第85話 錯綜する蜘蛛の糸 2

 関白たちが牛車で出かけたあと、やっと落ちついた東の対で、三人は休憩をしていた。


 遅い朝餉を食べてから、皆で御簾内から出て、のんびりと庭をながめ、“薫花茶こうかちゃ”を飲みながら、なんとなく会話が始まる。


『朝ご飯を抜くとタダでさえ二食生活なのに、ブドウ糖が足りなくなって、頭が動かなくなっちゃう!』


 大きな危機感を抱きながらも、葵の君の脳内は相変わらずであり、話の中で出た御息所みやすどころの“一日一食”発言には思わず耳を疑った。しかも案の定、栄養バランスの欠片もない、例のヤツである。


『お塩たっぷり、えに全振り精進料理』


「え? 一日一食?」

「なにやら、それも気が進まず……」


『ひい! そんなだから、魂が抜けやすくなっているんでは?!』


“モヤモヤ”に恐怖した葵の君はそう思ったが、そう言えば、食べない方が上品とか言われている世界だったことを、久々に思いだす。


「お食事はきちんと召し上がらねば。御息所みやすどころが倒れられれば、幼い姫宮は、誰を頼りに生きてゆかれますの?」

「………」


 話の筋書き通りだと、頼りは光源氏だけどね。


 実の父親の嫁に産ませた、自分の息子にとつがせといて、その上、息子の嫁になった御息所みやすどころの姫宮を、つい誘惑しちゃったような……! 確か未遂で終わったはずだけど。


 後見人に選ぶのは、光源氏よりわたしの方が断然オススメ! あれ? 兄君との結婚はともかく、ホントにわたしの方が、オススメじゃない?


 葵の君は光源氏を思い出して、つい眉をひそめていたのだが、御息所みやすどころは葵の君の表情に、姫宮を心の支えといいながら、行いが伴っていなかったことに反省を口にする。


「そうですわね、信心も大切ですが、姫宮こそが一番大切ですわ……」

「食と睡眠は良質な健康の源です。関白があそこまで健康を取り戻したのも、葵の君に降りた御告げに従った結果。御息所みやすどころにも、是非、食生活の改善を、お勧めいたしますわ」


 はじめは、おっかなびっくり、ジビエを食べていた母君が、したり顔で御息所みやすどころに言っているのが、葵の君は少しおかしかった。そしてふと思い出す。


 左大臣家にたまにやってくる、官僧の顔のつやのよさに浮かんだ、「隠れて“動物性たんぱく質”を取っている疑惑」


 まだ植物性タンパク質の固まり、“豆腐”もないのに顔色がよすぎじゃない? というのが彼女の最近、覚えた違和感であった。


 疑惑の範囲を越えないが、俗世間に対して殺生を控えるようにと、高説を唱えながら、特権を利用して贅沢に暮らしたり、食生活までいつわる官僧ってどうなの?! 許せない! そう思っている。


 ちなみに彼女が持ち出した、今現在の平安の世に見当たらない豆腐であるが、前世の記憶を頼りに、大幅に増築と増員させた、もはや左大臣家の「姫君専属食生活研究機関」ともいえる台盤所で試行錯誤させている。“にがり”を用いた豆腐の製造は、ほぼ完成に近い。


 現代でいう荒節に近い鰹節モドキも、小屋を作っていぶされている。出汁のない味噌汁からの脱出は間近であった。


 このふたつが完成したら、葵の君は問い合わせが多過ぎて、本来の業務に支障が出て困っている、左大臣家の台盤所への対策と、書籍の販売という新規事業のため、浮世絵風の多色刷り木版画による、料理本も製作して発売するつもりで、もともとは経典などを、一色で木版印刷をしている職人を、引き抜いて手配している。


 もちろん豆腐と鰹節モドキの作り方は秘密だ。関白と協議して、かなりの高額商品にするつもりなのだ。


 御息所みやすどころが気に入っている“薫花茶こうかちゃ”も、お茶の本として、元の絵を絵師顔負けに、才に長けた母君に頼んで描いてもらい、話を進めているところである。


 手書きによる写本しか殆どないこの時代、はるか先に出るはずの多色刷り木版画は存在しなかったが、算盤そろばん同様に『コロンブスの卵』的な、葵の君の指し示したアイディアと資金に、職人たちはそれぞれの技術と情熱をつぎ込んで、先の時代に芽生えるべき『発明品』を続々と完成させていた。


 この印刷技術は彼女が出仕後すぐに、内裏の業務の改善に使用され、太政官や八省の処理能力は、格段に上がることとなる。


『摂関家の富と繁栄は、家族の幸せ!』とばかりに、葵の君は優雅な中にも多忙な日々を送っていた。


『閑話休題』



 葵の君がグルグルと、色々なことを考えている中、母君は少し心を落ちつける物をと言って、裳着の祝いにもらった、硝子ガラスでできた香壺こうごに入った龍涎香りゅうぜんこうを、白木でできた美しい台に乗せて、光の当たるさまが、ながめやすいように、高欄の近くに女房に用意させる。


 桜の花弁はなびらが舞う庭を背景に、春の光が硝子がらすごしにユラユラと、琥珀色の大理石のような、龍涎香りゅうぜんこうに差す。


『おいくら万円なんだろう?』


 そんな葵の君の俗物な感想を秘めた視線と、残りのお二人の優雅な視線が、龍涎香りゅうぜんこうに集まっていた。


「なんと美しい……姫宮が参りましたら、見せたいですわ」


 やっと心が落ちついてきた御息所みやすどころは、“薫花茶こうかちゃ”を飲みながら、うっとりと龍涎香りゅうぜんこうを見つめる。


「もちろんですとも、幼い頃から美しい物を見ることも、后妃にも立とうかという、尊い身分の姫宮には、大切なご教育です」

「大宮のおっしゃる通りですわね。美しい物を見る目は、幼い頃より心掛けてこそ」

「幼い姫君たちの新鮮な美しさへの憧憬は、わたくしたちにも潤いをもたらしてくれるものですわ……」


『后妃にも立とうか』大宮の言葉に、お互いに尊い身分の姫君を持つ者同士、深くうなずいた御息所みやすどころは、朝の騒動をかんがみて、少し時間がかかりそうだからと、幼い姫宮を気づかう葵の君の提案を受けて、自分のやかたにいる秋好姫宮あきこのむひめみやを連れて来るようにと、乳母に文使いを出していた。


 賢くも奢ることなく、まことに細やかな心遣いのできる、素晴らしい姫君である。その姫君を育てた大宮の“姫君のご教育論”は、彼女にとってまさしく金言であった。


『これが鯨の結石! 只今のお値段、金の15倍!』


 優雅な芸術への思いの欠片もない葵の君は、俗物全開の感想を胸に秘め、滅多に口にしない甘葛煎あまづらせん(砂糖の代用品)を使った揚げ菓子の糖分で、脳の活性化にブーストをかけるため、ひとつふたつ口に放り込む。(もっと食べたいけど、眠たくなったら本末転倒と、ぐっと我慢。)


 女房が静かに葵の君の近くにやって来て、内裏から“真白の陰陽師”が来たことを告げる。


 姫君は彼をいまいる孫廂まごひさしの反対側にある、紫苑の局がある孫廂まごひさしに案内するように伝え、ふたりには少し関白に頼まれごとをしているのでと言い残して席をはずす。


 彼女の頭の中は、先程浮かんだ『わたしの方が断然オススメ!』の言葉が、渦を巻いていた。

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