第252話 入れ替わる光と影 8

〈 右大臣のやかた 〉


 そんな話題の三の君といえば、姉である弘徽殿女御こきでんのにょうごの差配で、右大臣の署名によって、事件のあと早々に、離縁が成立していた。


 右大臣のやかたを建て直すにあたり、騒々しさが体に触ってはと、「しばらくの間、こちらにいらっしゃっては」そんな風に、四の君に声をかけてもらったが、四の君は、まだ北の方になったばかり、これ以上の負担を妹君にかける訳にはと遠慮していた。


 すると今度は、六条御息所ろくじょうのみやすどころが、お部屋もご用意できます。お体に触りましょうから、三の君に、しばらくこちらに移って頂いてはと、女御にょうごに同じようにおっしゃる。


 三の君が、それも遠慮していると、女御にょうごは、自分はなにかと忙しく、内親王方の手習いを、字の美しさでは京中でも評判の三の君に、この機会に見てもらえれば、とても助かると口添えをしたので、それではと関白のやかたに、招いてもらうことにしていた。


 それから彼女は毎日、女御にょうごと同じように温泉に入り、内親王方と一緒に静かに暮らしていたのがよかったのか、気の合わぬ夫に気を遣い続ける生活から開放されたのがよかったのか、かなり健やかさを取り戻し、母君も女御にょうごも安堵していた。


 新しくなった実家に帰ってきた最近では、彼女は里内裏で偶然知り合った、皇后宮職こうごうぐうしき別当べっとうと、ふみのやり取りをしている。


 里内裏の去り際、御簾の近くを通り過ぎようとしていた人影が、いきなり倒れたので、思わず御簾を上げてみれば、そこに倒れていたのが、皇后宮職こうごうぐうしき別当べっとうだったのである。


 すぐに駆けつけた女房たちが、彼を抱えて姿を消したので、心配になって、オロオロと見送っていると、内親王方がひょいと顔を出す。


「あの人は、病弱な方なんですって」「いつもお腹を押さえているわ」


 そんな風にふたりは口々に言う。


「まあ、お気の毒に……」


 同じような身の上である彼女は、本心からそう思いながら、その日はやかたに帰った。


 すると翌日の朝には、お詫びと丁寧な礼を兼ねたふみが届き、その筆の跡から、とても柔らかな人柄が滲み出ていたのと、料紙から薫っていた香の薫りがきっかけで、何度かやり取りをするうちに、お互いにかなり趣味が合うと分かり、親に言われるままに結ばれた結婚生活しか知らなかった三の君は、初めて普通の姫君が一番の楽しみにしている恋愛のだいご味、『ふみのやり取り』を楽しんでいた。


「そんなに美しい方ですの?」


 五の君が興味津々といった風で、うしろからふみをのぞいてくるので、三の君は少し首を傾げていた。


蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやの方が、美しい方だったと思うわ」

「え? じゃあどうして、そんなに楽しそうなの? 姉君、男の方は顔が命って……」 

「べ、別にまだ恋人って決定した訳じゃないわ、でもね、わたくし、少し尚侍ないしのかみのお気持ちが分かる気がするわ。悟りに近づいたのかもしれないわね。きっと本当に大切なのは、顔じゃないのよ」

「どういうことですの? お顔の美しさは前世の行いっていいますよ?」

「だから、わたくしたちは、尚侍ないしのかみや三条の大宮のように、輝けないのよ! うん、きっとそう!」

「???」

「世間が左府さふの醜さを、前世の行いの悪さと、悪し様に言っていた時も、あの方々はそうではないと、見抜いていらっしゃったでしょ? 左府さふの行いは、来世へのよき行いだと。わたくしも初めはそんな馬鹿なと思っていたけれど、結果、親王にすら残れず、消えてゆくはずだった彼は、いまや摂関家を支えるほどのお立場。お顔だけでない、なにかこう内面の美しさが、きっとあの方々には見えるのよ。ほら、光源氏なんて、恐ろしいほどに美しいと聞くけれど、結婚したいって思う?」

「え? 光源氏……それはさすがに……」

「ほらごらんなさい! それに紘之ひろゆきさまは、ただお体が悪くて顔色が悪いだけよ! きっとわたくしが元気にして差し上げるわ!!」

「姉君、ちょっと元気になったからと……また、倒れますよ?」


 自分で美しいお顔がすべてとか言っていたくせに……。五の君は、まるでわたくしが悪口を言ったみたいじゃないかと、理不尽だと思いつつ、姉君が口を尖らせているのを見ていたが、後日、夜更けに二人で甘酒を飲みながら、尚侍ないしのかみが書かれた本の健康食について、熱心に語り合う二人を盗み見ると、お似合いだと思った。


 少し先の未来、ふたりの間には、右大臣家には久しく生まれていなかった若君が、何人も誕生することとなる。


「姫君にふみが届いております」

「え? 誰から?」

「それがその……」


 翌日の朝、五の君に新参者の女房が、美しい料紙に上品な香が焚き染められたふみを差し出す。それを素早く見とがめた側づかえの女房、左近さこんは、さっとふみを取り上げると、「五の君へのふみは、右大臣を通さねばならぬと、言われているでしょう!!」そう新参者の女房を叱責し、寝殿の方に向かう。


