第64話 夜想曲 3

 法師が旅立って数日後、桐壺更衣きりつぼのこういの母君は女房たちがささやく、京から伝わってきた恐ろしい伝聞で、せっかく元気になった娘が、またせてはいけないと、伝えぬように口止めする。


「いかがなされた?」


 桐壺更衣きりつぼのこういにつき添ってきた女房のひとりが、母君の側仕えの女房にたずねる。


「ええ、いえ、喜ばしい話ですが、恐ろしくもある話で……」


 いつの世も耳に入れた大事件は、誰かに話したいと思うのが人のさが、彼女はやはりささやくような声で話し出す。


「京を騒がしていた女童めわら事件の犯人が、ようやく見つかったそうです」

つかまりましたか?」

「いえそれが……」


 彼女が聞いた伝聞によると、犯人は既に目をつけられていたらしく、女童めわらに襲いかかった直後、検非違使けびいしに見咎められ、なんとか京の門外に逃げたが、抵抗もむなしく、最後には激しく降り注いだ射手の矢によって、口にできぬほどの壮絶な最期を遂げたらしい。


「なんでも夜中に急に容体が悪くなった主人のために、薬を求めて典薬頭てんやくのかみ刈安守かりやすのかみ)のところへ走る女童めわらたちを、ずっと狙っていたそうです」

「気の毒な話ですね」


 急な病というのが、女房たちには少しおかしかったが、不謹慎なので黙っていた。


 女童めわらたちが夜更けにわざわざ、刈安守かりやすのかみのところへ行かされていたのは、女主人が密かにみずがね(水銀)を求めたからだというのが、貴族に長年仕える女房である彼女たちにはピンときたからだ。


 みずがねは昔から万病に効くとされ、飲めば飲むほど、毒を外に出すといわれている。


 なぜか現実の平安時代には存在しなかった、そして、この絵物語の世界には、いつの間にか存在する性病、死を招く不名誉な病『梅毒』には、みずがねを早めに大量に飲むのが一番の薬とされていたが、大量のみずがねを表立って買いつけるのは、梅毒にかかったことを公言するような行為で、不名誉極まりない。(そもそも、梅毒という病すら、表向きは病として存在しないことになっている。)


 大量のみずがねを欲した女主人は、まだ物事の分からぬ女童めわらに、夜に紛れての使いを頼んでいたのであろうと、彼女たちは視線を合わせて、暗黙のうちに納得する。


 実は、この梅毒と言う病が世界的に発見されたのは、十五世紀末、ヨーロッパまで待たねばならないが、その起源は諸説あり、唐との交易の中で、まだ謎の病としてしか分かっていなかった梅毒は、既にこの世界には持ち込まれており、無論それは厳重に対策が取られてはいたが、どうやったのか、刈安守かりやすのかみは、その地位を利用して、あのいつかの嵐で浜辺に流れ着いた死骸を利用し、病の元を手に入れると、広めそうな貴族たちの一部に、その病を広げていたのであった。


 ただ、彼が女童を調達しやすくするためにだけに……。


 そして不幸なことに、元現代人の葵の君が当たり前のように、人体に害を及ぼすことを知っていた『みずがね/水銀』は、大量の唾液の分泌効果と、強烈な下剤効果があったため、体内から毒素を取り出すと、広く信じられていた。


典薬頭てんやくのかみも、とんだ災難ですわね」

「ええ本当に……うわさによると、早々に引っ越しをされるそうですわ」

「京に空きなどございますの? いまもそれが理由で、あのような貴族らしからぬ場所に、やかたを構えていらっしゃるのに」

「それが、我が家の主人が、代々、暮らしていらっしゃったやかたを、どういった経緯か手に入れられていたようで……」

桐壺更衣きりつぼのこういの母君とは、血縁でもあらっしゃったのかしら?」


 不思議そうな顔で女房たちは、しばらくああでもない、こうでもないと話をしていたが、三代さかのぼれば、尊き血筋に辛うじて引っかかることも、そう珍しくないのが貴族社会。


 つながりがあったのだろうと彼女たちは納得する。それから数日後、帝からの催促のふみによって、仲良くなった内裏勤めの女房は、別れを惜しみつつ、桐壺更衣きりつぼのこういと共に京の都に帰ってゆく。


 月日は流れ、葵の君の裳着の少し前、刈安守かりやすのかみは、かねてより煤竹すすたけ法師を介して手に入れていた、桐壺更衣きりつぼのこういの元実家、二条院に引っ越しを完了する。京の外れにあるやかたは、不心得者が住みつかぬように厳重に封鎖された。


 急な引っ越しであったが、あの恐ろしい事件のあとであり、周りも気の毒にと思いこそすれ、なにも不審には思わない。


「今度のやかたは静かにございますね……」


 以前の下町にあった屋敷には、時には外を行きかう民の大声が聞こえたが、ここは静かでよいとつるばみの君は思いながら、兄君にもたれて庭をながめていた。


 敷きつめるように咲いている水仙の花が、ことのほかに美しく、大きな月が池に美しく照らし出されている。


「ここは内裏近くの、大貴族たちのやかたが立ち並ぶ場所だからね。うたげ以外は皆様、静かにお暮しだ」

「ああそれで、牛車の音以外は聞こえないのですね……」


 つるばみの君は得心した顔でうなずく。そんな静かな環境もあってか、とてもここは過ごしやすい。表ではじまった酔っ払いの声がやかたの中まで入り込み、年老いた女房を慌てさせた以前のやかたとは大違いだ。


「そういえば、春に大きな行事があるので、少し騒がしいかも知れないけれど、心配しなくてよいからね。左大臣家の姫君が裳着もぎの儀式をなさるらしい」

「まあ、摂関家の姫君が! どのようにきらびやかで、華やかな儀式なのでしょうか!」


 つるばみの君は、うっとりとした表情で想像する。きっと兄君が時折借りてきてくれる絵巻物のように、いや、それ以上に美しい光景なのだろう。


「ひとめ目でも、いえ、わたくしたちには縁のない、どこまでも遥か遠い世界にございますね……」

「ああ、確かに。富の力でやかたを手に入れることはできるが『血』は買えないからね」

「でも、その日は、うたげの音などが聞こえるかも知れません……」


 つるばみの君は、その日は息を潜めて耳をそばだてるので、兄君も静かにして下さいと、ふわりとほほえんで、そのまま兄君の肩にもたれたまま眠ってしまう。


 つるばみの君が翌朝起きれば、きちんと布団の中。兄君はすでに出仕されていた。

 そしてその日から、彼女は左大臣家の姫君の裳着もぎが行われる夜を、指折り数えて待っていた。


「縁のない世界だ。いまはね……」


 出仕する前に兄君が呟いた言葉を、つるばみの君は知らない。

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