第108話 ドナドナ 1

 葵の君が、中務卿なかつかさきょうのやかたで「寺だけは! 精進料理だけは嫌だ!」などと、相変わらずなことを念じながら、朝餉を食べていた日の昼過ぎ、紫苑は青い顔で牛車に揺られていた。


 牛車行列は大内裏をそのまま通り過ぎ、内裏近くの車止めでとまる。牛車を降りた関白と御園命婦みそのみょうぶのうしろを、紫苑は小さくなって歩いていた。


 清涼殿せいりょうでんにたどりつき、あたりを見渡すと、壁には赤地に金の丸が描かれた大きな日の丸。なぜか妖怪がいる荒れる海の描かれた豪華な屏風びょうぶ。初めて行った内裏の中心である巨大な清涼殿せいりょうでんは、大きな左大臣家の部屋のような雰囲気だった。


 どうやら帝は関白が殿上すると同時に、人払いをするように命じていたらしく、清涼殿せいりょうでんにいた殿上人たちや女官に女房のすべては、関白の姿に次々とひれ伏して挨拶を述べ紫苑を不思議そうな顔で、じろじろながめてから姿を消してゆく。


『場違い! 圧倒的な場違い!』


 考えてみれば、小さな頃から可愛がってくれ、一緒に左大臣家でつかえている御園命婦みそのみょうぶだって、れっきとした『命婦みょうぶ』という朝廷のくらいを持つ身分。


 葵の君が出仕しているならともかく、帝がお住まいになる清涼殿せいりょうでんは、女童めわらなんだか、女房なんだか、よく分からない、紫苑が立ち入ってよい場所ではなかった。


『とりあえず、頭を下げっぱなしにしておこう』


 紫苑はそう思った。


 だって自分は「嘘が顔に出る」と、葵の君が言っていたから。神様の子孫である帝に嘘をつくなんて、とんでもないことだけれど、姫君の命がかかっているのだ。神様だって許してくれると、彼女はよく分からない理論で心からそう思う。


 やがてどこからか人の気配と、絹擦きぬずれの音がして、関白が頭を下げた気配がした。


 臣下の最高位である関白が頭を下げるということは、「帝がお出ましになった」ということであった。


 下げたままの視界の隅に、帝が一緒に誰か后妃でも連れてきたのであろうか、美しい十二単の裾が目に入る。


『ひょっとして、この人が、今楊貴妃いまようきひとうわさの桐壺更衣きりつぼのこうい?!』


 関白に覚え込まされた『絵空事』を、心の中で繰り返していた紫苑は、少しでも緊張をほぐそうと、桐壺更衣きりつぼのこういらしき人物の十二単じゅうにひとえの裾の柄を、頭を下げたままじっと見つめていた。


「昨日は入れ違いで、貴方あなたの顔を見られず、残念であったが、こうして以前のように、貴方あなたが内裏に復帰したのは、本当に喜ばしいことですね」

「もったいなき御言葉にございます」


 帝は明るい声で関白に声をかけた。いつもは十日に一度か二度の参内しかない彼が、自分がふみを送った昨日の今日、珍しく日を置かずに出仕したことで、当然、姫君から光る君への返事があるものと思ったからである。


 使いに出した御園命婦みそのみょうぶのうしろには、なぜか左大臣家の女房装束を着た、まだ幼い女童めわらのような女房がひとり。


 どうしてここにいるのかと思ったが、もしや姫君が自分の側仕えに、わざわざふみを持たせたのかとも思う。が、幼い女房はなにも手にはしていない。


「そちらの女房は?」

「孫娘である左大臣の姫君の側仕えで、わたくし同様に昨夜の不可思議な出来事に遭遇した者にございます」

「不可思議とは、姫君の身の上になにか?」


 帝はそう言えば星の動きが、どうこうといった報告が、今朝方早く陰陽寮から上がっていたことを思い出し、話を急かす。


 そして帝は、小さくなって、かしこまっていた幼い女房が恐る々々と話しだした、左大臣家に起きた不思議な出来事を聞くと、無言で黙り込んでしまう。


 それは、あまりにも不思議な出来事であり、当事者である幼い女房を連れてきたのも、無理からぬ話であった。


御園命婦みそのみょうぶから受け取った、帝と皇子からの大切なふみを姫君に届けようと、渡殿わたどのを歩いていた時の話でございます……」


 幼い女房は、熱に浮かされたように話しだす。


 彼女が渡殿わたどのを通り、姫君にふみを取り次ごうとすると、どれだけ歩いてもたどりつかず、それどころか不思議なことに、いつの間にか歩いていたはずの渡殿わたどのは消え失せ、気がつけば雲の上にいたというのだ。


