第44話 輪舞 2

 葵の君は脱線をやめて、本来なら持ち出し禁止であろう、極秘の国家資料の巻物を、次々に転がして目を通してゆく。


 自分はまだ目にしていない、たみ、(つまり前世の自分)の暮らしが、近年、大変なことになっているのは、簡単に想像できる資料ばかりであった。


 内裏だいりに出入りしている殿上人てんじょうびととの呼び名は、雲の上の人っていう意味合いだが、その国家の頂点に近い上層部の“ 殿上人てんじょうびと”が嫌になるくらいの財務状況って、一般人(民)は、もう想像するのが怖い。


 女童めわら誘拐殺人事件も怖いけど、羅生門の前で飢えた人が行き倒れていたと言ううわさを耳にしたこともある。首都でそれって、地方はもう地獄絵図じゃない?


 葵の君の体が小さく震えた。


 自分は今現在のところ、将来の命の危険に怯えてはいるが、何不自由のない、摂関家の姫君である。


 しかしながら前世は令和の時代なのに“昭和の苦学生”と呼ばれる生活ぶりで、教科書に載っていたバブルの時代とはいかなくても、いまの時代に暮らす人々が、幸せになって欲しいと思うのは確かだ。


 そう思うと、関白に出された山積みの課題も、たみを思う御祖父君のワラをも掴む、新しいアイデア探しの一環かもしれないと、時々は愚痴をたれこぼしながらも、真面目に取り組む。


 自分の前世の記憶が、みんなの幸せに役に立てば幸いだと思う。


『左大臣家輸出品目録』


 葵の君は次に、摂関家の財産目録一覧や、家系図といった内容の巻物を眺めながらふと思う。


 これは勉強じゃなくて、家業手伝いが混ざっているんじゃないだろうか? 仕事前の研修?


 そうか、兄上が持ってきたシイタケは、左大臣家の富の源泉のひとつで、輸出品だったのか!


 左大臣家は、元々ある財産や収入もさることながら、自己所有の田畑や港に加え、沢山の金山、銀山、その他の鉱山、そして金の倍の価値がある(凄い!)『シイタケ』が沢山採れる山を持っていた。


 国で一番の穀倉地帯と思われる刈安地方は、さすがに国の管理下にあるようだけど、残念ながら去年も不作だったようだ。


 御祖父君は、几帳面に目録の巻紙と、採掘される鉱物の見本を、長細い箱にセットして収納している。(さすが!)


 ただ、ちゃんとした地図が手元にないのが痛いところであった。伊能忠敬は、まだ影も形もないもんなぁ。


『凄い値段を吹っかけてるんだ!』


 干しシイタケの、あまりの値段の凄さに驚いた。遣唐使は次の便で廃止にするらしいが、民間貿易は意外にも活発なんだなと、葵の君は小さな指で、目録を一行ずつなぞって感心する。


 摂関家が一手に担っているだけなのかも知れないけれど、遣唐使の廃止が決まった反面、唐との民間貿易は、想像以上に活発であった。


 誰にも見せるなと言われているので、御堂の中に、ところ狭しと転がっている(自分が散らかしたんだけどさ!)巻物にウンザリしながら、ひとつひとつ、自分で巻きなおす。


「意外と巻物って、元に戻すの難しいな……また、タケノコみたいにななめに……」


 広げて、巻いて、また広げて……そんなしょうもない作業も、繰り返せば上手くなるもので、葵の君は、一週間もするとわたしって器用! そんなことを思いながら、素早く綺麗に、まるで博物館の展示品のように、書簡をピシッと元通りにできるようになった。


 映画や物語が面白いのは、こういう地味な部分を、上手く削ぎ落とすからだろうか?


 確か『源氏物語』は誰も財政難! とか、税制の健全化! とか言ってなかったような……。


「でも、これが現実になった源氏物語なんだ……しゃーないね、かすみを食べて生きてる訳じゃないもんね」


 葵の君はブツブツと、独り言を言いながら、すっかり日も落ちて、冷え込んできた御堂の文机に再び向う。


 彼女は某有名な推理小説の主人公のように、驚くべき記憶のつまった脳内の博物館も、伝説的な英雄のような剣技も持ち合わせていなかったが、地味な根気だけは、汲めどもつきぬ泉のように持ちあわせていた。


 思いつく限りの自分の記憶を頼りに書き上げた、関白の課題に対する提出論文に加え、これからの政策の改善に向けた補助的な施策と、民間援助として、正確な地図と戸籍の製作と公共工事を提案し、すでに太巻き状態になっている長い巻紙レポートに、さらに紙をつないだ。


