第168話 災いの種 3

 京に黒々とした夜が訪れた頃、とある大きな寺の境内で、巨大なほのおが上がっていた。読経が続く中、護摩木ごまぎ(加持祈祷の時に使う木札)と一緒に、なにやら大きな供物が投げ入れられている。


 やがて炎から生まれた不気味な“モヤ”は、自分に触れたすべてを腐らせながら、空高く舞い上がり、内裏に向かって飛んでいった。


“モヤ”が内裏の上に到達し、ゆっくりと降りてゆくように見えたその時、夜だというのに、どこからか一羽の小さな藤色の小鳥が“モヤ”に向かって飛ぶ。小鳥は大きな光を放つと、内裏の上に半円状に広がってゆき、“モヤ”を跳ね返したあとその姿を消した。


 内裏の警護にあたる武官たちは、その怪奇現象に驚き、鳴弦の儀めいげんのぎ(※邪気をはらうために、弓に矢をつがえず弦を引き、手を放すはらいの儀式)を行っていた。


 その日、内裏そばの陰陽寮で宿直とのゐをしていた“弐”は、外に出て“モヤ”が消えた空を、しばらく見上げていたが、やがて落ちてきた護摩木ごまぎ欠片かけらを手に取って、なにかを探るように目を閉じて指でなぞりながら寮に戻ると、壁にかけてある大弓を手に外に出ると、“しゅ”を唱えながら、矢もない大弓の弦を空に向かって大きく引いてから手を離す。弦はひときわ大きな音を立てていた。


 彼の弓からは、なにもなかったはずなのに、光の矢が三本どこかに飛んで、やがて見えなくなる。


降伏法ごうぶくほう(※魔物や怨敵を調伏するための祈願)の一種でしょうか?」

「ああ、しかもいまのは、完全に“葵の君”を狙った“呪い”だ」


 同じく宿直とのゐをしていた“伍”にたずねられた“弐”はそう答える。

 護摩木ごまぎの欠片から探るに、さっきの“モヤ”は、『葵の君』を狙って、やってきた様子であった。


「怨霊は消えたはずでは?」


 そう言われて“弐”は、大猿事件で葵の君が“料紙の束”に書き込んだ内容を思い出し、この世の浅ましさを疎ましく思いながら、護摩木ごまぎ欠片かけらに目をやる。


「また、新しいヤツが生まれたんだろうよ、“人”というものが存在する限り、“欲”はなくならず、“怨霊”や“呪い”は何度でもよみがえる」

「姫君は誰かに恨まれるような方ではございませんよ?」

「近頃は『薬師如来の具現』のおかげで、を被っている寺も多いだろうが。お前、少しは寺の立場になってモノを考えろよ?」

「寺の立場って……あ、そう言えばこの間の!!」


“弐”にそう言われた“伍”は、貴族からの寄進の減少を『信心のなさ』、尚侍ないしのかみをみなが『薬師如来の具現』とたたえることを、御仏への侮辱と、声高に訴えて帝への謁見を申し出ながら宮中に押しかけていた、豪奢なころも袈裟けさに身を包んだ、でっぷりと太った僧侶の一行を思い出していた。


 帝は相変わらずのご様子で、お姿を出すこともなく、神祇官で適当にあしらって帰らせたようであったが、その内の一人の僧侶が尚侍ないしのかみに対して、聞くに堪えない悪口雑言を声高にわめき出し、親戚筋にあたる某貴族が、あの僧侶の寺とは縁を切ると言いながら、必死で中務卿なかつかさきょう尚侍ないしのかみへの、とりなしを頼んでいた。


