第45話 輪舞 3

「ただいま戻りました……姫君?」


 十二単の裾を少しすました顔で、でも慣れない仕草でさばきながら、左大臣家に帰ってきた紫苑は、顔を洗っている姫君の側までやってくると、不思議そうに朱塗りの角盥つのだらいの中をのぞいた。


 色がいつもと違う。どこかで嗅いだような香りに首を傾げる。


「ハト麦茶で顔を洗っているの」

「え……」


 こともなげに答える姫君に、紫苑はビックリしたが、『葵の君教団』の熱心な信者ともいえる彼女は、ほほえみを浮かべている姫君の新雪を思わせるような白い肌が、しばらく見ない間に、更にみずみずしいつやと、透明感を持っているのに当然気づいた。


 そして、いつものように感動した。


「ハト麦茶は肌によいのですね!!」

「飲んでも食べても体にいいわ。もしよかったら、食事に取り入れてもらいなさいね」

「はい……」


 まさか毎朝、茶で顔を洗う贅沢は、身の丈に合わないが、毎日、欠かさずに一杯飲むくらいは、できるだろうと思いながら、裳着もぎを済ませ十二単じゅうにひとえを着た自分を、大人っぽくて可愛いと、お褒め下さる大宮にキチンと挨拶をすませる。


 大人っぽさと可愛いらしさは両立するようで嬉しかった。


 疲れただろうし、持ち帰った荷物の整理もあるだろうと、一日、休みをもらった彼女は、自分の部屋に下がる。


 実家よりも馴染んだ気がするこの部屋も、春がくれば姫君について出仕するので、もう少しの間だけの住まいと思うと感慨深かった。


 大宮にご挨拶をした時は、姫君もすっかり身支度を終えられて、愛らしいすみれ色を基調にした汗衫姿かざみすがたの装いでいらしたが、ふと姫君が見せた大人びた表情にドキリとした。


 まだ今年十歳になられたばかりなのに、姫君は自分よりも、ずっと年上のように感じる時があった。きっと、世に代えがたい存在でいらっしゃるからだろうと、勝手に納得する。


 わたしがいない間の姫君は、ほとんどの時間を、尚侍ないしのかみとしての出仕のためのお勉強で、御堂おどうに文机まで持ち込んで、過ごしていらしたらしい。


 勉強嫌いの自分は、それだけでも感動するが、姫君は関白が感心なさるほどの才能で、教えにきていた博士たちも姫君の桁外れの才に、一様に驚いていたと伝え聞く。


 もちろん、なにを今更といったのが、彼女の正直な感想だった。


 姫君は国でも有数の保有量を誇る、左大臣家の唐の書物を、すべて頭の中に入れてしまっているし、薬師如来の御告おつげまであるのだ。


 病から回復されて以来、姫君の驚くしかない数々の天啓てんけいひらめきを、いつも近くで見てきた自分は、博士の感想を耳にして“ありきたりね”そう思っただけだった。


 それから紫苑の頭の中は、いよいよ迫ってきた、姫君の裳着もぎのことで一杯になる。


 自分の裳着もぎも、父が地方の有力な受領なため、急ながらも盛大に祝ってもらったが、姫君の裳着もぎは、どんなに素敵な儀式になるんだろうと、いまから高揚感しか覚えない。


『だって、並ぶもののない摂関家の姫君なんだもの!』


「あ、忘れてた!」


 姫君に頼まれて、父に準備してもらった、地元の特産物“布海苔ふのり”を乾燥させた品を積んだ荷車を、台盤所だいばんどころの長に運ぶよう、下働きに伝える。


布海苔ふのり”は漆喰しっくいを作る時に使う海産物で、わりと有名な建築資材だが、姫君はそれで髪を美しくできるとおっしゃっていた。どうするのか想像もつかないが、楽しみに持って帰ってきたのだ。


 そして夕食後、姫君はひょっこりと自分の部屋まで、わざわざ足を運んで下さって、小さな手のひらに乗るくらいの、銀色の綺麗な透かし細工の施された丸い箱と、不思議な形をした太く短い筆を収めた、綺麗な螺鈿細工の施された箱を下さった。


 銀色の丸い箱の蓋を、そっと開けると中には白く美しい粉。


「なんですかこれは?」

「これは絹白粉きぬおしろいです。わたくしからの裳着もぎのお祝い」


 悪戯っぽくほほえむ顔も、気絶するほどに愛らしい。

 自分が知っている白粉おしろいと全然違う、この銀色の小箱に入った粉を筆につけ、姫君はわたしの手の甲に筆で粉をのせる。


絹白粉きぬおしろい……綺麗です」

「そうでしょう、これはね、いままでの白粉おしろいと違って、肌は悪くならないし、とても美しくなれる上に、扱いやすいはずよ」


 感心して自分の手の甲を見ているわたしに、姫君は満足そうにそう言うと、なくなったら言ってねとおっしゃりながら、“布海苔ふのり”を試してくると、風呂殿の方向に消えた。


 あとで考えれば、姫君が下さった絹白粉きぬおしろいは、自分がいない間に、姫君が新しく開発された品だった。


「あれ? どうしたの? なんだか急に大人っぽくなってる。育ち盛りだから?」


 そう言ったのは、その日、宿直にやってきたついでに、自分の部屋に顔を出した、真白の陰陽師の“六”であった。


「あのですね、そういう時は、急に綺麗になったねって、言うんですよ?」


 もらった絹白粉きぬおしろいを顔に塗って、ご機嫌で鏡をのぞいていた紫苑は、唇を尖らせて抗議する。


 彼の真っ白で無表情な外見が、初めは物凄く怖かったが、姫君にわたしと貴女の命の恩人と聞いて、怖がったことを、あやまって以後、割と仲のよい友達のようになっていた。


『彼も姫君のファンだし!』


 出仕に際して周りの女房のうわさによると、凄くうるさいらしい自分の寝言が心配だと言った時は、寝言封じの呑札のみふだ(水に溶かして飲む御札)と、魚の小骨が刺さらなくなる御札(そんなものあったのか!)までくれた。


「嘘みたい……」

「ほとんどは嘘だと思った方がいいよ」

「え?」


 彼が言うには、大した力を持たない『なんちゃって陰陽師』が、同じ札を書いても効果はまったくないらしい。


 真っ白な睫毛で囲まれた、森の泉のように薄い水色の瞳が、悪戯っぽく自分を見ていた。


「君は騙されやすそうだから、気をつけた方がいいね」

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