第169話 訪れた災厄 1

 帝は、光る君が帰ったことに喜んで、二年ぶりに清涼殿に姿を現していた。


 光る君が、淑景舎しげいしゃ(桐壺)が恋しいと、しみじみおっしゃるので、後涼殿女御こうろうでんのにょうごは再び引っ越しの災難に巻き込まれそうになったが、さすがに今度ばかりはと、女御にょうごの父であり、太政官でも重い地位に就く公卿は、参内していた関白に断ってから、女御にょうごの体調が思わしくないと、その日のうちに後宮から実家に女御にょうごを引取ることを申し出て、光る君のことで頭が一杯の帝は、丁度よいと言わんばかりに、すぐに了承していた。


 桐壺御息所きりつぼのみやすどころとは違い、女御にょうごは宣旨がなくとも、手車を使うことができる身分でいらっしゃったが、前回と同様に帝からなんの気づかいもなかったので、手車が用意されることはなく、その上何分、慌ただしい話であったことから、その日、父君が参内のために乗ってきていた牛車で帰ることになった。


 公卿であれば、不足のない立派な牛車行列なれど、女御にょうごが実家に帰るには、あまりにも寂しい話だと、あっという間に内裏中に話が走り、そんなことには気が回らない帝は、光る君のお顔を見て、久しぶりに明るい気持ちで、今宵は華やかなうたげを開くことにし、持ち込まれたその話に、皆、曖昧な顔で出席の返事をしていた。


 ただそんな中、年配の公卿たちは、年からくる疲れを理由に出席を辞退すると、定時で自分たちのやかたに帰って行った。古風な彼らには、帝の女御へのなさりようが、目に余ったのである。


 その日、淑景舎しげいしゃを早々にあとにした後涼殿女御こうろうでんのにょうごは、後宮を去るにあたり、もう帰ってくることもないだろうと、父君につき添われて、他の后妃方に別れの挨拶をするために、それぞれの殿舎に足を運んでいると、ご公務中であったにも関わらず、話を聞きつけたらしい尚侍ないしのかみが、最後に訪れていた弘徽殿こきでんに姿を見せ、せめて、ご自分の牛車を使って欲しいとおっしゃり、弘徽殿女御こきでんのにょうごも、それを大いにすすめられたので、女御にょうご尚侍ないしのかみの気遣いに涙をこぼしながら、父君に支えられ、父君の牛車よりも遥かに豪華な唐車に乗り、なんとか対面を保って、ご実家に帰ってゆかれた。


「わたしが持ちましょう」

「いいえ、これは後宮で楽しかった、唯一の思い出ですから……」


 牛車に乗るまで女御にょうごが手放さなかったのは、百人一首の札が入った、豪華な蒔絵の施された箱だった。帝からは、ただ粗末な扱いをされただけの入内であったが、これは他の后妃方との悲喜こもごも、楽しい思い出が詰まった宝物。


 帝が引きこもって以来、尚侍ないしのかみと大宮が、気を配られたこともあって、后妃方は以前とは違い、お互い楽しく行き来していた。気がつけば、帝に捨て置かれた者同士、明け透け過ぎる話を語り合う仲にすらなっていたほどである。


 強烈な縦社会の中で、円滑な人間関係を維持する必要が不可欠だった、前世での高校の部活動の幹部(部長)としての経験を、葵の君は高くせざるを得なかった、コミュニケーション能力を、フルに稼働させていた。


 箱をながめていると、絵札を取りそこねて、顔から床に落ちそうになった弘徽殿女御こきでんのにょうごと、それを大慌てで両肩を抱いて助けていた尚侍ないしのかみや、小さな両手を口にあてて、息を飲んで驚いていた内親王方を思い出す。


 女御にょうごがクスリと笑ったので、一緒に牛車に乗っていた父君は、怪訝な顔をしていた。


 その日の夜、帝は桐壺御息所きりつぼのみやすどころがいない以外、なにも変わらぬ(と、彼は思っていた)華やかなうたげで、美しい舞を披露している光る君の姿に満足していたが、御簾内に現れた尚侍ないしのかみの姿に驚いて、思わず杓を取り落としていたし、光る君も舞を終えて御簾内に帰ってきてから、周囲が決まり悪く思うほど、ずっと尚侍ないしのかみの顔を見つめていたので、尚侍ないしのかみもご自分の演奏を終えたあとは、そっと檜扇でお顔を覆っていらした。


 帝と光る君が、そのようなことになってしまったのは、御息所みやすどころが亡くなってから二年、葵の君がスクスクと育ち、背丈も母君と同じくらいに成長し、御年十二歳を迎えたいまでは『葵の上』と呼ばれるほどに、ろうたけて美しく、なにもかも三条の大宮に瓜ふたつの、大人びた姿に成長していたからであった。


 まだ四歳と幼い朧月夜おぼろづきよの君などは、最近は母君である大宮と、姉君である葵の上を、しょっちゅう間違えていたが、周囲の女房たちや、親しくしている弘徽殿女御こきでんのにょうごをはじめ、後宮の后妃方などは、それもしかたのないことと思う。


 今日のうたげでも尚侍ないしのかみの隣で優雅に畳に腰かけていらっしゃる大宮は、ご自分の産んだ姫君と、まるで姉妹にしか見えぬご様子で、后妃たちは憧れの眼差しを向けていた。


