第87話 錯綜する蜘蛛の糸 4

 母君と御息所みやすどころの声援を背に、母屋に足を運んだ葵の君は、関白と差し向かいで座る。臆することなく自分を見つめる姫君の視線が、彼には頼もしかった。


「さて、御息所みやすどころは、ご了承下さったのかな?」

「手応えはありますが、いまのところは交渉次第、といったところでしょうか」


 関白は脇息にもたれ、面白そうな顔で、まるで兄君の再婚が既定路線でもあるかのように、葵の君にたずね、姫君は少し含むところのある返事を返す。


尚侍ないしのかみとして出仕前に、ある程度の道筋はつけて置きたいところですが、摂関家の当主としての御祖父君にご相談し、決定したいことが幾つかございます」

「ふむ、では言ってみなさい」


『プレゼンか! いきなりプレゼン! 人生を賭けたプレゼン! しかも国家規模! 用意したパワポの資料が行方不明!』


 もちろんはじめっからパソコンなんてないので、葵の君は持参した巻物を横に置き、関白の座している畳に差し向かうと、忌憚のない意見を述べ始める。


 題して『摂関家姫君増員増強計画/(わたしの方がオススメプラン)』である。


 葵の君は光源氏より先に、自分が祟り死ぬ原因になる御息所みやすどころをはじめ、元の物語より混乱、疲弊している、いまの政治に大きな影響が出る前に、影響の出そうな関係者の姫君たちを、覚えている限り、根こそぎ自分の腕の中に囲い込むことに決めたのであった。


『打てば響くとは、このことよのう……』


 すべてを聞き終えた関白は、手にしていた黒い扇子を揺らしながら、ニンマリと笑みを浮かべている。姫君の提案は、彼の希望に沿うものであり予想以上であった。


 葵の君が持ち出したのは、大まかには四点。


『一、摂関家は第一皇子を東宮位に推挙』


『一、六条御息所ろくじょうのみやすどころを、兄君の北の方ではなく、関白の養女にする』


『一、右大臣家の六の君を、左大臣の養女、つまり自分の妹君として迎える』


『一、怨霊騒動が決着しても、自分自身は入内せずに、尚侍ないしのかみの地位に留まる』


「東宮の件は既定路線ながらも、帝の桐壺更衣きりつぼのこういへの寵愛に、気を揉んでいる右大臣や弘徽殿女御こきでんのにょうごには、態度を明確にすることにより、労せずして、大きな恩を売る機会と捉えました。それに政治的な安定が必要ないまの状況では、第一皇子に東宮に立ってもらうのが、妥当と考えます」

「ふむ、続けなさい」


六条御息所ろくじょうのみやすどころは、ご自分の姫宮の評判に傷がつかぬ、この提案であれば、間違いなくお受け下さるはず。また、少し先の話にはなりますが、養女になった、ふたりの姫君たちを、次期東宮となった第一皇子に東宮妃として入内させれば、摂関家は確実に次の帝の外戚になれます。年回りは順当、血のつながりが薄いとはいえ、これから関係を築きあげ、摂関家の勢力が現状を維持してさえいれば、たとえ皇子を産み、中宮になったとしても、姫君たちは摂関家を、ご自分の実家として頼りにして、大切にしてくれましょう」


「確かに狭い高位貴族の社会ゆえ、三代も遡れば。姫君たちと摂関家のつながりは、公式に証明できる。我が家に姫君を、ふたり増やせるのは大きな収穫。右大臣家とはいえ、六番目の姫君ともなれば、こちらに迎え入れができる可能性は大いにある」


 関白は大いに乗り気であった。葵の君は嬉しそうに、広げていた家系図を、素早く巻き直し、言葉を続けた。


「その上で、わたくしは怨霊騒動を片づけて、その後も尚侍ないしのかみとして、国難と摂関家の繁栄のために、御祖父君のあとを継ぐべく、確固たる地位を確立したいと思います。わたくしが入内してしまえば、表向きにまつりごとに参加することができませんが、尚侍ないしのかみであれば話は別。姫君たちが入内するまでには、兄君も摂関家の後継者として、太政官でかなりの地位まで、たどり着くことができるかと存じます。それも摂関家には好材料でございます」


「第一皇子を東宮位に就け、そなたが入内した方が、早々の安心材料ではないか?」


 関白は葵の君の提案に、内心では大いに賛成するが、若干弱い部分の確認も含めてワザと質問した。


「それではわたくしが実際に、次の東宮を産むことができても、実権を握るまで時間がかかり過ぎます。今現在、すでに傾きつつある国政は、恐らく持たぬことでしょう。統治する物のない国家など、継いだとて意味なきことは、右大臣にもいわずもがな、理解して頂けるかと思います。また、兄君と四の君のご縁に続き、六の君を養女に迎えることによって、両家にきずなも深まり得が生まれます」


『鉄板の上に、鉄板を重ねる!』


 今後の計画に、よい意味での大きな変化をもたらす、葵の君の大胆な提案に関白は納得した。


 自分自身も傲岸不遜であることを認めているが、元東宮妃に対しても臆することなく摂関家の『駒』として絡めとる、“あたり”こそ柔らかいが、自分の生き写しとでもいった姫君の強引さと自信は、あっぱれという他はない。姫君の意見は自分とほぼ違わぬ上に、周囲との軋轢が見当たらぬのも見事であった。


