第54話 幻想即興曲 6

〈 中務卿なかつかさきょうのやかた 〉


 物忌ものいみ(家を出ることや身を慎む凶日)で出勤停止中だった中務卿なかつかさきょうは、読経を上げ精進潔斎し身を慎んで………なんてこともなく、今日もいつものように早起きをすると、西の対を増築して作った弓道場で、新しい弓を試射していた。東の対は、もっぱら他の武道場として使用している。


 彼のやかたは、ご同様に武芸を好む貴族たちが、普段であれば出入りしていることもあるが、今日は物忌みなので、当然ながら自分ひとりだ。


「さすがだな……」


 名のある弓師に注文していた長弓は、素晴らしい出来栄えであった。


 昨今は本流である風雅こそ至高とするみやびな貴族たちに、“軍事貴族ぐんじきぞく”とも称される、武勇を尊び有事とあれば、さむらいの先頭に立ち、同じように振るまう武芸に秀でた貴族たちは、犬であるさむらいと同じようなことをする、貴族とも思えぬ胡乱なやからと、とかく眉をひそめられ、なにかと揶揄されることも多いが、いまのところはまだ彼のように、言葉や時代、文化は違えども、『ノブレス・オブリージュ/Noblesse Oblige(高貴なる者の義務)』を旨とし、朝廷や民を守るために、戦場で先頭に立って戦う文化が、中世ヨーロッパと同じように、チラホラとは存在していた。


 元皇子であり律令制(中央集権的な統治制度)における八省の中でも、最も重要な省の長である彼が、堂々と武芸に励む姿が、日頃はなにかと肩身の狭い、いわゆる“軍事貴族ぐんじきぞく”たちの精神的な大きなうしろ盾になっているのは、彼のあずかり知らぬことである。


 一昨年の地方で起きた大規模な飢饉と反乱に、代理とはいえ本来であれば文官の長たる彼が、首座としておこなった前代未聞の大遠征は、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやをはじめ、武官組織のトップたちの、民草のことよりも己の詠む歌の吟味が大切とばかりの、進まなすぎる仕事ぶりに呆れ果て、自分が代理として出征すると持ちかけた彼と、出世はしたいが仕事以外の人生を充実させたい、ましてや現地になんて死んでも行きたくない武官の重鎮たちの、投げだすような職務放棄の合わせ技が成し遂げた珍事であった。


 一地方の反乱ゆえに、帝の決済は要らぬ、取るに足らぬ事案と、公卿のみの決済で済んだのも、彼が早急に動けた理由となり、そんな彼の行動は意図せぬことながら、常日頃から口先ばかりで栄誉栄華を独占する、そんな貴族たちへ鬱屈した不満を貯めていた、さむらいたちのガス抜きともなっていた。


 遥か遠く離れた的のほぼ中心部分には、すでに何本かの矢が刺さっている。先ほど放たれた矢は、先に中心部に突き刺さっていた矢に、軌道が完全に重なってしまい、刺さっていた矢に跳ね返ると、的の近くの地面にポトリと落ちる。


 葵の君の予想通り、彼は、のちの源平合戦の話に出てくる、遠く波間に揺れる“扇のかなめ”を射抜いた那須与一なすのよいちかの如き名射手であった。


 彼は次の矢を放つべく、矢筈やはずを弓の弦につがえようとしていたが、そこに慌てた様子の、年老いた乳母が息も絶え絶えに走り込んでくる。


 彼女が震えながら、耳元で口走った台詞せりふを聞いて、思わず矢を取り落とした。


「さ、さ、左大臣家の姫君が、お越しでございます……」

「え……?」

「あの、内々に伝えよと……」

「……」


 中務卿なかつかさきょうは、思わず手元から転がってしまった弓と矢の片づけを、奉公人に命じると、右手にはめていたゆがけを外し、年老いた乳母を置き去りに、慌てて寝殿に足を向け、目の前の光景に唖然とした。


 いつもは自分が座っている畳の上には、いるはずがない、幼くも輝かんばかりに美しい葵の君の姿。


 しばらく茫然としたあと、少し離れた床板の上に“六”を見つけると、憮然とした表情で眉をよせて短く息を吐く。


「なんだ『式神』か、わたしの乳母を驚かせるのは止めろ、もういい年なんだから」

「………」

「悪趣味にもほどがある」

「………」


“六”は時々こういう悪趣味な悪戯をする。乳母のためにも新しい女房を雇わなくてはと思うのに、陰陽師おんみょうじが気軽に出入りしているせいか、色々と怪しいうわさをささやかれているのが問題になって、家人である猩緋しょうひが側仕えの女房の真似事をするくらい、女房の応募がなくて困っているのだ。これ以上、変なうわさはご免こうむりたい。


