によって、“第二皇子”の立場は補完され、あってはならぬことなれど、“第二皇子”が東宮のくらいく、そんな可能性は、なきにしもあらず。


 自分の産んだ“第一皇子”の東宮位が、ほぼ確定しているとはいえ、大貴族の右大臣を外戚に持つ第一皇子よりも、これと言ったうしろ盾もなく、扱いやすそうな第二皇子である光る君を東宮に……などと言う思惑が、左大臣に浮かぶのも、遠くない未来にすら感じる。


 それほどに左大臣の、ご自分の姫君への溺愛は朝廷中に知れ渡っていたし、眩しいくらいに可愛らしい光る君も、左大臣のお気に入りである。(なによりも血筋と、それ以上に外見を重視する時代であった。)


 そうなれば同じ大貴族とはいえ、摂関家せっかんけには及ばない右大臣家、つまり自分の実家は没落し、あっという間に左右の大臣の力の均衡と、政治的安定に、ひびが入るのは決定的。いまは息をひそめている親王派が、つけ入る隙もできよう。


 摂関家せっかんけの富と権力は、実際のところ、あまりにも強過ぎて、歴代の帝や今上でいらっしゃる桐壷帝きりつぼてい、帝の弟君でいらした、いまは亡き東宮も、なんとか苦心してバランスを取っていた。


 帝が桐壺更衣きりつぼのこういに溺れる以前は、自分が後宮の后妃の中で、一番の序列と寵愛ちょうあいを受けていたのも、右大臣家の家柄と、それが大きな理由だった。


 大げさな話ではなく、この国を統治する『帝と後宮』の安定は政治的安定に、引いては国の安定に直結する。


 確実に子孫を残し、国の頂点としての力を揺るぎなき物にするために、帝は色恋とは別の次元で摂関家せっかんけをはじめ、有力貴族の娘を后妃にめとり、それぞれの実家の地位や序列を、最大限に尊重しなければならないのが、雅やかな王朝の根底に流れる現実であった。


 この均衡が崩れてしまえば、この先の国の未来は一体どうなるのか? 女御にょうごには飢饉ききんに対する関心はなかったが、帝を頂点とするこの律令国家の危ういバランスをうれい、実家である右大臣家をうれい、そしてそれを、めちゃくちゃにしようとする桐壺更衣きりつぼのこういが許せなかった。


 転生した葵の君が知れば、「どちらかと言えば、桐壺更衣きりつぼのこういより、帝の方に問題が……」などと疑問を抱いていただろうが、女御にょうごにとっての目障りは、誰がなんと言おうと、桐壺更衣きりつぼのこういであった。


 あの女さえ現れなければ、世の中は問題なく流れていたものを!


 そう思いながら、怒りに身を震わす母君を見つめていた、その時の“第一皇子”は、数年前の自分の生活を思う。


 母君が帝に対して、一滴の愛情もないのに、女御として入内し、自分という“帝の第一皇子”や内親王である娘たちを生んだのは『国と貴族の国家戦略』『政治的安定』のためではあったようだが、母君は自分の地位に満足していたし、二人の仲は決して悪いものではなかった。


 しかし、后妃となるべくして育ち、それを誇りとする母君は、帝と国家への献身と忠誠心にはあふれているが、恋物語は、しょせん『物語』と切って捨てる現実主義者。


 母君の苛立ちと懇願は、桐壺更衣きりつぼのこういとの『真実の愛』の世界に目覚めた帝には、情緒もおもむきもない存在の出す『騒音』としか思えないようであった。


 そんな訳で今現在、政治にまで影響が出ている、帝の『恋物語』に見せる女御にょうごの苛立ちは、ある意味、国の内政を憂う貴族たちの“苛立ち”の固まりでもあった。

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