第167話 災いの種 2

〈 女子会からしばらくあとの内裏 〉


「まあ今年も大変なことばかりでしたが、それでも関白の引退の撤回に加え、近来まれに見る大豊作であったゆえ、国政に関しては大いに助かりましたな!」

「来年からも期待ができます。それもこれも尚侍ないしのかみにおりた“御仏みほとけ御告おつげ”のおかげですよ」


「栽培作物を変えるように言われた土地の差配も見事に的中いたしました!」

「中納言のはじめられた宇治の茶畑も、順調に育成が進んでいるとか、数年後には大変な財になりますなぁ、うらやましい限りです」

「いままでは姫君たちの婿取りに、大層苦労されていらっしゃいましたが、このままゆけば選び放題ですな」

「うまくいけば、第一皇子へ、末の姫君の入内も考えられますよ」


 朝議が終わり、尚侍ないしのかみの姿が消えたあと、公卿たちは、それぞれの荘園や国政の明るい見通しに、久々に明るい顔で盛り上がっていた。


 右大臣が教えてもらった卵のカラは、さすがに量に不足があり、今年は右大臣家の所有する農地の一部での使用に限定されたが、それでも葵の君が、前世の教育の過程でうっすら覚えていた『メンデルの第一法則/優劣の法則(※現代の交配種、F1野菜)』を中心に、去年の冬の課題地獄の時に関白に“御仏みほとけ御告おつげ”として伝えていた『新農業指南』が、ようやく秋を迎え、実を結んでいた。


 収穫まで明らかに数年かかる地域には、国、もしくは、それぞれの貴族の派閥の頂点である摂関家や右大臣家などから適切な援助が行われ、転作を命じられた小作人たちは、安心して新しい作物の栽培にいそしんでいる。


 例の『料紙の束』の効果か、気候がよかったことも幸いして、作物の取れ高は倍増以上であったので、年貢の比率を引き下げたままであっても、国と貴族たちの収益は増えるという珍事が起きていた。彼らの機嫌もよくなろうというものである。


 そして尚侍ないしのかみの監修なさった『豆腐料理百選』『卵料理百選』と、二冊同時購入初版特別付録『美と健康、わたくしが豆腐と卵を食べる理由』(葵の君にネーミングセンスはなかったので、すべて紫苑が考えたタイトルであったが、彼女も大概だった。)が、夏の終わりに浮世絵の技術を取り入れた多色刷り印刷の美々しい本となって発売され、当然のことながら爆発的ヒットとなり、京の貴族や地方の受領は言うにおよばず、久々の豊作に活気が沸いた地方でも、市場には豆腐屋ができていたし、本の発売と同時に、天秤棒を担いだ卵売りまで登場し、卵の殻自体を安値ながら、有料で回収して肥料とする仕組みを右大臣が作り出したので、来年に向けて順次、他の貴族の荘園向けへの供給の見通しも立ち、大量の卵の殻をどうやって調達するかという悩みもほぼ解決していた。


 なお、豆腐は肉を食することができない寺からの注文が一番多かった。そしてそれを見越した関白は、容易に寺に出入りができるであろうと、すべて関白の家人が手配した、子飼いの“草”(※忍び)に店を開かせていた。「少しでもすべての人が健康に幸せに暮らせるようになりますように」そんな葵の君の純粋な願いは、「みなの幸せは摂関家の幸せにつながりますように」そんな関白の願いが、知らぬ間に密かにからまって、世の中に広まってゆく。(すっかり健康を取り戻した彼の頭は、良くも悪くもフル稼働していたので、豆腐はそういうことで、高額販売を取りやめていたのだ。)


 寺の保有する大小のすべての荘園も、そこそこの豊作であったが、尚侍ないしのかみの“御仏メンデル御告おつげ”を元に耕作に励んだ農地と、明らかに収穫量に差が出たので、民衆は『尚侍ないしのかみこそが御仏の使い、薬師如来の具現』とうわさしあい、寺が所有する荘園の小作人たちは、取れ高の少ない自分たちだけが、高い年貢を払うことに、大きな不満と不信感を抱いた。


 官僧を出入禁止にした前歴のある尚侍ないしのかみを『胡乱うろんな女』そう決めつけて、栽培方法すら聞きにゆかなかった上に、関白の手配で貴族たちに知らされた『新農業指南』は、それぞれの地方の門外不出とされたので、彼らには、なすすべがなかったのである。


 それでも数年続いた飢饉のために国の財政は、まだまだ危うかったが、葵の君の案を原案に、関白と中務卿なかつかさきょうが秘密裡に検討に検討を重ね、中務卿なかつかさきょうが主だった省を取りまとめ、尚侍ないしのかみが可愛い左大臣はもちろんのこと、第一皇子に強く協力を要請された右大臣の太政官での働きかけもあり、来年度分は貴族を相手に、利回りは低いが確実に利益の出る新しい制度、『長期国債』を発行することで、貴族から当座の資金を調達し、無事に予算編成を乗り切った。


