第37話 山中の闇と世の暗がり 2

 京のはずれ、羅生門から東寺を過ぎて、東京極大路ひがしきょうごくおおじの近くに、広さが一町ほどの、ごくごく目立たないやかたがある。


 ヒノキの薄板で編んだ貧相ではあるが、高い檜垣ひがきで覆われたやかたの中は、外からなにもうかがい知ることはできない。時折、出入りする整えられた牛車もあることから、さる公卿くぎょうの事情のある姫君が、密かに住んでいるとのうわさもあった。


 やかたに勤めている者の数は少ない様子で、たまに見かけるのも無口な年老いた女房がひとり、他には一様に無表情な使用人たちが数人。


 中の景色は、極々平凡に京に暮らす公家のやかたといった、寝殿造りの建物。橋のかかった池と築山。母屋の庭の端近には、四季折々の小さな花などが植えられている。


「おかえりなさいませ兄君」


 母屋の御簾みす内からは、弱々しい風情のする、少し掠れた女君の声。兄君と呼ばれた男の慌てた声がした。


「もう寝ていなさい、お前は体が弱いのだから」


 夜も更けているというのに、やかたを取り巻く釣灯篭つりどうろうには火が入っておらず、月明かり以外は、先程の声のした御簾内に灯る燈台と、火鉢のわずかな灯りだけが、部屋を照らすだけだ。


 厨子棚ずしだなの下に置いてある薬箱の蓋がややズレている。眠るように自分に告げながら、兄君が用意したらしき薬湯を、女君は眉をひそめたが、きちんと飲み干し、口直しに唐菓子をひとつ頬張る。


 食事も滞りがちであった彼女であるが、言いようのないほど苦い薬湯の後味を消すためにも、この菓子だけは欠かせなかった。


 やがて薬湯が効いてきたのか、再び眠気に襲われた女君は、寝所で、うつらうつらと夢の世界に入ってゆく。


 彼女は生まれつき体が弱く、気がついた時には兄君と、この屋敷で一緒に、二人きりで暮らしていた。

 たずねたことはないが、親も親戚もなく、ずっと兄君と二人きり。


 その証拠に、自分の裳着もぎの儀式には、誰ひとりの客もこず、彼女の知らぬ兄君の職場の人々から、贈物の衣櫃ころもびつや織物が数種類届いただけであった。


 兄君が用意してくれた、裳唐衣もからぎぬの正式な十二単じゅうにひとえの装束は、病弱な彼女には、美しいけれど残酷なほどに重く、とてもまとっていることなど、できなかったので、二人きりの裳着もぎでよかったのだと彼女は思う。


 せめてもと思い、兄君は妹君が寝所に横になったまま、ながめられるように、壁際に沢山の衣架いか(着物を掛ける調度)に装束をかけて飾ってくれていた。


 彼女は気分がよい日には、鏡箱から出しっぱなしで、少しくもりが出ている鏡をのぞきこむ。


 日に当たったことのない白い顔は、白粉おしろいを塗るまでもないほどに青白かったが、それでも彼女は顔に白粉おしろいを塗り、皿に溶かれていた紅を、震える指で唇に乗せる。


 黒々と美しい垂髪は、元結もとゆいと呼ばれる紙の紐で、一旦ひとつにまとめられてから、長く床に這っていた。


 裳唐衣もからぎぬ十二単じゅうにひとえのように、正式な場所に着るものでは決してないが、細長姿と呼ばれる、袴に何枚かのうちぎを重ね、見せる相手もないものの、お洒落な衣装を身にまとい、御簾越しに脇息にもたれ、御簾の向こうに広がる庭を、ながめることだけが楽しみであった。


 なにくれとなく面倒を見てくれる優しい兄君が、自分がいるばかりに身動きができず、結婚も恋人もできぬのではないかと、成長してゆくにつれ、女君は密かに心を痛めていた。


「いつも最後には、妹君よりも美しい女君はいないと思うので心が動かない」


 心配げにそんなことを語る自分を安心させるように、兄君がそう言っていたと、年老いた女房は言っていたが。


「もう朝ね……あら?」


 そう言いながら目を覚ました彼女は、いつもはかすみがかかったように、ぼんやりとした意識が、スッキリとしていることに気づく。


 最近、欠かさずに飲んでいる、新しい薬湯が効いてきたのかもしれない。


 あるいは兄君が数年前に知りあったという、僧に頼んで執り行ってくれている加持祈祷が効いたのか。


 庭に咲く小さな花や季節のうつろい、そして兄君の言葉だけが、彼女の世界のすべてであり、外の世界を一切知らぬまま、来年には二十歳はたちを迎える彼女は、今朝は念入り化粧を顔に施して、衣装を整えると、出仕する兄君を見送ろうと、思い切って御簾の向こうに出てみる。


