第235話 修羅場 8

 桐壺更衣きりつぼのこういは、自分が生き長らえていた理由が、葵の上に知られていることに、思わず視線を逸らして横を向いた。


『誰も知らぬはず……なのになぜ知られているのであろうか?』


 そう、最後の最後、自分が亡くなる寸前まで、『魂と体を保つための材料』だった、その身に沁みついていた女童めわらたちの泣き叫ぶ魂の慟哭どうこくを、生前の彼女は見て見ぬ振りを、知って知らぬふりを決め込んでいた。


「な、なにが言いたいの? すべて前世のせいなのよ? わたくしは帝の尊き皇子を産みながら、不遇なまま亡くなった更衣で、あの名もなき存在たちとは比べられない尊き存在よ?」

「黙れ……」


 そう言葉を絞り出した葵の上は、それでもなんとか分かってもらえないかと、歯を食いしばって、目の前の桐壺更衣きりつぼのこういの怨霊に、光る君と更衣が帝に寵愛され、無条件に甘やかされる常春の時を過ごす間、中務卿なかつかさきょうをはじめ、命がけで国のため人々のために、必死に苦労していた多くの人々のことを、どんなに帝に軽んじられても、無理を言われても矜持と誇りだけで、朝廷に対してあなどる者が出ぬように、桐壺更衣きりつぼのこういのことまで、抜かりなく手配りしていた弘徽殿女御こきでんのにょうごや注意を払っていた后妃たちの話を、言い聞かせるようにとうとうと語る。


 後継者としての教育を、父親としての愛情すらも、桐壺帝から放棄され、帝が更衣と光源氏と一緒に、詩歌音曲に戯れている間も、それでもいずれ国の頂点に立つものとして、治めるべき知識と教えを自分自身の力で模索し、日々の努力で帝の後継者として実力を蓄え、いまは新しい帝となった朱雀の君のことも。


「これを知っても、まだ貴女あなたは、自分と光る君が一番かわいそうだって言うの?」

「わ……わたくしは知らなかったし……それに、それにわたくしはわきまえない貴女あなたとは違い、功徳を積みながら、慎ましやかに暮らしていたわ! 女御たちが愛されなかったのは、前世での因縁でしょう?!」


 駄目だ……この人は……。


「知らないじゃなくて、知ろうともしなかったの間違いでしょ?! それに未来を見てきたと言うなら、この際だから言うけどさ、あんなヤツの踏み台に、誰かがなるなんて、自分以外でも絶対にさせない!! 光る君が臣下に降って、栄耀栄華の頂点に登りつめていた?! 父親の妻に手を出して妊娠させるとか、頭おかしいでしょ?! しかも母親に瓜ふたつとか言われてる嫁にだよ? 普通どう考えても地獄行きでしょ?!」

「…………酷い!」


 そう言って、グズグズ泣き出した桐壺更衣きりつぼのこういに葵の上は肩を落とす。運命の女神が愛し、平安の世が崩れてゆく原因となった、『平安貴族の豪華絢爛な夢の中』の上澄みで暮らしながら、嘆くことしかしなかった人だから、当然なのかもしれないけれど。


「ここでごねても、もうわたくしは結婚していますし、光る君は、うしろ盾なく臣籍に降下することが決まっています。誰にしろ、どこかの姫君をうしろ盾のための妻にして、不幸にさせるなんて、わたくしが決して許しません。貴女あなたが光る君の夢枕に立って、これからは心を入れ替えて、真面目に頑張るように応援してみれば、中務卿までは無理でも、少しはなんとかなるかもしれませんよ? 元皇子ですし?」


 本音をちょっと言ったら、なんかわたしが悪者状態ですやんか……。


 平たい目の葵の上は、かわいそうな女童めわらたちのことで、内心胸が一杯であったが、それでも桐壺更衣きりつぼのこういが大人しく消えてくれるなら、それに越したことはないと、最低限の前向きな人生設計をなるべく優しく口にした。


 が、もうなにもかも遅かった……。


「黙りなさい! 光る君の未来のために存在した、いやしい臣下の娘のくせに! 皇子は人知と俗世を超越した美と才に溢れた尊き存在なのよ! わたくしだってこうなったのは、わたくしのせいじゃない! 女童めわらたちがこうなったのは、前世の悪行を償い来世への功徳のためよ!」


 葵の上に秘密の出来事を大声で怒鳴られ、自分と皇子の不始末を綺麗に並べられて、一瞬怯んだ桐壺更衣きりつぼのこういだったが、“本当の未来の書物”を思い出し、おのれが成し遂げるべきことを思い出して、自分よりも小柄な葵の上に向かって襲いかかる。


 だが、桐壺更衣きりつぼのこういは、ここでも大きな間違いを犯していた。葵の上が、入れ替わる前の葵の君、つまり『深窓の姫君』であるという思い込み。


 しかしながら、葵の上は、東山葵ひがしやまあおいは当然ながら、黙ってやられている性格でも、怖気おじけづいて気を失う神経でもなく、もしシンデレラに生まれ変わったとすれば、継母と義理の姉を硝子ガラスのハイヒ―ルで蹴り上げる性格であった。


 桐壺更衣きりつぼのこういが素手で襲いかかってくるのを見て、間合いが近過ぎると瞬時に判断し、素早く御神刀を投げ捨てる。


 首を狙って伸ばされた更衣の両手の前に、自分の右腕を差し出す。いきおい更衣は葵の上の右腕を強くつかむ羽目になり、そのまま葵の上は体を素早く反転させて、今度は左の腕を更衣の片方の脇に差し入れると、『天秤投げ』そう呼ばれる合氣道の技をかけ、勢いよくうしろにあった深く黒い穴の中に、投げ込んでから穴にむかって叫んだ。


「じゃあ、これも前世の行いのせいだからっ!」

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