第109話 ドナドナ 2

中務卿なかつかさきょうは殿上していますか?」


 帝が蔵人所くろうどどころの別当にそう問うと、今日は殿上していないと彼は返事をする。


「体の悪い関白が、こうして無理を押して、出仕して下さっているのに、ずいぶんと気楽なことだね」


 帝は関白を引き合いにして、彼にあてこすったが、蔵人所くろうどどころの別当は、中務卿なかつかさきょうが、物忌みがなければ普段ほとんど泊りがけで、連勤をしているのを知っていたので、「尊き方は、なにも分かってはくれていないのだな」と思いながら、黙って頭を下げるだけにしていた。


「誠に残念ではあるが、御仏みほとけの御告げとあらば、仕方がない。姫君には尚侍ないしのかみとして出仕された時に、お会いするのを楽しみにしていると伝えて下さい」

「もったいなき、お言葉にございます。三条の大宮も、再び後宮で暮らすことだけを、楽しみにされていらっしゃいます」

「おお、“わたくしの女三宮”が、そのような嬉しいことを? 降嫁して以来、左大臣に大切にして頂いて、すっかり里心もないかと、兄としては寂しく思っていましたが」


 関白は、帝が東宮位に就く前の皇子の時代から、桐壺更衣きりつぼのこういのこと以外は、帝の気持ちをどうコントロールすればよいか分かっている、老獪な人物であったので、いまのひと言で帝の心が、かなり晴れたのを確信しながら、ついでに葵の君の入内を、公式に帝に否定させるべく、慎重に言葉を選ぶ。


 あわよくば、第一皇子の東宮位の方も、決めてしまいたかった。


「ご降嫁して頂いてから“内親王殿下ないしんのうでんか”におかれましては、いまは臣下の身分になったゆえと、遠慮をされていらっしゃいますが、帝からの便りをそれはそれはいつも心待ちにしていらっしゃいます」

「ああ、“わたくしの女三宮”は、素晴らしい方であるけれど、実の兄妹の間柄、そこまでのお気遣いは無用であるのに……」

「ただ、御仏みほとけ御告おつげがあり、わたくしの差配で、姫君の将来が決定したとはいえ、ご自分の姫君を后妃にできぬのを、大層、気に病んでいらっしゃいまして……」


 関白の暗い表情に、帝は妹宮のことが心配になる。そういえば、今日はせめて女三宮からの返事があっても、おかしくはないのにそれもない。


「女三宮は、お元気でいらっしゃいますか?」


 関白は、心の中ではニヤリと笑っていたが、一度、うつむいてから、迷ったような表情で、口をひらいた。


「それが……帝に申し訳がたたぬと、すっかり気落ちされて寝込んでいらっしゃると、側でつき添う左大臣にそう聞いております。姫君も、ご自分のことで母宮にご心配をかけたことを、大層に気に病んでいらっしゃる様子で……」


 大ウソである。寝込んでいるのは不肖の息子、左大臣の方だ。


「なんと! 女三宮はもちろん、姫君には、なんの罪もないことですぞ!」


 帝は絶句した。

そして自分のことばかりで、妹宮の気持ちを思いやれなかったのを後悔する。特に姫君は、后妃となるべく、そのお気持ちを持って、お育ちであったろうに、さぞ気落ちなさっていることであろう。


 しかしこれも考えてみれば、自分が招いたともいえる御仏みほとけのお導き。帝である自分の東宮位に対する気持ちのあやふやさが、このたびの御告げを呼び寄せたと責任を感じ、ついに第一皇子を東宮にする、何度目かであり最後の決心をした。


 そして、自分の大切な光る君が東宮になれず、姫君がどちらの皇子の后妃としても入内できず、たかが臣下との婚儀が決定した中、せめて女三宮と姫君、ふたりの暗い気持ちと心労を、いたわって差し上げたかった。


 幸いなことに、直接的に姫君の入内をうながしたことはない。東宮妃の件は、女三宮の取り越し苦労だということにしてしまおうと思った。


「光る君が、どんなふみを送ったのかは知らないが、まだ六歳のわらしの手習いゆえ、お気になさらず、おふたりには姫君の入内を、わたくしは考えていなかったと、必ず伝えて下さい。女三宮おんなさんのみやには、無理をいって降嫁して頂きました。一時のことになるでしょうが、姫君が尚侍ないしのかみとして出仕して下さるのとご一緒に“わたくしの女三宮”が参内なさる日を、ただただ楽しみにしていると伝えて下さい」

「もったいなき御言葉にございます」


 帝は自分も“わたくしの女三宮”そうは呼んではいるが、正式には間違いではあるものの、関白も三条の大宮を“内親王殿下ないしんのうでんか”と呼び、いまも妹宮をそのように、大切に扱ってくれることを、せめてもの慰めとした。


 そして帝はこれ以上自分の決心が揺らがぬように、関白に第一皇子を東宮位にと考えていることを告げ、しかるべきように取り計らうように命じる。


 しかしながら、やはり辛い決断には違いなく、桐壷更衣きりつぼのこういと共にすぐに清涼殿をあとにして、前代未聞のことながら、淑景舎しげいしゃ(桐壷)にこもり、しばらくの間どこにも顔をださず、ひなが一日、桐壷更衣きりつぼのこういを側に置いて胸の痛みに耐えていた。


 こうして光る君と、葵の君の運命の赤い糸は、光る君の意志を置いてきぼりに、葵の君と周囲を取り巻く大人たちの手によって、断ち切れたかのように思われた。


 少なくともいまのところは……。

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