第67話 春の訪れ 2

〈 年明け早々の後宮/桐壺更衣きりつぼのこういつぼね 〉


 新年初め、帝は、第二皇子に対する人相見の答えに、大いに不満を覚えつつ、関白に引退を撤回してもらえぬものかと思いながら、帰ってきた桐壺更衣きりつぼのこういと光る君、親子三人の生活を満喫していた。


 関白がいてくれれば、まつりごとは勝手に回るのだ。


 いまの彼にたみや国を思い、まつりごとに取り組んでいた昔の情熱はなかった。


 今日は昼間から、桐壺更衣きりつぼのこういと光る君を相手に、三月のはじめに清涼殿で行なわれる、桜のうたげの話をしていた。


 桜をでながらうたみ、舞楽を奏する華やかなうたげである。


うたげが終わって間もなく、左大臣家の姫君も、尚侍ないしのかみとして出仕する。わたくしの女三宮、いや、三条の大宮にも貴女あなたのことは、くれぐれもよきように、頼んでおきましょう」


 桐壺更衣きりつぼのこういに優しくそう言い置いて、帝は珍しく清涼殿に戻られた。


「母君が後宮にお戻り下さって、帝は大層に喜ばれ、最近は明るくほがらかでいらっしゃいます」


 目の前に座りそう言う光る君に、桐壺更衣きりつぼのこういは、脇息にもたれながら口を開く。


「左大臣家の姫君が、ご出仕なさる日が楽しみなのでございましょう」

「左大臣家の姫君?」

「ええ、帝がなによりも大切にされている、先の女三宮でいらっしゃる、三条の大宮に瓜ふたつで、とても素晴らしい姫君とのご評判の方。貴方あなたには従姉いとこにあたられますが、くれぐれも失礼のないように」


 そう言う母君に、光る君は首を傾げた。


 母君が控えめなのは元々だが、皇子である自分が、臣下の娘に失礼のないようにとは、どういうことなのだろう?


 どうせ、弘徽殿女御こきでんのにょうごのように、気位ばかり高い姫君だろうと思ってから、彼は久しぶりに帰ってきた母君に、最近やっと覚えた舞を披露していた。桜のうたげでも披露する予定だ。


 彼は、帝である父君の寵愛をほしいままに、栄耀栄華の中に育っていた。また、桐壺更衣きりつぼのこういが、父君を亡くしているがゆえに、政界の具体的な話も耳に入らず、誰も皇子にまつりごとを実感として、分からせることができない。後宮の生活以外、彼には世の中でなにが起こっているのか、なにも分からなかった。


 表面上は飾り立てられた、もろくも美しい硝子細工のような、宮中の暮らししか知らない、六歳になったばかりの、たぐいまれに美しい皇子は、幼くも末恐ろしい才に長けながらも、身分に見合う以上に、高慢な皇子にお育ちであった。


 自分を溺愛する帝は、なんでも願いを叶えてくれる。優しく美しい母君の桐壺更衣きりつぼのこういは、控えめな方なので、なにもおっしゃられぬが、なにかと目障りな他の后妃たちも、いずれ排除する決意を胸に秘めている。


 自分にはそれが許されると、自然に彼は思っていた。博士からの講義はあるが、彼にまつりごとの大切さと深刻さを教える者はなく、帝の人徳と力を持って、世はすべてこともなく回りゆき、大切なのは詩歌や雅やかな芸術と、うつろいゆく季節の美しさと思い、日々を暮らす。


 実際、帝も第一皇子よりも自分に足りぬ点は、年齢と家柄だけであると、おっしゃりながら惜しまれている。それゆえに東宮位は手の届く物と彼は考え、いずれ東宮位に就き、帝となり、母君を女御に、いや、中宮にも引き立てたいと思う。


 まだ見たことのない左大臣家の姫君も、気は進まないが、笑顔のひとつ、愛想のひとつでも言ってやれば、自分を取り巻く後宮の女たちと同様に、自分を大切に思い、敬うであろうし、すべてを差し出すであろう。


 姫君を妃に迎えることで、東宮位が手に入るのであれば、四歳も年上の年増ながらも、妃のひとりに迎えても、よいと考えてはいる。


 彼は、姫君のために用意が整いつつある、いまは主人のいない『登華殿とうかでん』をのぞいた。


 皇后宮職こうごうぐうしきの官吏たちは、自分に目礼してすぐ作業を続ける。左大臣家から届いていたらしき、豪華絢爛な調度品は、すでに設置済みで、新しく用意された畳が二枚、注意深く並べられているところであった。


 畳のへりは身分で色や柄が決まっている。


 いま用意されているのは、白地に黒糸で模様の織り出された、親王や大臣にだけ許される『大紋の高麗縁こうらいべり


 自分が訪れたことを聞いたのか、皇后宮職こうごうぐうしきの別当が姿をあらわした。


「この畳のへりは、公卿用の小紋の高麗縁こうらいべりにするべきでは?」


 光る君は扇子で指し示し、見とがめる。姫君は尚侍ないしのかみ、女公卿だ。


尚侍ないしのかみは内親王であった母宮とご一緒に出仕される、摂関家の姫君でございます。ご自身の妹宮とその娘である姫君に、公卿の畳を用意するのは忍びないと、帝の格別なご配慮でございます」

