第86話 錯綜する蜘蛛の糸 3

 葵の君は孫廂まごひさしにいる、見慣れた“六”の姿に緊張が解け、思わず彼の目の前に座り込む。


「ああ、よく来て下さいました!」

「どうかなさいましたか?」


 葵の君は心配そうに自分を見ている“六”に、御息所みやすどころの“モヤモヤ”の件を、小声で手早く説明する。


「あれは生霊なのでしょうか?」


 生霊だと確信していたが、一応、質問をしてみる。“六”は、しばし考えていたが、彼の返事は意外なものだった。


「原因となったと思われる関白を襲わなかったところを見て、生霊ではないと思います。恐らく驚きのあまり、元々、弱っていた魂魄が、肉体から外れそうになっただけかと」

「そ、そう、よかった……」


『ホントによかった!』


 しかし念のため、早ければ今夜の話し合いのあとで、再び“モヤモヤ”が出た時の対処を頼めないかと相談すると、彼は中務卿なかつかさきょうに姫君の側に、しばらくいるように命じられたというので、葵の君は安堵の表情を浮かべ、紫苑に彼にも薫花茶こうかちゃと、揚げ菓子を運ぶように頼む。


「わたしが呼ぶまで“六”のことを、お願いするわね」

「……はい」


『変な顔をして、どうしたんだろう?』


“てるてる坊主事件”を知らない葵の君は、少し不満そうな顔の紫苑に首を傾げたが、素早く母君たちのところに戻る。


 葵の君は会話の中で、自分が知らなかった、昨夜のうたげを含んださまざまな話を、母君と御息所みやすどころから聞き取り、頭の中で今後の対策を練ってゆく。


 桐壺更衣きりつぼのこういと藤壺の姫宮のソックリ話は、まあそうだろうねと思って、驚きはしなかったが、そもそも摂関家の立ち位置的に、親王派の隆盛につながる可能性の大きい『藤壺の中宮』擁立の未来は正直ありがたくはないと、関白の地獄の特訓、もとい薫陶を受けたいまは、関白同様にそれを容易に察し、そのあたりも絡めて上手く提案せねばと、考えを巡らせてみる。


 貴族出身の桐壺更衣きりつぼのこういと、親王の妹君である藤壺の姫宮への寵愛は、摂関家に似て非なる結果をもたらす。


 個人的な感情は横に置いても、今現在の国政を考えると、不相応な政治的な野望を持つ、無能な親王である兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの地位は、早ければ早いほど、首を挿げ替えて切って捨てたい。


 だが物語の通り彼女が入内して、話通りに寵愛を集めてしまえば、摂関家とはいえ、そんな圧力はかけられない。


 確定要素に近い『源氏物語』の中核をなす『藤壺の姫宮』の入内は、これからの国家の立て直しのためにも絶対に避けたい。このあたり、彼女と関白の考えは、ほぼシンクロしていた。


 阻止した方が彼女のためだと思うし! 義理の息子に強姦されたあげく、妊娠して不義の子供を産んじゃってから、悩み続けて最後は出家するなんて、可哀そう過ぎて言葉も出ない!


 しかも今回は、まだ桐壺更衣きりつぼのこういが生きているから、帝の寵愛を受けるかどうかすら未定。そんなの可哀そう過ぎる! 御息所みやすどころだって関わりがなければ、生霊になんてならずにいた訳だし、葵の上だって死なずにすんだのに! そういえばアイツ、ナンパ相手が死んでから、通報もせずに逃げてなかったっけ? 


 やっぱり腹立ってきたな……。アイツ、関わった女子全員の敵やんか!


 そんなことを考えた葵の君は、光源氏の被害を、できるだけ未然に防ぎ、自分の未来のために、苦しむ国中の人々のために、真剣に悩んでいたが、ふと御息所みやすどころに声をかける。無意識ながら手元の檜扇は、関白と同じように、ふわりふわりと揺れていた。


