第37話 山中の闇と世の暗がり 2
京のはずれ、羅生門から東寺を過ぎて、
やかたに勤めている者の数は少ない様子で、たまに見かけるのも無口な年老いた女房がひとり、他には一様に無表情な使用人たちが数人。
中の景色は、極々平凡に京に暮らす公家のやかたといった、寝殿造りの建物。橋のかかった池と築山。母屋の庭の端近には、四季折々の小さな花などが植えられている。
「おかえりなさいませ兄君」
母屋の
「もう寝ていなさい、お前は体が弱いのだから」
夜も更けているというのに、やかたを取り巻く
食事も滞りがちであった彼女であるが、言いようのないほど苦い薬湯の後味を消すためにも、この菓子だけは欠かせなかった。
やがて薬湯が効いてきたのか、再び眠気に襲われた女君は、寝所で、うつらうつらと夢の世界に入ってゆく。
彼女は生まれつき体が弱く、気がついた時には兄君と、この屋敷で一緒に、二人きりで暮らしていた。
たずねたことはないが、親も親戚もなく、ずっと兄君と二人きり。
その証拠に、自分の
兄君が用意してくれた、
せめてもと思い、兄君は妹君が寝所に横になったまま、ながめられるように、壁際に沢山の
彼女は気分がよい日には、鏡箱から出しっぱなしで、少し
日に当たったことのない白い顔は、
黒々と美しい垂髪は、
なにくれとなく面倒を見てくれる優しい兄君が、自分がいるばかりに身動きができず、結婚も恋人もできぬのではないかと、成長してゆくにつれ、女君は密かに心を痛めていた。
「いつも最後には、妹君よりも美しい女君はいないと思うので心が動かない」
心配げにそんなことを語る自分を安心させるように、兄君がそう言っていたと、年老いた女房は言っていたが。
「もう朝ね……あら?」
そう言いながら目を覚ました彼女は、いつもは
最近、欠かさずに飲んでいる、新しい薬湯が効いてきたのかもしれない。
あるいは兄君が数年前に知りあったという、僧に頼んで執り行ってくれている加持祈祷が効いたのか。
庭に咲く小さな花や季節のうつろい、そして兄君の言葉だけが、彼女の世界のすべてであり、外の世界を一切知らぬまま、来年には
「兄君は?」
彼女は年老いた女房にたずねた。
「恐れながら、とうの昔に出仕なさいました」
「あら……」
そう言われた彼女は冬とはいえ、日がとうに天高く昇っていることに、ようやく気づく。
いつもより長く眠っていたようだ。
少し気恥ずかしく思ったが仕方がないので、いつものように、兄君と交代でつけている日記でも読もうと思いながら、庭の端近まで袴を捌き、ゆっくりと歩く。
「まあ、今朝は雪が降っていたのね」
庭に咲いたばかりの赤い椿の花が、まだ溶け切っていなかった白い雪の積もる庭に、美しく咲き誇っていた。
「兄君にお伝えしなければ」
「なんて世界は美しいのだろう」日記にそう記し、枕元に切り取ってこさせた椿の花を飾った彼女は、再び訪れようとする夜を前に、薬湯を飲んで眠りにつく。
しかし、直接吸い込んだ冬の冷たい空気が悪かったのか、彼女はそれからまた、意識のないままに数日寝込んでしまい、
「どうしたの?」
女君は寝所で横になったまま、浮かぬ表情で彼女の髪を
「
「事件?」
年老いた女房は、か弱い女君に伝えたものかどうかと、
「まあ、なんて恐ろしい……」
女君は思わず両手を口に当てて息をのむ。
「大丈夫にございますよ、うちに
少しふざけた口調で、年老いた女房が言うので、女君もつられて苦笑する。
「そうね、あなたが
「ええ、残念なことにございます」
眉をしかめてわざと重々しく女房は返事をし、再び女君の髪を
「でも、なんて恐ろしい話でしょう、兄君が早くお帰りにならないかしら?」
女君はそう言ってから、髪の手入れをやめさせると、気分が悪くなって、再び眠りについた。
女君の名は『
兄君は
(一定の取り決めを国家に収めたあとは、総取りしようと思えばできる地位であるために、国司や受領を務める者の懐具合は、
また彼は、
加持祈祷に重点が置かれている時代の中ではあったが、彼自身が研究し、配合する
治安の悪化を恐れた
やがて人心はざわつき出し、昨今の地方の天災といい、『
はたまたいまの治世に対する、どこぞの御霊からの怒りではないかという話すら、年末の寒空に静かに広がってゆく。
(※刈安地方というのは実際にはない架空の地域です。)
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