 葵の君は、やや皮肉気に、もう一言をつけ加える。


「大貴族にとって、姫君は帝と縁をつなぐための大きな手駒でございますが、右大臣は少々、数を持てあまし気味かと……」


 葵の君は言外に『姫君ひとりには莫大な経費がかかる』と指摘し、関白は自分と同じ思考回路で、物事を考え昇華できる姫君を、なんとか摂関家の跡継ぎにできぬかと考える。母系社会とはいえ男子がいる以上、それが困難を極めることは、彼自身が一番分かっていたけれど。


『この勢いで“朧月夜おぼろづきよの君”もこちらに引き取る! 最後の最後で第一皇子が好きだったって気がつくんだから、はなっから第一皇子に入内してもらう! 問題ない! 光源氏より初めから第一皇子と結婚コースがオススメ! 御息所みやすどころの姫宮が、将来、入内は嫌だと言い出しても、朧月夜おぼろづきよの君は、東宮妃に入内するはず!』


 葵の君は真剣かつ破れかぶれであった。この数時間で頭から煙が出そうになりながら、物語を必死に思い出し、手元の巻物で血統を確かめて考えたアイディアだった。毒を食らわば皿までとは、よく言ったものである。


「ふむ、確かに右大臣家の財政状況は、恐らく弘徽殿女御こきでんのにょうごが、あと一押しすれば家は傾きかねん。しかし、姫君を手放すには大義名分が弱い。右大臣にも自尊心はあろう」


 関白は面白げに、しかし酷い言い草で右大臣を評す。確かに右大臣家の財政は、最近の彼の領地の状況から容易く分かる。姫君の指摘は正しいが、彼の自尊心を傷つけるのは得策ではない。


「もうご存じかと思いますが、この提案のために右大臣への大義名分を、もうひとつ、つけ加えるならば、桐壺更衣きりつぼのこういと聞き及ぶ“兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの妹宮”の件でございましょう。彼をはじめとした親王派の台頭は、貴族派の領袖りょうしゅうである我家にも、それに続く大貴族の右大臣家にも大事でございます。先々を考えての親王派の増長の阻止を前面に押し出せば、あちらの顔は立つと思います」


「で、あらば、右大臣もおおやけに対して大義ができるな」

「はい」


 葵の君は桐壺更衣きりつぼのこういに瓜ふたつの兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの妹宮の、桐壷帝への入内によって起こるかも知れない、帝の寵愛の移り変わりによる、国政と自分たち、貴族への悪影響を忌憚なく述べ、関白は右大臣の耳に入れてやれば、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの妹宮の入内を、右大臣は勝手に取りやめにさせ、こちらに六の君を引取ることができるであろうと応じた。


 姫君の数の多さによる財政の圧迫に加え、いま以上の後宮での不安要素は、彼には到底我慢ができるものではない。


 関白は葵の君の頭を、よくやったと言いたげに優しく撫ぜた。誠によくできた孫娘である。そして怨霊と並んで深い懸念を口にする。


「して、例の第二皇子はどうする?」

「その件ですが……夢は夢。現実的ではございません。正直に言いまして苦慮しております。まだ第二皇子は六歳、ひとまず怨霊と、尚侍ないしのかみとしての公務を優先する姿勢を打ち出して、追々に自然消滅をと……」


『そうなんだよね、六条御息所ろくじょうのみやすどころと、くっついてもらえば万々歳だと思ってたんだけど、そうなると今度は関白の養女の愛人になっちゃうから、それでは姫宮の評判に傷がついちゃうし……。もういっそのこと、どこかに出家してくれないかな? でも、桐壺更衣きりつぼのこういが生きてるしなぁ……どうしようかなぁ? とりあえず生意気な女アピールしとくか』


 先ほどまでのテキパキとした孫娘が、自分の問題になると、頭を抱え込んで悩んでいるのが、関白には少しおかしかったが、姫君の言う通り夢は夢。次の人相見の話を聞くまで判断は保留しようと、その時の彼は思った。


「帝もわたくしが保留と言えば、強くは言ってはくるまい。右大臣にも、それとなく牽制をかけるように伝え、判断は人相見のあとにしよう」

「ありがとうございます」


『さすがフィクサー! さすが、実質、最高権力者! 日本一偉いお爺ちゃん!』


 葵の君は、のちの騒動も知らず、思わず関白に抱き着いて感謝を述べていた。


「さて、皆も待っておろう。それでは、そろそろゆくか……」


 嬉しそうに葵の君を抱き留めていた関白は、そう言うと姫君を連れて、右大臣らの元に足を運び、重々しく御簾内の畳に腰を落とす。


 葵の君が、ふと視線を向けた庭は、すでに夜が訪れ、奇しくも空は朧月夜おぼろづきよ


 目の前には父君と右大臣、兄君、そして中務卿なかつかさきょう。うしろには文机に書類や筆と硯を用意しているらしき数人の官吏と女房。


『キャー、中務卿なかつかさきょう! じゃなくて兄君、ホントに戸籍変更のために役人を呼んできた! 実は離婚したかったの!? 御息所みやすどころに一目惚れでもしたの?!』


 嬉しさ半分怖さ半分で、葵の君は御簾の中から、彼と兄君を交互に見つめていた。


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