「…………」


 皇后宮職こうごうぐうしきの別当は如才なく答え、皇子の言葉にとまどっていた官吏たちに、そのまま用意を続けるように申しつけた。


 光る君は、自分の母君で、一心に帝の寵愛を受ける、桐壺更衣きりつぼのこういつぼねよりも、遥かに広く煌びやかな『登華殿とうかでん』に、すがめた視線を投げつけ、その場をあとにした。


 弘徽殿こきでんと同じように、否、弘徽殿こきでん以上に華やかに、美々しく飾り立てられた、最上級の御殿に住まう予定の姫君に、かなり黒い興味が沸く。


『姫君の瞳は煌めく黒蒼玉ブラック・サファイア』『星々の輝きが降り注ぐ夜の射干玉ぬばたまが流れ出した様な美しい黒髪。国の至宝であった母宮に瓜ふたつの美しいかんばせ』『鶴の皷翼はばたきが如く、優雅を極めたお振舞』『薬師如来の具現』


 姫君の数々のうわさを思い出した彼は、皮肉っぽい小さな笑みを浮かべると、自分と母君が住む小さなつぼねに帰ってゆく。


 おだて上げて、自分の妃として手に入れたあと、振り返られることもない、不遇な境遇に身を落とした、世間知らずの姫君は、どんな顔をするのだろう?



「姫君の出仕が楽しみですね」


 やがて時が過ぎ、清涼殿で行われた桜のうたげで、光る君は舞を披露し、愛想よく左大臣にそう言うと、嬉しそうな顔で彼は恐縮していた。


 同席していた関白も、重々しく会釈をする。舞は当然のごとく、大喝采であった。


 いつもは流れで、夜のうたげが催されるが、今夜は左大臣家の姫君の裳着もぎがあるゆえに、桜のうたげの最後の演目が終了すると同時に、大臣や公卿たちは、清涼殿を我先にと、す早くあとにする。


 なにせ近いとはいえ、一旦、自分のやかたに帰って、自身の着替えもせねばならぬし、(同じ束帯で出席するのは無礼である。)桜のうたげに向かう前から自分たちを無視して、うたげに出席するために、せっせと縫い上げた十二単じゅうにひとえを身にまとい、精一杯の化粧や髪の手入れをしている、北の方と姫君が家族で相乗りするために、牛車の帰りを待ちかねている家がほとんどであった。


 大規模な儀式とうたげゆえ、乗車人数に問題のない公卿は、牛車は一台と指定されている。


 身分によって、左大臣家に牛車を乗り入れる順番は、時間の管理をする陰陽寮おんみょうりょうから、細かなタイムスケジュールが指示され、いつもより小刻みに時を告げる大きな太鼓や鐘の音が、大通りに響いていた。


貴方あなた! お帰りが遅うございます!」


 一番初めに乗り入れなくてはならぬ、公卿の中でも一番、低いくらいの少納言の妻は、やかたの車止めに仁王立ち。精一杯装った美しい、しかし厳しい顔つきで彼を出迎える。


「父君、急いで!!」


 十三歳になる姫君も興奮に頬を紅潮させながら、女房たちに早く父君の着替えをと、きつい口調で申しつける。姫君は去年、裳着もぎを終えたばかり。京中のアイドル、左大臣家の蔵人少将くろうどのしょうしょうに出会うチャンスに胸が高鳴っていた。


「もし、お歌なんか頂いたら……」


 うっとりそう言う姫君に北の方は、右大臣家の四の君が、彼の正妻の地位に収まってはいるが、摂関家につながる左大臣家の正式な妻のひとりであれば、充分な玉の輿。姫君にとって、上々の人生が確定すると、冷静に考える。


「よいですか、軽々しいおこないは、かえって殿方の気をそぐものです。できるだけ左大臣家の姫君や、北の方である三条の大宮に、好印象を持って頂きなさい。自然と兄君に、よきうわさが届くでしょう。また、今回は評判の公達も多数いらっしゃいます。ゆめゆめ見落とすことのないように。このような機会は、もう二度とこないでしょうから」

「はい!」


 そんな、現実的なアドバイスと恋愛のノウハウは、夫が着替えを済ませ、牛車に乗り込んだあとも、延々と続けられていた。


 どこの姫君も多かれ少なかれ、同じように夢と希望で胸を膨らませていた。御簾みす越しとはいえ、実際に自分の目で大勢の公達を見る機会など、ありえない時代であった。


『歩いた方が早い』


 そんな牛車の行列は、深夜に向けて行われる、葵の君の裳着もぎの儀式を前に、夕暮れから夜を迎える頃、右大臣の豪奢な牛車行列を最後に、ようやく終わりを見せていた。

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