第225話 祓い 6

「……ご安心下さい」


 お得意の? うわっつらだけ、しごく真面目な顔をした葵の上に、そう言われて安堵した桐壷帝は、あっけなくそのまま、あちらの世界に旅立って行った。


『きっとこの方が、帝にとってもよかったよ』


 葵の上はそう思いながら、彼の手をそっと自分の手から外す。


 それから彼女は、尚侍ないしのかみただひとり、自分だけに許される口頭での帝からの命令、『内侍宣ないしせん』を告げるために、御簾内から出る。


 このためだけに、自分がこの場にいることを、関白である御祖父君は望んだ。


 そう、帝がなにを言っても、息を引き取ろうが、引き取らないままであろうが、わたしが伝える内容は、帝がに外に伝えられる事柄は、はなから決まっていた。もし彼が持ち直しでもすれば、それこそ誰かが、御祖父君のめいで、帝のいのちをもぎ取らねばならない、そんな状況だった。


 帝は、光源氏にとっては、よき父親だったのかもしれないが、彼は国家の最高位に立つ者として、負うべき責任と義務を、あまりにも放棄し過ぎたのだ。


 自分をその地位に就けた、唯一無二の『選定侯』である関白の目に余るほどに。


 そしてこの状況を作るためだけに、御祖父君は渋るわたしに対して、「京中のやかたを引きつぶしてでも、そなたの母は見つけ出す」とすら言い切って、あろうことか、ただの孫娘でしかないわたしに、頭を下げすらした。


 その尊大なまでの自信で、周囲に『恐怖による倫理』を強制し、貴族社会を統制する関白は、『桐壷帝』を見限りながらも、この律令国家の頂点、『神聖なる帝』の自身の意思による譲位の重さを、誰よりも理解していた。


 だからこそ、おのれの演出する国家という名の舞台を、ここまで台無しにした『桐壷帝』を許さず、威厳も尊厳も、見るも無残なほどに引きずり下ろして、大いに溜飲を下げてなお、最後の最後に彼が『帝の価値』を下げぬために、この喜劇とすら思える舞台を作り上げた。


 彼は『国家』という舞台の冷静な舞台監督であり、演出家ではあったが『帝』たちに流れる神聖な血が、この国を支える重要な根幹のひとつであることだけは、一度も忘れたことはなく、自身や摂関家の繁栄のために、常に多少の労苦はあれど、『主役』になる気だけは、さらさらなかったのである。


 そして東宮は、彼にとってはただの臣下でしかない関白の、あからさま過ぎる傲岸不遜な、主君を主君とも思わぬ摂関家による、この『帝の首のすげ替え』の提案を飲んだ。


 すべてはこの国の未来とたみの幸せのために。


 葵の上は、周囲がひれ伏す中、重々しく口を開く。母君のことはともかく、関白に請われるまでもなく、“ラスコーリニコフの理論”「ひとつの微細な罪悪は百の善行に償われる」を『』とする彼女は、帝の言葉を曲げて伝えることに迷いはなく、なんのうしろめたさも感じていなかった。


『東宮が帝になった方が、いいに決まってるよね! これも世のため人のため!』


 それに帝に散々迷惑をこうむっていた彼女は、「東宮を帝にするために、からすは白いと言ってこい」そう言われても、実はホイホイ承知していたに違いなかった。


 葵の上の短い前世は、ごく小さな世界ながら『上意下達じょういかたつ』良く言えばトップダウンな世界に所属していたので、無能がトップに立った時の絶望も、有能がトップに立った時のスピード感の凄さも、実感として持っており、東宮には大いに期待していた。