『后妃にも立とうか』


 母君の言った、社交辞令的な言葉に御息所みやすどころは、かなり嬉しそうな反応だった。そして葵の君が口にしたのは、物語の中での姫宮の遠い未来。


御息所みやすどころは、もし摂関家のうしろ盾があれば、姫宮を未来の東宮妃になさるお気持ちはございますか?」


「それは一体、どういうことでしょうか?」


 六条御息所ろくじょうのみやすどころは、葵の君の方に視線を移し、姫君の顔を凝視する。


 姫宮の東宮妃としての入内は、彼女にとっては悲願であり、もはや遠くに消えつつある幻想であった。しかし聡い彼女は葵の君の言葉に気づく。


『もし自分が蔵人少将くろうどのしょうしょうの正式な北の方になれば、姫宮は摂関家の姫として、最大のうしろ盾を手に入れる』


 秋好姫宮あきこのむひめみやは、自分が蔵人少将くろうどのしょうしょうと正式に結婚さえすれば、帝すら配慮する高い身分の后妃になることが、現実の話になると気がついた彼女の頬は紅潮した。


 遠く離れることながら、尊き血筋をたどれば、ご自分の姫宮と、常に帝の外戚として君臨してきた摂関家には、血のつながりはある。資格は充分であった。


 そしてそれが、摂関家の姫君が、ご自分ひとりだという政治的な“手薄さ”を、見定めての発言だと御息所みやすどころは思いつき、葵の君の十歳とは思えぬ慧眼に驚きを隠せない。


「でも、もし、そうなりましても、右大臣家の反発は、後々の大きな火種となりましょうし、姫宮の評判にも関わるかと……」


 すぐにでも了承の返事をしてしまいそうになったが、御息所みやすどころは慎重に、当然の懸念を口にして、姫君の様子をうかがった。年齢にそぐわぬ落ちつき払った態度で、姫君は頷いている。


「そのあたりは、よくよく考えねばなりませんね。先々を考えて右大臣家との仲は、良好でいたいものです」


 葵の君は彼女の反応に手応えを感じ、内心でガッツポーズを決めていた。兄君との結婚は乗り気ではないが、なにかしらの正当な理由づけがあれば、御息所みやすどころと姫宮は、自分の方に引き寄せることができそうだ。


 御祖父君も、御息所みやすどころの姫宮が手に入るのであれば、協力は惜しまないと読む。そこに丁度、女房が御息所みやすどころの姫宮が、乳母と共に到着した。


「おふたりに是非ご紹介を……」


 御息所みやすどころは、ほほえむと、乳母が現れたのを見て、ご自分の姫宮を抱き寄せようとそちらを向く。そんな彼女のうしろ姿を眺めながら、葵の君は関白とよく似た笑みを浮かべていた。


『これも天下国家のため! そしてみんなと貴女あなたとわたしのため!』


 ほぼ考えのまとまった葵の君は、頭の中でそう叫び、光源氏が幼いうちに大きな先手を打つことにした。せっかく御息所みやすどころが、目の前にいるこのチャンス! 六歳の皇子の売り込みを止めて、彼の毒牙から六条御息所ろくじょうのみやすどころを守り、自分の味方にする作戦に変更をすることにした。


『光源氏よ、恨むなら自分のを恨め!! 六条御息所ろくじょうのみやすどころは、わたしが先にもらった!』


「なんて愛らしいのでしょう、本当に葵の君の幼き頃に瓜ふたつ……」


 母君は現れた姫宮の愛らしさに、顔がほころんでいる。葵の君も小さな姫宮が愛らしく笑うのを、うっとりと見ていた。これは可愛い!


 乳母に抱かれて現れた秋好姫宮あきこのむひめみやは本当に愛らしく、幼い頃の葵の君に瓜ふたつで、大宮は時間も忘れて姫宮に夢中になっていた。葵の君も、しばらく愛らしい姫宮と遊んでいたが、女房が関白や父君たちが帰ってきたと、知らせにきたのを潮時に、ふたりの目の前を辞去する。


「御祖父君たちと話をして参りますゆえ、失礼いたします」

「関白や父君が難色を示されたら、わたくしを呼びなさいね」

「お任せしますわ、お気をつけて」


 母君の力強い言葉と、心配そうな御息所みやすどころの声援とも言うべき言葉を背に、葵の君は“六”に、御息所みやすどころの側で、待機を頼んでから母屋に向かう。


 母屋には関白と葵の君、そして寝殿には客人である右大臣と中務卿なかつかさきょう、それを迎えた左大臣と蔵人少将くろうどのしょうしょう


「なにか戸籍の関係とうかがい……」


 中務卿なかつかさきょうは、摂関家のことであるからと、自分の省の戸籍の担当の官吏をつれて、わざわざ仕事の合間に左大臣家にきていたが、なぜか右大臣に睨みつけられて、意味が分からないまま着席していた。


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