第89話 錯綜する蜘蛛の糸 6
左大臣家をあとにした右大臣は、その足で時を置かず、
先々のことや親王たちへの牽制も兼ねて、彼はこの話を必ず潰し、無能なだけでなく、自分の邪魔にしかならぬ、
母宮は右大臣の急な訪問に驚いたが、多忙な中、わざわざ自分のところに足を運んでくれたのだからと、女房にすぐ通すように伝えて御簾内に座った。右大臣は嘘にならぬ範囲でため息と共に、大げさに後宮の心配事を話し出す。
いま、母宮の前に座っているのは、後宮の大きな混乱を
こういう役回りは彼の得意分野である。
母宮は彼の衝撃的な話に思わず袖で口元を覆い、ひと言も聞き漏らさぬご様子で聞き入っていた。右大臣は沈痛な表情で、身振り手振りをまじえて話していたが、声をひそめて決定打をつけ加える。
「ここだけの話でございますが、帝の妹宮でいらっしゃる三条の大宮も、ご心配の余り、左大臣家の姫君は、第一皇子の后妃ではなく、あえて引き返せるように、一旦は
「まあ、あの更衣への寵愛が、第一皇子の后妃選びにまで影響を! なんということでしょう! 第一皇子という、なんの不足もなき皇子がいながら、未だ東宮位が決まらぬのは、そんなことであろうとは思っておりましたが。でも、そんな状況なのに、なぜ
母宮の言葉は、もっともであった。しかし右大臣は
「恐れながら
「あの子は一体、なにをしているのでしょう……」
北の方と新しい妻との、家庭内のゴタゴタは耳にしていたが、まさか内裏でも問題になるほどに、気が抜けているとは、母宮は思わなかった。病に伏している身とはいえ、あまりにも目を離し過ぎていたようだ。
「起死回生の気持ちで、妹宮の入内を進めていらっしゃるのかと……しかし残念ながら
「…………」
「いつなんなりと、ご相談下さい。
『大きな勢力を誇る右大臣家を実家に持ち、第一皇子を産んだ
そう母宮に強く印象づけることに大成功した右大臣は、未来は分からぬとはいえ、我家の姫君にも、無理に入内させたばかりに、不憫なことをしましたと、袖で顔を覆って牛車に乗り込む。
もちろん泣いた振りであった。
折れることがない心は、彼女の美徳であり、大きな欠点でもあった。葵の君の話も順序よく持ち出さねば、また高級な檜扇を壊され、自分の持ち出しで、新しい品を早急に届けねばならぬ羽目になると、右大臣は顔をしかめた。
少しは実家の懐具合も配慮して欲しいものである。
内裏において親王の勢力拡大は、摂関家よりも立場が弱い右大臣には、まったく持って不要であった。第一皇子の外戚として出る杭は、いまのうちに打つ!
関白に言われるまでもなく、彼は全力で第四皇女の入内を阻止しようと立ち振る舞い、母宮の態度に手応えを感じて、機嫌よく自分のやかたに帰る牛車に乗っていた。関白までとはいわぬが、彼も相当な
案の定、母宮の心内には、ご自分の姫君を思い、袖を濡らしていた右大臣の悲壮な姿は、しっかりと刻まれていた。
彼が帰ったあと、呼び出された
彼女は怒りのあまり病すら跳ね飛ばし、檜扇どころか、もたれている脇息を投げつけそうな勢いで、彼を責め立てた。
「姫宮の入内、そなたから聞いていた話と、まったく違うではありませんか!」
母宮には、
母宮の態度にうろたえた彼は「しまった!」という表情を隠せぬまま、なんとか挽回を図ろうとする。
「いや、それは、
「だまらっしゃい! 尊き先帝の血を引く妹宮を『
気位の高い母宮の怒りは、彼の言葉に益々燃え上がり、収まる気配はなかった。
「どうかなさいましたか?」
常にない母宮の大声に、藤壺の姫宮が慌てた顔で、母宮のところにやってきた。母宮は姫宮をしっかりと抱き寄せると、
「よいですか、
息子を女房たちに追い出させると、使用人全員に彼の出入禁止を伝え、驚いた顔の姫宮の髪を撫ぜつつ、母宮は貴女には幸せになってもらわねばと、涙ながらにおっしゃっていた。
「入内しなくてもよいのですか?」
兄君にしつこく勧められていたが、評判のよくない後宮に入内するのは、あまり乗り気でなかった姫宮は、パッと明るい表情になる。(そんな事情でヤケになって、ひどい評判を起こしていた部分もあった。)
「ええ、もちろんです。でも、わたくしがいつまで
「加茂斎院でございますか? 存外の幸せですが、いまの斎院がいらっしゃいますよ?」
藤壺の姫宮は不思議そうな顔をする。
斎院というのは加茂斎院のことで、伊勢斎宮と並ぶ、神に仕える皇女が就く高い地位であるが、遠い伊勢とは違い、場所は京の郊外。任期もなく華やかで典雅な、皇女たちだけが希望できる、憧れの
後宮への入内話にも俗世間の男君にも、うんざりしていた姫宮は、母宮の申し出に、すんなり賛成する。加茂斎院であれば京の中心である、いま暮らしているやかたからも近い。母宮も気軽にたずねていらっしゃれるだろう。寂しい思いをさせることはない。
「丁度、いまの斎院は懇意にしております。そろそろ引退したいとおっしゃっていたから、
「ええ、是非にも!」
そんなこんなで『加茂斎院』の件は、左右の大臣が関白と一緒になって、最優先で通したこともあり、右大臣の訪問から少しあと、兄宮である
「なにも知らず、良き人生を歩んで下さい……」
近い未来、
『幸せに暮らしてるって聞いて、ホントよかった』
その時の葵の君は、光源氏の毒牙から彼女を守れた上に、
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