 長期的には『救済物品税』という貴族や寺社仏閣が主な購入先である贅沢品に、貧民救済と民のための社会基盤の整備(インフラ整備)に使用目的を限定した税を新規に設立する法案が朝議にかけられ、二官八省の公卿たちの強力なあと押しと、尚侍ないしのかみ後涼殿こうろうでんの前に、飲まず食わずで一日中座り込み、そんな姫君の姿に心を痛めた大宮の懇願と、そんな尚侍ないしのかみの姿に、内裏中から向けられる目を久しぶりに気にした帝が、ようやく口上にて了承を出したので、寺社仏閣からの抗議をおさえ込み、国の運営は来年以降も、なんとか体裁を整えるメドは立った。


 一見、関白が決裁してもよかったかのように思われるが、『救済物品税』にかんしては、第二の宮中である官僧を黙らせるためには、彼らの上に立つ『帝』自身が採決を下したという事実がなによりも必要だったのである。


 この『救済物品税』は、公卿たちも自分の懐が痛まぬわけではなかったが、『これは来世への大きな功徳です』そう言って、自分たちに大きな救いを与えて下さった尚侍ないしのかみみずからが、二官八省の主だった公卿たちを、一人々々、ご自分の殿舎へ呼んで、丁寧に説得にあたったことが決めてとなって了承した。


 彼らはその分、寺への寄進を減らすことにしたので、実質はノーダメージにできるのも賛成の要因でもあった。来世への最低限の功徳とされる寺への寄進を減らしても、『救済物品税』を払う方が、よほど来世への功徳になる。そう思えるほど尚侍ないしのかみの言葉には説得力があり、なによりも神々しかったのである。


「御簾越しであるにも関わらず、尊き尚侍ないしのかみのうしろから差す“後光”をわたしは、はっきりとこの目で見た!! あの方の意向こそ御仏みほとけの御意志であり、尚侍ないしのかみこそが薬師如来の具現!!」


 そう言ったのは、太政官に勤める中納言だった。彼だけでなく登華殿とうかでんを訪れた他の主だった公卿たちもそれを目撃していた。が、実のところ、屏風のうしろにこっそり隠れて“後光”を作り出していたのは、真白の陰陽師たちであった。


「ここまでしなくても……」

「念には念をとの関白と中務卿なかつかさきょうの指示でございます」

「はあ……」


 その時、葵の君は、「やりすぎじゃないのかな? 完全な詐欺じゃないのかな?」そう思いドキドキしながら、ひっきりなしにやってくる公卿たちを、檜扇の裏に貼った“カンペ”に時々目をやりながら真剣に説得していた。


 なにせ国庫の予算は、今年の豊作がなければ、「宝物殿の宝をオークションにでもかけるしかない」そのくらいのギリギリの状態だったのだ。


『あああ――、大猿退治の方がまだマシ!!』


 喉元を過ぎればなんとやら、関白や中務卿なかつかさきょうとは違い、本来はまったく事務方の仕事に向いていない葵の君は、いつぞやの左大臣家での御堂おどうの『缶詰地獄』を思い出し、左大臣が寄進という体裁で登華殿とうかでんの向かいに建ててくれている『御堂おどうPart2』が早く完成しないかなと思いながら、夜には空になる布団用の塗籠の中で、こっそりストレス発散に剣を振ったり、筋トレをしたり、さか立ちまでしていた。


『まあでも、国中が大豊作でよかった!! みんながお腹いっぱいに、ご飯が食べられる! 頑張ったかいがあった!!』


 関白たちの行動は知らない葵の君は、素直にそう思い、気を取り直すと、今日も今日とて忙しく内裏の中で職務に励むのであった。


 一方、第二の宮中と呼ばれる官僧の世界を支配する僧侶たちは、『救済物品税』は、大いに苦々しく思ったが、貧民救済という目的が含まれていたため、立場上いくらなんでも、大っぴらに反対することができなかった上に、唯一、それを反故ほごにできる帝を説得するどころか、幾度となく内裏に足を運んでも、その姿を見かけすることすらできなかった。


「まったく忌々しい話でございます!!」

「悟りを開くこともできぬ女の身で、御仏の使いなどと呼ばれるなど、おこがましいことこの上ない!」

「帝は関白と尚侍ないしのかみの言いなりじゃ!」


 贅を極めた衣に身を包み、きらびやかな寺の中で、本来であれば禁忌である般若湯(※酒の隠語)を呑みながら、第二の宮中を支配する官僧たちは、腹立ちまぎれに尚侍ないしのかみの悪口を、自分たちの寺で並べ立てていたが、実のところ、帝は桐壺御息所きりつぼのみやすどころを失った悲しみで、世の中になどなんの興味はなく、光る君に早く内裏に帰ってくるようにふみを書く以外は、ひたすら“わたくしの女三宮”だけを頼りに“この世の終わり”そんなやるせない気持ちで日々を過ごしていた。


 本来であれば、藤壺の姫宮によって、『藤壺の宮』によって、いやされるべきであった帝の心は、遅くなった愛し過ぎた桐壷更衣きりつぼのこういとの別れと、姫宮の不在によって、帝の心には、ただただ暗雲が重く立ち込めていた。

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