「兄君は?」


 彼女は年老いた女房にたずねた。


「恐れながら、とうの昔に出仕なさいました」

「あら……」


 そう言われた彼女は冬とはいえ、日がとうに天高く昇っていることに、ようやく気づく。

 いつもより長く眠っていたようだ。


 少し気恥ずかしく思ったが仕方がないので、いつものように、兄君と交代でつけている日記でも読もうと思いながら、庭の端近まで袴を捌き、ゆっくりと歩く。


「まあ、今朝は雪が降っていたのね」


 庭に咲いたばかりの赤い椿の花が、まだ溶け切っていなかった白い雪の積もる庭に、美しく咲き誇っていた。


「兄君にお伝えしなければ」


 御簾みす越しでなく、こうして直接に庭を見たことすら、彼女にとっては初体験。


「なんて世界は美しいのだろう」日記にそう記し、枕元に切り取ってこさせた椿の花を飾った彼女は、再び訪れようとする夜を前に、薬湯を飲んで眠りにつく。


 しかし、直接吸い込んだ冬の冷たい空気が悪かったのか、彼女はそれからまた、意識のないままに数日寝込んでしまい、宿直とのゐや年末年始の多忙さゆえに、不規則な生活が続く兄君と、顔を会わせることが減ってゆく。


「どうしたの?」


 女君は寝所で横になったまま、浮かぬ表情で彼女の髪をくしいていた年老いた女房に声をかける。


大和国やまとのくにで起きていた恐ろしい事件が、最近、京の都でまで起きているそうです」

「事件?」


 年老いた女房は、か弱い女君に伝えたものかどうかと、くしを持つ手をとめて、しばし思案していたが、うながされて、女童めわらがおそわれる事件が、相次いでいるので気をつけるようにと、役人が知らせを持ってきた話をした。


「まあ、なんて恐ろしい……」


 女君は思わず両手を口に当てて息をのむ。


「大丈夫にございますよ、うちに女童めわらはおりませぬ」


 少しふざけた口調で、年老いた女房が言うので、女君もつられて苦笑する。


「そうね、あなたが女童めわらには見えないわ」

「ええ、残念なことにございます」


 眉をしかめてわざと重々しく女房は返事をし、再び女君の髪をくしく。


「でも、なんて恐ろしい話でしょう、兄君が早くお帰りにならないかしら?」


 女君はそう言ってから、髪の手入れをやめさせると、気分が悪くなって、再び眠りについた。


 女君の名は『つるばみの君』、兄君の名は『刈安守かりやすのかみ


 兄君は典薬頭てんやくのかみという、ギリギリの殿上人であったが、遥授国司ようじゅこくし(赴任せずに京にいる国司)を兼任しており、豊かな穀倉地帯である、刈安地方からの財を、管理する人物でもあった。


(一定の取り決めを国家に収めたあとは、総取りしようと思えばできる地位であるために、国司や受領を務める者の懐具合は、おおむね潤沢である。)


 また彼は、典薬寮てんやくりょうという医薬を担当する寮の長であることから、官位を超えて、貴族たちの医療相談にのることも多く、豊富な人脈を持っていた。


 加持祈祷に重点が置かれている時代の中ではあったが、彼自身が研究し、配合する草根木皮そうこんぼくひをもちいた漢方は、大層評判がよかったので、個人的な相談があることも多く、病弱な妹君とは、すれ違いの多い生活ではあるが、誰ひとり、知る者がおらぬような京の都の片隅で、二人は静かに互いを大切に、佇むようにお暮しであった。


 治安の悪化を恐れた検非違使けびいしは、夜になれば大路に松明を点させ、毎日、すべての通りを武官や侍に巡回させたが、それからも、彼らをあざ笑うかのように、女童めわらは神隠しにでもあったかのように、京の街中から忽然と姿を消し、数日後、必ず川で発見されていた。


 やがて人心はざわつき出し、昨今の地方の天災といい、『御霊信仰ごりょうしんこう(非業の死を遂げ、怨霊となった人を、神と崇めることで御霊を鎮めるといった信仰)』の存在も相まって、どこかで非業の死を遂げた、徳のある貴族や僧侶がいたのではないか?


 はたまたいまの治世に対する、どこぞの御霊からの怒りではないかという話すら、年末の寒空に静かに広がってゆく。


(※刈安地方というのは実際にはない架空の地域です。)


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