第226話 祓い 7

『クキ? クキキキ……』


 玉鬘たまかずら苅安守かりやすのかみの曹司から抜け出した、どさくさに紛れてやかたを抜け出したまではよかったものの、せっかく気に入っていた新しい主人である葵の上も見つからず、京の街中をさまよっていた『螺鈿らでんの君』は、なにやら主人の側で感じた覚えのある牛車の中の気配に気づき、人気のない朱雀大路に飛び出していた。


 ただでさえ恐ろしい空の色に、目の前の怪奇現象、皇后宮職こうごうぐうしきの別当の、少ない随身や供人は逃げまどい、気がつけば、別当は、ひとり牛車の中に妖怪と取り残されて、気が遠くなりながら、涙にくれていたが、目の前の妖怪は、よくよく見れば見覚えのある尚侍ないしのかみことで、三位の位を持つ『螺鈿らでんの君』だった。


「ま、待て、お前は、いや貴女あなた様は、螺鈿らでんの……君?」

『キキキ……』


 あの大火の夜に、付喪神つくもがみとなって逃げたんだ! 尚侍ないしのかみは、さぞ悲しんでいらっしゃるに違いない……。


 そう思った別当は、ピョンと跳ねてまたどこかへ行く螺鈿らでんきみのあとを、放り出されていた自分のくつを履いて、珍しく勇気を振り絞って、ひとりで必死にあとを追いかけ始めた。


『ここで逃がしてしまって、もしそれが、中務卿なかつかさきょうや関白に知れたら、先の人生はお先真っ暗!』


 皇后宮職こうごうぐうしきの別当は、完全に腰は引けていたが、『京を離れてなるものか!!』そう決意して螺鈿らでんの君のあとをつける。


 ちなみに他の人間には螺鈿らでんの君は、すでに姿を見えなくしていたので、街中の警備に当たっている検非違使や、さむらいたちに、かなりヒソヒソされながらも、一応は公卿であるとは認識されていたので、そっと見逃されていることには、気づいていなかった。


「あのー、アレ、どうしましょう?」

「あれは……皇后宮職こうごうぐうしきの別当? 別当だな。見たくはなかったが、無視もできんなぁ。一応、うちの別当に報告を入れてくれ。あと、問題がないように何人か警備を……」

「はっ!」

皇后宮職こうごうぐうしきが全焼して、おかしくなったんでしょうか?」

「そうでないことを願うよ……」


 右衛門権佐うえもんふさ左衛門権佐さえもんふさ、ふたりの検非違使の次官たちは、この忙しい時に迷惑行為は止めて欲しいと思いながら、一応は上司である別当あてに早馬を出し、数人の武官に別当のあとをつけさせた。



〈 愛宕郡おたぎごうりの葬場 〉


 大火のあと、愛宕郡おたぎごうりの葬場では、火葬にする死者が、ひっきりなしに次々と運び込まれていた。


 朝早くから焼き場では、異常とも言える数の遺体が次々と火葬にされ、遁世僧たちの読経が延々と響いていた。


「おい、今日はもうしまいだ! 引き上げるぞ!」


 臨時で立ち会っていた役人のひとりが、日が傾いてきた中、まだ葬場で働く者に指示を出そうと、書面を片手に睨んでいる同僚に声をかける。


 声をかけられた役人が、はっと気づけば、普段から愛宕郡おたぎごうりに勤める役人や焼き場の職人たちは、全員が初めから誰もいなかったように姿を消し、煙が立ち込める薄暗いその場所にいるのは、普段ここにいない彼らと、帰ろうとするほんの数人の遺族の列。


「しかし……この調子ではまったく追いつかんぞ。明日は明日で彼方に積まれている亡骸を葬る予定が……」

「しかたあるまい。陽が落ちたあと、ここではなにが起こってもおかしくないと、職人たちが帰ってしま……うわっ!!」


 驚いて声を上げた瞬間、漂う煙と陽が落ちてできた暗がりから、尖った爪を持つ赤い毛むくじゃらの手が、にゅっと伸びてきて、役人たちを闇の中に引きずり込もうとしたが、駆けつけた貴族らしき男が腰の刀を、とっさにすらりと抜いて、勢いよくその腕を払う。体から離れた腕は、ボトリと地面に落ちた。