 算術の博士の講義内容と、屋敷に出入りしている“真白ましろ陰陽師おんみょうじ”から耳にしていた、陰陽寮の天体観測技術から、北極星や一定の歩幅を使った、伊能忠敬の計算方法を方向さえ示し、大量に人手を投入すれば、時間は少しかかっても、正確な地図はできるはずと踏んだのだ。


 まさか自分が全国を歩いて、地図を作るわけにはいかない。それにわたしは方向音痴だ。


 地図が正確にできあがるまでは、自分の頭の中にある知識と記憶だけが頼りだが、丸暗記は得意だったので、どこになんの生産が向いているとかくらいは分かるだろう。


 今後の作物に対するアドバイスくらいは、たぶんできるはず。


 それにGPSどころか正確な地図がない時代だ。“地図”そのものが朝廷にとって、後々は大きな武器となることは想像できる。


『目指せ沖縄! 目指せ北海道! ニシンに鮭、昆布と砂糖で大儲けだ!』


 あと、算盤そろばん! これはすぐにでも大量に作ってもらって、文官に配ることにしよう。Excelは無理だけど、これだけ発達した手工芸品ができるのだ。算盤そろばんくらい簡単に製作できる。


「しかし、魔法使い(陰陽師)もいるけど、怨霊は出るし、詐欺みたいな迷信だらけだし、絢爛豪華な王朝の内実、実は大赤字! 穀物蔵はほぼ空! 涙も出ないほどのハード・モード……」


 突きつけられた現実に、才能を女と趣味に全振りする光源氏には、絶対に帝になってもらっては困るよねと、葵の君は強く思った。


「影の薄かった、お母さんに振り回されていた、腹違いのお兄さんにも、もう少し心丈夫な帝になってもらわないといけない」


 あと、内裏の公的な業務日誌に目を通して、なにより驚いたのは、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの使えなさだ。


 なんでわたしの命の恩人で、アイドル(神)の中務卿なかつかさきょう(文官)が、わざわざ地方の争乱に、武官を率いて駆けつけてるの?! 兵部省ひょうぶしょうって軍事担当してるんだよね?!


 なに? この、京を出ると体の具合が悪くなるって? これが職務怠慢の申し開きになるの?


 悪しき血統主義が、ここに極まった! そんな帝の一族、親王と言う立場の強さに興然とする。


 彼に政治的な権力はあまりないが、かといって兵部省ひょうぶしょうは、後々のためにも、名誉職にしてはいけないと思う。


 そんなだから、武士に、ゆくゆくは乗っ取られて国家崩壊に……。


 御祖父君が体を壊して引退するまでは、問題がなかったということは、いかに彼が有能で、ひとりで内裏を切り回していたことを証明すると同時に、支配層が無能に飲み込まれた時の王政の弱さを実感する……したくもないけど。


 中務卿なかつかさきょうも頑張ってはいるけれど、帝>太政官>八省の壁があまりにも厚すぎるようだ。


 御祖父君も不死身ではない。自分が言うのもおこがましいが、帝にやる気になってもらわないと、どうしようもなさそうであった。


 来年の秋までは、できるだけ御祖父君に関白として頑張ってもらえたら、色々と、はかどりそうだけど、それも帝にちゃぶ台返しをされればそれまでだ。どういう人物なんだろう? わたしの伯父さんなんだけどさ。


 眉間に握った小さな拳を押し当てて、彼女はため息をつき、念のために官職一覧表(省庁担当一覧)を広げて、再び小さな人差し指で、今度はその一覧をなぞる。


 実際の指揮権は、将軍や六衛府と言われる省庁とはいえ、この兵部卿宮ひょうぶきょうのみやという男は兵糧の管理すら……うん? 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやって、紫の上のパパ?!


 確か出世欲は強いけど、政治的にいえば、そんなに役に立たないんだよね。


『そのまんまか?! そのまんまやんか!』


 葵の君は、久々に『源氏物語』の主な登場人物を、見つけてしまっていた。


 まだ生まれていないであろう紫の上には悪いが、この男は、なんとか左遷して、もっと有能な人材を探してもらおうと心に決める。この世界のためにも、わたしのアイドル(神)のためにも、その方が絶対いい!


「大宰府(左遷)候補と……」


 葵の君は『大宰府』と見出しをつけた横に名前をひとつ、悪い笑顔でつけ足した。


“悪の帝国軍のテーマ”が葵の君の脳内を流れる。今度、ことで弾いてみよう。できるかもしれない。


 そして、日々はあっという間に過ぎ去って、大量の貸し出された巻物や最後の提出物は、御堂の中の鍵のついた葛籠つづらばこに収められ、葵の君は、ぬくぬくと布団に丸まったまま、燃え尽きていたのであった。


 そのまま数日が過ぎた朝、ハト麦茶で顔を洗っていると、側仕えの女房が、紫苑が帰ってきたことを、葵の君に報告していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る