「雲の上には僧侶がひとりいらっしゃいました。僧侶が言うには、いま姫君は、如来様からの、ありがたい御告げの最中、ゆめゆめ邪魔をすることなかれと……。そして気がつけば元いた場所に立っていたわたしは、首を傾げながら、それでも姫君の元へと思い、足を進めたところ……」


渡殿わたどのを歩いていたはずが、庭に転げ落ちていたと……」


 よくよく見れば、幼い女房は転げ落ちた時に怪我をしたと見えて、可愛らしい顔に小さな膏薬こうやくの布が張ってあった。


 低い身分とはいえ、こんな可愛らしく幼い女房が、女の命である顔に怪我をしたのは、気の毒だと帝は思う。


 言葉を詰まらせたまま、額を床につかんばかりに平伏した幼い女房の代わりに、今度は関白が口に出した驚くべき摂関家への『御告げ』に、帝は思わず手にしていたしゃくを握り締めた。


「姫君の入内は……諦めると申すのか……」

「誠に苦しい判断ながらも、わたくし自身が見届けた御仏からの御告げ。摂関家としても、たったひとりの姫君を入内させられぬことは、苦渋の判断ではございますが、これも姫君の命を救って下さった御仏の思し召しと思い、入内は諦めることにした次第でございます」

「なんと……」


 左大臣家の姫君を第二皇子に入内させるのは、弘徽殿女御こきでんのにょうごや右大臣に難色を示されるのは覚悟していたが、まさかこの現実主義の関白が、このような話をするとは、帝にも予想外であった。


 光る君の東宮位は諦めて納得しつつあるが、大貴族の実家を持たぬ第二皇子を東宮に押せば、右大臣家の姫君を母に持つ第一皇子より、摂関家が外戚として強い立場を取れるのは、いわずとも関白は容易に理解して、それゆえに彼は密かにその野心を持って、姫君の第二皇子への入内を承諾すると、帝は見積もっていた。


 そうすれば光る君に、大きなうしろ盾ができるし、皇子はふたりともまだ幼い。本当の願いも、光る君の東宮位も諦めずに済むのではとすら考えていた。


 しかし、予想外であったからこそ、その話には信憑性があり、帝はせめてもと念を押すようにたずねてみる。


「それでは姫君は“第一皇子”にも入内せぬと、そう言われるのか?」

「姫君の入内は、年寄りの最後の夢でございましたが、神仏の御判断は手の届かぬ領域。いたしかたございません」


 袖で顔を覆う関白の無念の言葉には、帝も納得するしかなかった。


 帝に姫君を入内させることで、己の権勢を盤石としているのが摂関家である。彼が嘘をついてまで、姫君を第二皇子に、ましてや、東宮位にもっとも近いとされる第一皇子に入内させるのを断る益は、なにひとつなかった。


「昨日の星の動きは国の未来の母という、責務を担う運命だと思われた、左大臣家の姫君の運命を現していたのか……」


 ふたりの人相見が光る君に下した判断と言い、姫君の身の不幸と言い、御仏の思し召しは、帝位にくべきではない第二皇子を、なんとか東宮にしたい、そんな心の底に押し込んだ密かな自分の願いを、遠くから見透かされているようで、恐ろしさを感じた。


 そして、もし自分の願いさえなければ、わたくしの女三宮おんなさんのみや、三条の大宮に瓜ふたつと言われる姫君は、あのけがれを背負った中務卿なかつかさきょうではなく、せめて第一皇子の東宮妃として、その身にふさわしい栄誉が掴めたかと思うと、会ったこともない姫君ではあるが、女三宮おんなさんのみやに無理をお願いして、左大臣に降嫁させたことも思い出し、無意識に二人の姿は重なり、帝の胸は痛む。


 中務卿なかつかさきょうは有能な公卿であり、自分の大切な妹君を救ってくれた腹違いの兄弟ではあるが、御仏の差配とはいえ苛立いらだちを禁じえない。ひとつふたつの嫌味や釘は刺しても罰は当たらぬと帝は思った。

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