「僧侶って、世俗の生活を捨てて、仏の道に励んでいるんですよね?」


“伍”は、わざとらしく両手をあわせて、仏を拝むポーズをとり、かわいらしく首を傾げる。


「まあ、人によりけりなんだろうけど、この間の“ご一行”よりは、俺の方が清貧だろうよ」

「物欲の固まりじゃないですか」

「……あんまりな言いぐさじゃないか?」


 翌朝、“弐”は、“ふーちゃん”を、葵の君が探しているという話を小耳にはさみ、大慌てで藤色の料紙で鶴を折っていた。


「“ふーちゃん”が見つかりました!!」


 その日の夜、紫苑はそう言いながら、登華殿とうかでんに帰ってきた葵の君に、金の鳥籠に入っている“ふーちゃん”を見せていた。


「こんなに……くちばしが長かったかしら?」

「こんな感じでしたよ。それか、昨日の騒ぎに驚いて伸びたのかもしれません」

「……」


 葵の君はしばらくの間、変な顔で“ふーちゃん”を見つめていたが、皇后宮職こうごうぐうしきの別当から、急用だと使いがやってきたので、再び貞観殿じょうがんでんに向かう。


 その次の日、京からそう遠くない寺が全焼したという知らせが、早くも瓦版かわらばんに載ったので、街中は騒然となっていた。


 瓦版かわらばんによると、寺では禁じられている『呪詛』が行われていたらしい。


 その衝撃的な内容と、内裏で僧侶の起こした騒動が、あわせて載せられていたことから、人々は『薬師如来の具現』である尚侍ないしのかみに対して、不届きな行為を働いた仏罰だとうわさしあい、先日の夜、内裏を襲った恐ろしい光は、帝がいまだ「亡き“今楊貴妃”に心とらわれて、神事をロクに行わぬからではないか?」そうもうわさしていた。


 人々の知らぬことながら、寺が全焼したのは、もちろん“弐”が放った『見えない呪詛返しの光の矢』のせいであったが、豪華な牛車に乗って大路をゆく僧侶たちは、近頃の悪い評判も加わって、より一層、厳しい目で見られ、親戚筋にあたるはずの貴族たちからも、苦言を述べられ、距離を取られる始末であった。


 第二の宮中を支配している官僧たちは、自分たちの意向が御仏の威光だと考えていたので、『薬師如来の具現』と呼ばれ、なにかと目障りな左大臣の姫君のことを、苦々しく思っていたが、まさか御仏に仕える自分たちから、たみや貴族たちの信心が離れてゆく、などと考えたことはなかったので、いままで自分を敬ってきた、貴族やたみの心変わりや怒りが理解できず、最近の世の中に広がる、御仏への不信心を嘆いていた。


「よいできだ。なるべく派手にやれ、ただ、あからさまにならぬよう気をつけよ」

「はっ……」


 そう腹心の家人に言っていたのは、やかたの中で瓦版を手にしていた関白であった。そして、内裏の騒ぎを聞いて、いささか驚きはしたが、宮中の陰陽師や警護の実力と守りの固さに感心し、葵の君の無事に安堵する。


 そして、それがゆえに、刈安守かりやすのかみは手をこまねいていた。


 やがて季節は新しい春になり、帝が出席なさらないという前代未聞の中、昨年の秋の終わりから、ようやく体調を取り戻された関白が、帝の正式な代理として準備万端おこたりなく儀式を執りおこない、第一皇子は無事に東宮位にき、同日、続けてやはり帝の欠席のままに、右大臣を加冠役(後見人)に、東宮は元服を迎えられる。


 そして、悲しみに沈む帝を置き去りに、それなりに世間の時は流れ、桐壺御息所きりつぼのみやすどころが亡くなってから二年後の春、八歳となった光る君は、ようやく内裏へと帰ってきた。


 たった二年、されど二年、『恋と愛にたわむれ、美しさと雅やかさに囲まれて流れてゆく王朝絵巻』そんな風に初期設定がなされ、そう運命の女神の創り出したはずの世界は、そこから離脱してしまった世界は、葵の君の存在と、彼女を取り巻く周囲の変化ゆえに、大きく流れが変わりはじめていたが、光る君の帰りを聞いた、そんなことはつゆ知らぬ帝は、ようやく清涼殿に姿を現すと、皇子の美しくも尊い姿に感動し、涙を流しながら光る君を抱きしめていた。

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