第55話 幻想即興曲 7
使用人たちが安堵の表情で、それぞれの仕事に勤しみ出した頃、
「あの時の傷はもう大丈夫なのですか?」
「もちろん、少し掠っただけですから」
心配げな表情で肩を見つめられて、彼は自分でもそんなこともあったと思いながら返事をする。怨霊事件で負った怪我を、姫君は覚えていたらしい。
「お手紙では、そうおっしゃっていましたが……」
「あまり信用できませんでした?」
「そういう訳でもないのですけれど……」
葵の君は彼の肩を見つめながら思った。
『絶対、大丈夫じゃなくても、大丈夫って言うタイプですよね?!』
心の声が伝わったのか、彼は少し苦笑すると、不思議そうな姫君をそのままに、奉公人が部屋の隅に置いていった大弓に向かって歩く。
「あれを……」
大弓を手にした彼が指し示したのは、寝殿の前に広がる庭の奥にある一本の木。よくよく見れば、真っ赤に紅葉したままの
「まあ、真冬なのに、まだ残っていたのですね」
「よく見ていて下さい」
そう言った彼は、矢をつがえ弓を引く。白い
「え……?」
空気が張り詰め、弓の発射音が聞こえた次の瞬間、葵の君は驚きのあまり両手を口元にあて、真っ赤な
季節外れの
『まさか! マジで?! ガチで?! 的が小さすぎやしませんか?!』
頭の中の日本語が驚きのあまり、おかしくなりつつ、瞬きを繰り返す。
「大丈夫でしょう?」
「ええ……」
本当に完治してる! そしてさすが、わたしの『神/アイドル』!
武道系女子の心拍数は跳ね上がり、これでわたしの計画は完璧だと確信し、女童事件の犯人逮捕計画を打ち明ける。
計画を打ち明けられた彼はと言うと、「まだ怪我の治りが悪いと言えばよかった」そう思い、姫君が自分に対して懸命に言いだした『犯人逮捕』計画を、言葉は優し気ながら徹底的に跳ねつけた。
が、姫君はまったく動じなかった。
「さる貴族の家に勤める“
「………」
『どこに大丈夫な要素があるのだろうか?』
一体なんの力なのか、なんの根拠なのか。こんな行動も姫君への御仏の御告げによるものだとすれば、御仏はもう二度と夢枕に現れてくれるなと彼は真剣に思う。
それに姫君の話は持ち出したのが、葵の君であるという時点で成り立たない。
こんな豪華な
身内の贔屓目かも知れぬが。
少し会わぬ間に葵の君は、幼き日の母君に瓜二つ、否、それ以上に美しくなりつつあるのは明らかだった。
彼はため息をつくと、姫君ひとまずここで待つように言い、無責任に無表情のまま彼の弓の腕前に拍手を送っていた“六”に、無言のまま顎で合図をして、部屋の隅に置いてあった几帳の影に呼ぶ。
几帳の影で姫君と同じように、両手を合わせて自分を拝むように見上げる“六”は、まったく可愛らしくもなんともないので、姫君から見えないのを確認すると、胸倉を掴んで取り敢えず首を締め上げた。
「ぐぇ……と、止めたんですけど、僕では、どうにもこうにも……」
「貴様、常日頃の恩を仇で返す気か?」
「そう言うつもりは、僕にはどうにもできなくて、なんとかして下さい……」
「……そうかね」
やり場のない怒りを抱えていた
彼は一瞬で、糸の切れた操り人形のように意識を失う。姫君の保護のために左大臣家に
「どうかされましたか?」
「なにもありません。“六”は宿直で疲れている様子なので少し寝かせた方がよさそうです」
不審な声が耳に入ったらしき姫君が、畳から腰を上げようとする気配を、
「え、でも……」
「大丈夫です。別の曹司で寝かせてきます」
気絶した“六”を担ぎ上げて、素早く隣の
「おかしな声がしたような……」
「蛙かなにかでしょう。ああ、そういえば、姫君が関白に提出なさった書簡には驚きました」
「え……あの、あれをご覧に?」
冬に蛙がいるんだろうか? 葵の君はそう思ったが、御祖父君に提出した課題を、
種明かしはできないけれど、こちらの世界の“元”葵の君の后妃教育の下地に加え、前世の彼女は十九歳の大学生、その上、全自動翻訳機能までついている。
義務教育からはじまり、大学受験と一回生までの知識を持ち合わせ、誤差があるとはいえ、遥かに進んだ算術(数学)、平安時代の大まかな律令制度と崩壊に至った問題点を、
そこに加え関白や博士の冬季講座もやり抜いた。十歳にすれば確かに『神童』と呼ばれてもいいくらいだと内心、自負はしているが、他でもない彼に努力を認めてもらえたのが、素直に嬉しかった。
わたしは褒められて伸びる性格だから! ハレルヤ!
「ええ、先日、関白邸にうかがいましたので。大変興味深く拝見しました」
話を逸らすために持ち出したが、人相見の件でうかがった折に、関白の邸宅で拝見した、姫君の数々の閃きと細密な考察に、彼は本当に感心していた。
目の前の姫君の幼さと、そこから解離した恐るべき才能は、一体どこからきたものか……。
摂関家の姫君としての地位や容姿だけではなく、国家にとってかけがえのない存在であるのは明らかで、そんな彼女が
自分のやかたにきている時点で、既に飛んでもない出来事が起きてしまっているが。
目を閉じて嘆息した。
*
『本編と多分関係の無い小話/新年の左大臣家』
葵「漫才師がきている?! それは是非、見に行かなくては!」
まだ、関白の課題中だけど、投げ出して寝殿に行くと、『萬歳』と言う、漫才の起源、伝統芸能のような歌舞が披露されていた。露骨にガッカリ。
母「どうかしましたか?」
葵「いえ、まだ、課題があるので、御堂に帰ります……」
思ってたんと違うと、肩を落としながら、寝殿をあとにする、元、現代の関西人でした。
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