 紫苑ではないけれど『桐壷帝の怨霊くらい“へのカッパ”』そんな風にも思っていた。光源氏も帝のうしろ盾がないいま、やはり“へのカッパ”扱いだった。


『化けて出たら、朝まで正座させて説教する! 御神刀もあるし楽勝! 光源氏は適当に元服させて、時期を見て太宰府かな――、ざま――みろ!』


 調子に乗った葵の上は、そんなことを内心考えながら、至って真面目な顔で、眼前にずらりと居並ぶ公卿たちに臆することなく、透き通ったよく通る声で、内侍宣ないしせんを出した。


桐壷帝きりつぼていから、最後の内侍宣ないしせんにございます。“第二皇子には、源氏の姓を与えて臣籍への降下を。まだ幼き他の皇子は親王の地位に、そして東宮には帝となった暁に、必ずや国家の安寧のために務めを果たすよう命じる”それが最後の御言葉にございます!」


 右大臣のやかたは、尚侍ないしのかみの言葉に、水を打ったようにしんと静まり返る。みなは、最後の最後に帝は正気を取り戻された……そう思い、いまは遠い過去である、桐壺更衣きりつぼのこういに溺れる前の、彼の善政を思い出し、帝の眠る御簾に向かって、次々と静かに平伏した。


 そののち今度は東宮に、新しい『帝/朱雀帝』に対して、恭順の意思を示すべく、その場にいた貴族のすべてが朱雀帝に再びそろって平伏していた。


 異例づくしながらも、それが新しい時代、源氏物語の本編から離脱した、早すぎる『朱雀帝すざくてい』の御代の幕開けであった。


 貴族の中には、帰りそびれたお陰で、なんとかこの騒動に乗り遅れずにすんだ、中務卿なかつかさきょうと同じく先帝の皇子であり、たったいま、先々帝の皇子となった、親王である青ざめた顔の、蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみや


 彼はこうなった以上、是が非でもなんとか女御と右大臣に機嫌を直してもらい、三の君とのご縁を繋がねば、せっかく右大臣を介して手に入れた兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの地位も、内裏での立場すらもなくなってしまうと更に苦悩する。


 実のところ彼は、元のお話の『蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみや』と、名前も立ち位置も同じ状況であったが、元のお話では、本物の“蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみや”になるはずであった、光る君の弟宮である第三皇子は、この世界では未だ赤子同然に幼く、まだ避難した母宮の御実家で、頭から湯気が出そうなほど悩んでいる“自分の身代わり”の存在も知らず、母宮の優しい眼差しに見守られながら、乳母に抱かれてウトウトとまどろんでいらした。



 そんな騒動の中、しばらく『朱雀帝すざくてい』は、尚侍ないしのかみをじっと見つめていたが、関白の耳打ちによって、弘徽殿女御こきでんのにょうごに「桐壷帝の訃報と、帝となった自分は、次期東宮妃のいる関白のやかたを『里内裏』とする」そうみずから伝えにゆくことにした。


「桐壺帝のことは、右大臣たちが……三種の神器は、異例ながら蔵人所の別当が、御一緒にお持ちいたします」

「……あい分かった」


 里内裏とはいえ、死が帝と同じ場にあることは、あり得ぬことであり、それは極自然なことであった。


 朱雀の君が、『朱雀帝すざくてい』になった事実を聞いた途端、なにがあろうとも、彼の前では決して涙を零さなかった母君、弘徽殿女御こきでんのにょうごは、一言も発することができずに、座り込んだまま、ただただ感涙の涙をこぼすしかできぬ……そんなご様子だった。


 母君のこれまでの苦労を思い、彼はそっと肩を両手で抱きしめてから、女房たちに支えられるように、ようやく立ち上がった女御と一緒に、関白が用意した手車にのって、尚侍ないしのかみの心配をしつつ、右大臣のやかたをあとにした。


 女官の手配で関白に振り回されて、ようやく関白のやかたから家路についた皇后宮職こうごうぐうしきの別当が、帰る道すがら『螺鈿らでんの君』に出会い、女御と正反対な意味で涙ぐんでいたのも、ちょうどその頃だった。


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