 駆けつけた貴族は、検非違使の別当であった。彼はこの大火の騒ぎの中で、知らぬままに亡くなっていた妹君を見送りにきていたのである。


 中務卿なかつかさきょうと、なにかと縁のある息子は、いまはよしとしても、桐壷帝の御心次第で、この先どう転ぶか分からぬ。そう案じた検非違使の別当の父君の差配で、妹君は、後宮に第二皇子の女房見習いとして、間の悪いことにその日の朝、反対するのが目に見えている彼には知らされず、密かに出仕していた。


 貴族ながらも、たいした血筋でもない彼女は、誰に気づかれるでもなく、ひっそりと第二皇子の女房に、後宮の入り口で迎えられて、あの大火の夜、右も左もまだ分からぬ後宮で、指図された皇子の母君の形見の品を取りに帰り、煙に巻かれて亡くなっていた。


 命じた女房は、少しばつが悪く思ったが、これもあの子の前世の因縁であろうと、知らぬ存ぜぬでやり過ごしていた。


 翌朝、心配になったものの、息子に言う訳にもゆかぬ……そんな風に、燃え落ちた内裏に妹君を探しに行った父君が、悄然しょうぜんと肩を落として、もう帰らぬ姿になりはてた亡骸を引き取っていた。


 大火の騒乱に職務で走り回り、いまだ妹君が出仕したことにすら気づいていない、息子の激怒を心配した父君は、流行り病で急に亡くなった……そう伝えるように周囲の者に念を押して、この場にきていたが、ただひとりの兄妹である息子が真実を知らぬのは、あまりにもひどい話だと思った母君が、こっそりと大内裏の検非違使所に、真実を書き記した手紙を持たせ、文使いを出したのである。


 彼はまだ信じられぬ思いで、取る物も取りあえずここに駆けつけ、自分の顔を見るなり、引退を口にしながら、涙ながらに妹君の名を繰り返して呼んでいる父君を殴りつけ、大勢の親族の面前で罵倒したあと、先程まで呆然と妹君を見送っていた……そんな次第であった。


 陰から姿を出した、見るも恐ろしい鬼は、血がだくだくと流れる自分の腕を拾うと、いますぐにでも襲いかかろうと、恐ろしい目で別当と刀を交互に睨みつけていたが、なんの感情も見せず、刀を構える相手をよそに、ふいになにか聞きつけた様子で、きょろきょろとあたりを見回してから、なにごともなかったかのように、腕を元通りにピタリと治した。


 鬼は別当に襲いかかるのを止め、あちらこちらから飛び上がる黒い影に混ざって、空に舞い上がり、まるでい命拾いしたなといわんばかりに、ニヤリと笑い、「まだ遊び足らぬが、あの男に呼ばれては致し方なし、その胆力と勇気は褒めよう。これは褒美ぞ」そう言って、人差し指の爪先に小さな火をともし、彼の刀にふっと吹きかけると、夜が訪れた空に浮かぶ仲間たちの百鬼夜行ひゃっきやこうの行列に紛れて姿を消した。


 刀はしばらくの間、まるで鍛え上げられているように、熱を出し赤く光を放っていたが、やがて元通りの姿に戻る。のちにこの刀は鬼神をも切り裂く妖刀として、その曰く共に名を馳せることになるが、まだそれは誰も知らず、彼はうろんな表情で刃に目をやってから、懐紙でぬぐい、鞘に戻してから、ふと呟いた。


「呼ばれた……?」


 別当は鬼が消えた羅城門のある方角に視線をやる。地上には、こちらに向かう早馬らしき小さな影、百鬼夜行ひゃっきやこうは、怪しげな空の色の中に消えていた。


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