 帝は“わたくしの女三宮”と、瓜ふたつに成長した尚侍ないしのかみの弾く美しいことの音色に耳を傾ける振りをして、尚侍ないしのかみの顔をじっくりと見つめながら、後涼殿こうろうでんに引きこもっている間中、ろくに尚侍ないしのかみのお顔を見なかったことを、大いに後悔していた。


 絹白粉きぬおしろいで薄化粧をし、紅を引いた顔は、“わたくしの女三宮”そのものだったから。


 しかし光る君が、無邪気に尚侍ないしのかみを慕われる姿をあわれに思い、今更ながら、光る君を尚侍ないしのかみと結ばせてやりたい、それこそ桐壺御息所きりつぼのみやすどころへの供養と思い、そんなふたりを自分の手元に起きたいとも願う。


 やがてうたげが終わり、出席していた后妃方、公卿をはじめとした殿上人、葵の上や光る君が御前を下がったあと、帝は珍しく三条の大宮をお呼びにならず、密かに後涼殿こうろうでんに左大臣を呼び出すよう、蔵人所くろうどどころの別当に使いを出す。


 蔵人所くろうどどころにやってきた女房は、別当への手紙の取次を頼んで清涼殿に帰り、手紙を預かった官吏は、武道場に足を運んだ。


 蔵人所くろうどどころの別当は、うたげの手配は、いまは頭中将とうのちゅうじょうとなった尚侍ないしのかみの兄君、蔵人少将くろううどのしょうしょうに任せ、うたげに呼ばれなかった東宮に稽古をつけていたのである。


 本来であれば、弓の稽古をする予定であったが、朝からの強風が夜になっても止まず、東宮は仕方がないので、今日は木刀を持って剣術の稽古に励んでいた。そこに申し訳なさそうに、官吏が顔を出す。


「帝が左大臣に使いを、とのことでございます」


 手紙を手渡された別当は、東宮に断ってから、道場を出て手配をすませて、再び東宮の元に戻る。


「どうかいたしましたか?」

「いえそれが、わたくしにも分からずじまいで、失礼をいたしました」


 その様子に、なにかよからぬ予感がした東宮は、隅に控えていた乳兄弟の千歳ちとせに目配せすると、彼はそっと姿を消した。


 それから数刻後、首を傾げながら、再び内裏にやってきた左大臣は、帝の言葉に絶句していた。


 なんと帝が、葵の上と光る君の婚儀の取り決めを、彼に迫ったのである。


尚侍ないしのかみを……葵の上を、光る君の妃に?! それは、それはいくらなんでも無理な話にございます!! 葵の上は中務卿なかつかさきょうの北の方でございます。帝の思し召しでも、皇子に入内はできませぬ!!」

「それならば問題はない。光る君にはしかるべきくらいを用意して臣下に降し、わたくしが所有している六条院を改装させて、そこで暮らせるように取り計らおうと思っています。臣下同士であれば、離婚や再婚はままあること、問題はないでしょう」


「しかし御仏みほとけ御告おつげが……」

「どこぞの寺にでも、大々的に祈祷をさせれば、御仏みほとけも大目に見て下さいましょう」


 桐壺御息所きりつぼのみやすどころが亡くなって以来、帝の御仏への信心は薄れていたので、帝は御仏みほとけ御告おつげなど、その程度のことだと思い、自分の素晴らしい思いつきを、笑顔で左大臣に語っていた。


『六条院でふたりが暮らすようになれば、わたくしが足繁く通うにも丁度よい』“わたくしの女三宮”と重なる姿形ゆえに、尚侍ないしのかみを密かに想う、そんな帝の不安定な気持ちも、今再び心の中でほんの少し、欲望と言う名の尻尾を出していた。


「しかし、息子であるわたくしが、摂関家の当主である関白に、相談もなく姫君の離縁など……」

「よく考えてもご覧なさい、そもそも娘の婚儀や離縁の取り決めは、父親の差配するべき事柄、思えば尚侍ないしのかみの婚儀を祖父である関白が取り決めたのは、それこそ筋が通らぬことだったのです」

「しかし……」

「いまここで貴方が承諾してくれるなら、“わたくしの女三宮”を明日にでもそなたにが?」

「…………」


 左大臣は帝の「へ理屈にもほどがある」そんな言葉をずっと否定していたが、最後のひと言に大いに迷ったあと、ごくりと唾を飲み込み、やがて恐る々々、帝の用意した離縁届けに署名すると、そそくさとその場をあとにした。


 怨霊事件が終わったと聞いて、大宮が帰ってきて下さると思ってから、はや二年、左大臣は寂しくて仕方がなかったし、葵の上もしばらくは驚いているであろうが、今夜のうたげで見た光る君の美しい姿を思い出せば、あの美しい皇子を夫にできるのであらば、そう悪い話でもないと思うであろう。


 そうなれば、関白も姫君の可愛さに許してくれると、彼は心の中で、自分に自分で言い訳をしつつ、強い風にあおられて揺れる牛車に乗って、左大臣家に帰る。


 葵の上が知れば、消え去ったはずだった、運命の女神の残した爪痕を、暗澹とした思いで感じ取ったに違いない出来事であった。

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