 目を丸くして、姫君の世話をしようとしていた猩緋しょうひに、“六”の『式神』だと言って、安心させると下がるように命じる。


 彼は露骨に安堵した表情を浮かべながら、主人の目の前から姿を消した。


 もしかして、わたしがさらってこいと、命じたとでも思われたのか? 奇異な目で見られているのは知っているが、自分の腹心の家人にまで人格を疑われるとは、独身の貴族の肩身は狭い。中務卿なかつかさきょうは思った。


 畳の上にちょこんと座っている『式神の葵の君』の前にしゃがみ込むと、みとれるように美しく長い黒髪に無遠慮に手を伸ばし、さらさらと流れる髪を一房持ち上げてみた。


 艶やかな黒髪は、自分の武骨な指から逃げるように、するりと流れ落ちる。


『姫君の瞳は煌めく黒蒼玉ブラック・サファイア』『星々の輝きが降り注ぐ夜の射干玉ぬばたまが流れ出したような美しい黒髪。国の至宝であった母宮に瓜ふたつの美しいかんばせ


 そんな姫君のうわさは、彼の耳にも、もちろん届いていたが、正にその通りだと知りつつ、彼は内裏でたずねられても、知らぬ振りを決め込んでいる。


「お元気でしたか?」


 顔に浮かんだ愛らしい笑みに思わず柔らかく、ほほみながら声をかけてみた。“六”の悪い冗談はともかく久々に姫君に、お目にかかった気がした彼の気分はよかった。


「お久しゅうございます」


 耳に透き通るような声も、姫君の声に瓜ふたつ。


「よくできているな」


 彼はそう言いながら、とりあえず式神を、畳の上から降ろそうと、ひょいと持ち上げた。

 ただの紙だが、葵の君に瓜ふたつであるので、粗末にも扱えないと思ったから。


「え……?」


 重さのないはずの姫君にソックリな『式神』は、まるで実在するかのような重みを持ち合わせていた。


「本物ですよ?」


 そう言ってニッコリとほほえむ『式神』は、『本物の姫君』だった。その正当性を主張するように、彼女から漂うのは、時折かわしている、ふみと同じ『睡蓮の薫り』


 彼は姫君を抱き上げたまま、“六”に睨みを効かせた視線をやり、再び姫君を丁寧に畳の上に戻す。


「ここに姫君を連れてきた理由を聞いてもいいかね?」

「姫君が“女童連続失踪殺人事件”に協力すると、無理をおっしゃるのですが、相談できる相手がいなくて……一応、止めたんですが……」


 そう言った“六”が、「中務卿なかつかさきょうが、物忌みで屋敷にいらっしゃって、ようございました」などと少し離れたところから、心底ほっとした様子で姫君に声をかけているのに、彼は苛立ちを通り越した殺意すら覚えた。


 なぜ初めに断らなかった? そして、なぜわたしのやかたに連れてきた?!


 腹の中は、沸々とした“六”への怒りで一杯であったが、姫君の前で怒鳴り散らす訳にもゆかぬと必死に我慢する。彼女はたおやかな花なのだから。


 実際のところ、体育会系&武道系女子の彼女は、大声と怒鳴り声は、前世では慣れた日常だったので、実は自分自身が怒鳴られても、まったく大丈夫だったが、そんなことを、彼が知るはずもなかった。


 すっかり『式神』だと思い込んで、落ちついた家人は、他の奉公人たちに、あれは『式神』だと動揺を打ち消してから、お仕事の話をされるから御主人様から、お呼びがあるまでは、くれぐれも寝殿には立ち入らぬようにと告げる。


『あの陰陽師おんみょうじがきている間は、寝殿に近づいてはならぬ。触らぬ神に祟りなし!』


 いままでやかたで起きた、陰陽師おんみょうじの起こす悲喜劇に振り回されることに懲りていた、家人と奉公人たちは内心でそんな台詞を同じように唱え、それぞれが買い物に、別棟の掃除に水汲みにと、日常の仕事に戻った。

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