「誰からだったのかしら?」


 案の定、それは光源氏からで、今日は体調がよいので出仕すると、支度中だった右大臣は、雑に開けて目を通すと、「五の君にふみを渡そうとした女房には、次に同じことをすれば、紹介状なしでやめてもらうと伝えなさい」堅い表情でかしこまる左近さこんにそう言い置くと、横で心配そうにしている北の方には、今一度、邸内の戸締りを厳しく申し渡すように頼む。


皇后宮職こうごうぐうしき別当べっとうが、三の君の元へ通ってきた時は、いかがいたしましょう?」

「ああ、血筋はそこそこで、気は弱くとも性格がよい。三の君を大切にしてくれよう。なにより左府さふとつながりが深い。そちらは知らぬ振りをしておきなさい。婿として迎えてもよい人物だから。やかたの内のことは貴女だけが頼りだ。しっかりと頼みましたよ」


 右大臣は、誰よりも信頼をしている北の方にそう言うと、自分の体調を心配する北の方をあとに、久々に里代理へと向かう。


 弘徽殿女御こきでんのにょうごが、当主代行を引き受けてくれているとはいえ、自分の健康不安は、一族の不安につながると、彼はかなり無理をしていた。


 彼の体調が悪化の一途をたどっていたのは、年齢もあったが、元来、かなり人より食が細い上に、刈安守かりやすのかみがいなくなったいま、彼ほどの医師がおらぬことが、実は大きな原因だった。


 右大臣は身分にふさわしく、何頭もの騎馬の先導に、随員ずいいん随身ずいしん(警備の近衛府の武官)にさむらい小舎人童こどねりわらわを大勢したがえた重々しい牛車行列で、里内裏に向かう。


 その日も、さまざまな仕事を終え、弘徽殿女御こきでんのにょうごのところに顔を出すと、自分の顔を見て、さすがにほっとした表情を浮かべた女御にょうごと話をしながら、ふと思う。


 にわとりが先か卵が先か、自分の初めての姫君として生まれた女御にょうごがいて、皇子を産んでくれたらばこそ、帝の外戚になるという野心が達成できたが、もし女御にょうごが男君であれば、まだ我が家には姫君は沢山いる。後継者の心配はなかったであろうにと……。


「右大臣?……父君?!」

「……ああ、いや、失礼いたしました。女御にょうご、もし、わたくしになにかありました時にも、どうぞ実家を見限ることなく、あとをお願いいたします」

「父君、そんな弱音を!! やっと朱雀の君が帝となったのですよ!!」

「そうですな。これから帝の外戚として、国家をお支えし、一族を繁栄にみちびかねば……」

「分かっているなら、早く元気になって、そうなさって下さい!!」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、いつものような剣幕で右大臣にそう言っていたが、心配になって、母である北の方に手紙を書いて、関白がいつも食している小豆あずきを右大臣の食事にも使ってくれと、小豆あずきを積んだ荷車と一緒に届けさせていた。



〈 頭中将とうのちゅうじょうが住む元左大臣のやかた 〉


 そんなこんなが、あったりなかったりで、頭中将とうのちゅうじょうは、弘徽殿女御こきでんのにょうごが、どうしても『前の蔵人所の別当/内大臣』と勘違いをすると言うので、役職は蔵人所の別当に上がっても、頭中将とうのちゅうじょうとの呼び名はそのままだった。


「勘のよい方なのに、不思議なこともあるものだね」

「本当に……」


 ある日、自分の妻である四の君に、彼が幼い二の姫を膝に乗せて、あやしながらそう言うと、二歳になる三の姫を、乳母から抱き取って、あやしていた四の君も首を傾げていた。お腹には、もう四人目の子が宿っていた。



〈 関白のやかた 〉


 政務のあと、東の対の姫宮の元に、朧月夜おぼろづきよの君が、今日も遊びにきていると聞いた帝は、ご自分からも姫君たちに、入内の話を伝えようと、東の対に足を運ぶ。


 普通であればこのように、入内前に頻繁に会う機会など、あるはずもなかったが、姫君たちは幼い頃から関白のやかたで暮らしている帝と、すっかり打ち解けていらっしゃった。


 一緒に遊んでいた内親王方が、嬉しげに兄である帝にまとわりつく中、二人は、おそろいの美しい汗衫姿かざみすがたで、愛らしく御挨拶をする。


 葵の上に瓜ふたつの秋好姫宮あきこのむひめみや弘徽殿女御こきでんのにょうごと瓜ふたつの朧月夜おぼろづきよの君。


 どちらも甲乙つけられぬ美しい姫君であったが、性格は正反対で、それでも実の姉妹同様に育ったお二人は、とても仲が良く、「ご一緒で心丈夫ですね」「内裏に行ってもご一緒ですね」そんな風に無邪気に喜び、内親王方も嬉しそうにしていた。それを見ていた帝は、ご自分の後宮が、末永くこのような雰囲気であればと、ほほえんでいらした。


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