第127話 事変 2
帝は、大宮やすべての后妃たちが姿を消したあとも機嫌よく、もうすぐ
「わたくしの女三宮が変わらずに、輝いて見えることにも驚きましたが、
「もったいなきお言葉にて……」
そんな風に終始なごやかだった、空気が凍りついたのは、帝が次に放った言葉のせいだった。少し酒が回って、目元をほんのりと染めた帝は、自分の腹違いの兄弟である
「まったく、あれほど東宮妃にふさわしき姫君は、国母にふさわしい姫君はどこにもいない。それがたかが“一”家臣の北の方になるとは惜しい話です」
普通ならであらば、これでかしこまって、なにも言えなくなるのに、
「おっしゃる通りでございます。わたくしには過ぎたる姫君ゆえ、左大臣が女三宮を大切になさるのと同様に、ただただ誠心誠意、生涯をかけて、お仕えする所存にございます」
「
「お心づかいはご無用にて……」
「……そうか」
元々、帝のために国に仕えている訳でもない
彼は血筋も母親の実家のうしろ盾もなきゆえに、臣下に
帝は、まだなにか言いたげな表情で、深々と平伏している
帝は寝所である
「本当に残念なことにございますね、葵の君は東宮妃になり、国母にすらなれたというのに……」
帰りの牛車に同乗した左大臣は、関白にまた葵の君のことを、グズグズと愚痴りだす。
帝自身にあんなことを言われると、後悔が沸き上がるのも当然だと彼は思ったが、大宮に離婚されるのはもっと嫌だし、姫君に取り憑こうとする怨霊も心配なので、黙って聞いていたのだ。
東宮妃どころか『第二皇子』に葵の君を入内させてみては……なんて言っていた自分のことをすっかり棚に上げて、残念そうにため息をついている息子に、関白もため息をついた。
だが元はといえば『
葵の君は悔やんでも悔やみきれない、あの子の生まれ変わりなのかもしれない。黒い扇子で顔を覆い、彼はそんなことを思っていた。
最近、熱心に職務に励んでいるとは聞くが、さすがに
「そなたは
「ああ、
新しい斎王というのは例の『藤壺の姫宮』であった。やがて牛車は一旦、左大臣家によって、主人を降ろしたあと、関白のやかたに帰った。
「おかえりなさいませ、遅くまでお疲れでございましょう」
関白が牛車を降りると、意外なことに
「このような遅くに、いかがなさいましたか? まさかわたくしの帰りを起きて待っておられたのではないのでしょうね? 気にせずにお暮し下さってよいのですよ?」
「いいえそんな、姫宮の袴着の衣装を縫っておりましたら、丁度お帰りの知らせが聞こえましたので、参った次第でございます」
「ああ、姫宮の袴着の
「いいえ、元々、用意しておりましたので、お気づかいなく。あの、実は関白に
「わたくしとしたことが、気が回らず申し訳なく思います。もちろん儀式は盛大に用意をさせて頂きますが、しかし後見となると、わたくしの年では心もとなく……」
「でも左大臣も……」
『心もとないわな』
関白は眉間にしわを寄せて、
母屋に用意されている自分の畳に、
「あの、では、
「
「臣下の身分となられたとはいえ、尊き血筋の御方であり、若いながらも、すでに高位の公卿でいらっしゃいます。葵の君とのご縁で後々も姫君の後見に、最も頼もしい方と考えますが、いかがでしょうか?」
とかく“穢れ”を強調される元皇子であるが、摂関家の婿となった以上、それは帳消しだと彼女は思い、関白の次に自分が考えていた候補を口にする。
「……丁度よい。彼は摂関家の婿、わたくしの娘となられた
「まあ、そのお言葉をうかがって、ほっといたしました。姫宮の先行きも明るいですわ。それで葵の君の初めてのご出仕は、いかがでございましたか?」
「おかげさまをもち無事に何事もなく済みました。慣れぬことばかりで苦労が続くかと思いますが、東宮妃であった
「まあ、わたくしができることでしたら、なんでもおっしゃって下さいまし」
「関白は、まだまだ長生きなさいますわ。貴方の両手がどれほどの人を救い上げているか、ご存じですか? わたくしと皆の感謝が、きっと御仏に伝わっております。わたくしも、わたくしの姫宮も、いえ、貴方がお救いになった人々は、きっと毎日、手を合わせておりますのよ?」
「……」
母屋に残って、そんな先程の言葉を振り返っていた関白は、少し変な顔をしていた。
すべての才に恵まれた彼は、摂関家に生まれ、若いうちから高い地位に就き、国家を支え、
当然のことながら、光りには影があるとの言葉通り、人の恨みや妬みを買うことも多く、影で悪しざまに罵られ続ける人生でもあったし、それを悔やむこともなく叩き潰してきた。うわべのつき合いも追従も慣れっこであった。
そんな傲岸不遜な人間であったが、礼儀でもうわべを取り繕うでもない、彼女の心からの感謝の言葉に少しとまどう。自分の利害からくるおこないが、知らぬ間に誰かを救い上げているなど、考えたこともなかったから。
「まあ、心配されるほど、老いたということであるか……」
そう呟いて、つい半年前には、
色々と心配事や、片づけなければならぬことも多いが、明日一日は、ゆっくりと休むことにした。
その頃、御所では
「いかがなさいましたか?」
「いや、なんでもない。少し席を外す」
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