第54話 幻想即興曲 6
〈
彼のやかたは、ご同様に武芸を好む貴族たちが、普段であれば出入りしていることもあるが、今日は物忌みなので、当然ながら自分ひとりだ。
「さすがだな……」
名のある弓師に注文していた長弓は、素晴らしい出来栄えであった。
昨今は本流である風雅こそ至高とする
元皇子であり律令制(中央集権的な統治制度)における八省の中でも、最も重要な省の長である彼が、堂々と武芸に励む姿が、日頃はなにかと肩身の狭い、いわゆる“
一昨年の地方で起きた大規模な飢饉と反乱に、代理とはいえ本来であれば文官の長たる彼が、首座としておこなった前代未聞の大遠征は、
一地方の反乱ゆえに、帝の決済は要らぬ、取るに足らぬ事案と、公卿のみの決済で済んだのも、彼が早急に動けた理由となり、そんな彼の行動は意図せぬことながら、常日頃から口先ばかりで栄誉栄華を独占する、そんな貴族たちへ鬱屈した不満を貯めていた、
遥か遠く離れた的のほぼ中心部分には、すでに何本かの矢が刺さっている。先ほど放たれた矢は、先に中心部に突き刺さっていた矢に、軌道が完全に重なってしまい、刺さっていた矢に跳ね返ると、的の近くの地面にポトリと落ちる。
葵の君の予想通り、彼は、のちの源平合戦の話に出てくる、遠く波間に揺れる“扇の
彼は次の矢を放つべく、
彼女が震えながら、耳元で口走った
「さ、さ、左大臣家の姫君が、お越しでございます……」
「え……?」
「あの、内々に伝えよと……」
「……」
いつもは自分が座っている畳の上には、いるはずがない、幼くも輝かんばかりに美しい葵の君の姿。
しばらく茫然としたあと、少し離れた床板の上に“六”を見つけると、憮然とした表情で眉をよせて短く息を吐く。
「なんだ『式神』か、わたしの乳母を驚かせるのは止めろ、もういい年なんだから」
「………」
「悪趣味にもほどがある」
「………」
“六”は時々こういう悪趣味な悪戯をする。乳母のためにも新しい女房を雇わなくてはと思うのに、
目を丸くして、姫君の世話をしようとしていた
彼は露骨に安堵した表情を浮かべながら、主人の目の前から姿を消した。
もしかして、わたしが
畳の上にちょこんと座っている『式神の葵の君』の前にしゃがみ込むと、みとれるように美しく長い黒髪に無遠慮に手を伸ばし、さらさらと流れる髪を一房持ち上げてみた。
艶やかな黒髪は、自分の武骨な指から逃げるように、するりと流れ落ちる。
『姫君の瞳は煌めく
そんな姫君のうわさは、彼の耳にも、もちろん届いていたが、正にその通りだと知りつつ、彼は内裏でたずねられても、知らぬ振りを決め込んでいる。
「お元気でしたか?」
顔に浮かんだ愛らしい笑みに思わず柔らかく、ほほみながら声をかけてみた。“六”の悪い冗談はともかく久々に姫君に、お目にかかった気がした彼の気分はよかった。
「お久しゅうございます」
耳に透き通るような声も、姫君の声に瓜ふたつ。
「よくできているな」
彼はそう言いながら、とりあえず式神を、畳の上から降ろそうと、ひょいと持ち上げた。
ただの紙だが、葵の君に瓜ふたつであるので、粗末にも扱えないと思ったから。
「え……?」
重さのないはずの姫君にソックリな『式神』は、まるで実在するかのような重みを持ち合わせていた。
「本物ですよ?」
そう言ってニッコリとほほえむ『式神』は、『本物の姫君』だった。その正当性を主張するように、彼女から漂うのは、時折かわしている、
彼は姫君を抱き上げたまま、“六”に睨みを効かせた視線をやり、再び姫君を丁寧に畳の上に戻す。
「ここに姫君を連れてきた理由を聞いてもいいかね?」
「姫君が“女童連続失踪殺人事件”に協力すると、無理をおっしゃるのですが、相談できる相手がいなくて……一応、止めたんですが……」
そう言った“六”が、「
なぜ初めに断らなかった? そして、なぜわたしのやかたに連れてきた?!
腹の中は、沸々とした“六”への怒りで一杯であったが、姫君の前で怒鳴り散らす訳にもゆかぬと必死に我慢する。彼女は
実際のところ、体育会系&武道系女子の彼女は、大声と怒鳴り声は、前世では慣れた日常だったので、実は自分自身が怒鳴られても、まったく大丈夫だったが、そんなことを、彼が知るはずもなかった。
すっかり『式神』だと思い込んで、落ちついた家人は、他の奉公人たちに、あれは『式神』だと動揺を打ち消してから、お仕事の話をされるから御主人様から、お呼びがあるまでは、くれぐれも寝殿には立ち入らぬようにと告げる。
『あの
いままでやかたで起きた、
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