第89話 錯綜する蜘蛛の糸 6

 左大臣家をあとにした右大臣は、その足で時を置かず、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやと第四皇女の母宮の元を訪れていた。


 先々のことや親王たちへの牽制も兼ねて、彼はこの話を必ず潰し、無能なだけでなく、自分の邪魔にしかならぬ、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの左遷も、いつか必ずやと胸に秘める。


 母宮は右大臣の急な訪問に驚いたが、多忙な中、わざわざ自分のところに足を運んでくれたのだからと、女房にすぐ通すように伝えて御簾内に座った。右大臣は嘘にならぬ範囲でため息と共に、大げさに後宮の心配事を話し出す。


 いま、母宮の前に座っているのは、後宮の大きな混乱をうれう、国家の重鎮でありながらも、己の娘の不遇を思い、心を痛めている父親であった。


 こういう役回りは彼の得意分野である。


 母宮は彼の衝撃的な話に思わず袖で口元を覆い、ひと言も聞き漏らさぬご様子で聞き入っていた。右大臣は沈痛な表情で、身振り手振りをまじえて話していたが、声をひそめて決定打をつけ加える。


「ここだけの話でございますが、帝の妹宮でいらっしゃる三条の大宮も、ご心配の余り、左大臣家の姫君は、第一皇子の后妃ではなく、あえて引き返せるように、一旦は尚侍ないしのかみとしてしか宮中には出せぬと……第一皇子の外戚としては苦慮しております。しかし後宮の実状を知るゆえに、無理もいえぬことで……」

「まあ、あの更衣への寵愛が、第一皇子の后妃選びにまで影響を! なんということでしょう! 第一皇子という、なんの不足もなき皇子がいながら、未だ東宮位が決まらぬのは、そんなことであろうとは思っておりましたが。でも、そんな状況なのに、なぜ兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、妹宮に入内を勧めるのでしょう?」


 母宮の言葉は、もっともであった。しかし右大臣は兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの弱点を知り尽くしていたし、右大臣の言い分に母宮は納得しかなかった。


「恐れながら兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、先の反乱平定や、京を騒がせた連続殺人事件解決作戦への不参加、管理不行き届きなど失態続き、近頃もなにやら私生活のことで、仕事には身が入らぬ様子で、多数の公卿からも苦情が上がっております……ゆえに非常に焦っておられるのでしょう」

「あの子は一体、なにをしているのでしょう……」


 北の方と新しい妻との、家庭内のゴタゴタは耳にしていたが、まさか内裏でも問題になるほどに、気が抜けているとは、母宮は思わなかった。病に伏している身とはいえ、あまりにも目を離し過ぎていたようだ。


「起死回生の気持ちで、妹宮の入内を進めていらっしゃるのかと……しかし残念ながら桐壺更衣きりつぼのこういの寵愛が動かせぬことは天下の知るところ。姫宮にも気の毒なお話になろうかと存じます。気の強い弘徽殿女御こきでんのにょうごも、実父であるわたくしには気弱さを見せていらっしゃいます」

「…………」

「いつなんなりと、ご相談下さい。不躾ぶしつけながらも、子を思う親の気持ちは、親にしか分からぬものでございます」


『大きな勢力を誇る右大臣家を実家に持ち、第一皇子を産んだ弘徽殿女御こきでんのにょうごですら、そんな立場であれば、第四皇女は後宮に入れば、決して引き返せぬ、捨て置かれた粗末な存在になってしまう』


 そう母宮に強く印象づけることに大成功した右大臣は、未来は分からぬとはいえ、我家の姫君にも、無理に入内させたばかりに、不憫なことをしましたと、袖で顔を覆って牛車に乗り込む。


 もちろん泣いた振りであった。弘徽殿女御こきでんのにょうごは、毎日々々、元気に自分に不満をぶつけながら、床に檜扇を投げ飛ばしている。


 折れることがない心は、彼女の美徳であり、大きな欠点でもあった。葵の君の話も順序よく持ち出さねば、また高級な檜扇を壊され、自分の持ち出しで、新しい品を早急に届けねばならぬ羽目になると、右大臣は顔をしかめた。


 少しは実家の懐具合も配慮して欲しいものである。


 内裏において親王の勢力拡大は、摂関家よりも立場が弱い右大臣には、まったく持って不要であった。第一皇子の外戚として出る杭は、いまのうちに打つ!


 関白に言われるまでもなく、彼は全力で第四皇女の入内を阻止しようと立ち振る舞い、母宮の態度に手応えを感じて、機嫌よく自分のやかたに帰る牛車に乗っていた。関白までとはいわぬが、彼も相当な古狸ふるだぬきであった。


 案の定、母宮の心内には、ご自分の姫君を思い、袖を濡らしていた右大臣の悲壮な姿は、しっかりと刻まれていた。


 彼が帰ったあと、呼び出された兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは、病で弱っていたはずの母宮に大いに叱責されることとなる。


 彼女は怒りのあまり病すら跳ね飛ばし、檜扇どころか、もたれている脇息を投げつけそうな勢いで、彼を責め立てた。


「姫宮の入内、そなたから聞いていた話と、まったく違うではありませんか!」


 母宮には、桐壺更衣きりつぼのこういへの寵愛もやや落ちつき、尊き身分の姫宮を後宮にとの話が上がっていると、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやは持ち出していたのだ。


 母宮の態度にうろたえた彼は「しまった!」という表情を隠せぬまま、なんとか挽回を図ろうとする。


「いや、それは、桐壺更衣きりつぼのこういに比べて、いまの后妃方がパッとせぬだけで! 宮中の女房によれば、妹宮は桐壺更衣きりつぼのこういに瓜ふたつ! だからその、絶対、入内すれば、妹宮の寵愛は我家の……」

「だまらっしゃい! 尊き先帝の血を引く妹宮を『今楊貴妃いまようきひ』と呼ばれている、たかが更衣と瓜ふたつと言われて、喜んでいらっしゃったのか?!」


 気位の高い母宮の怒りは、彼の言葉に益々燃え上がり、収まる気配はなかった。


「どうかなさいましたか?」


 常にない母宮の大声に、藤壺の姫宮が慌てた顔で、母宮のところにやってきた。母宮は姫宮をしっかりと抱き寄せると、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやに宣言する。


「よいですか、貴方あなたとは親子の縁を切ります! 己の保身のために妹宮を犠牲にするなど、この母が許しません!」


 息子を女房たちに追い出させると、使用人全員に彼の出入禁止を伝え、驚いた顔の姫宮の髪を撫ぜつつ、母宮は貴女には幸せになってもらわねばと、涙ながらにおっしゃっていた。


「入内しなくてもよいのですか?」


 兄君にしつこく勧められていたが、評判のよくない後宮に入内するのは、あまり乗り気でなかった姫宮は、パッと明るい表情になる。(そんな事情でヤケになって、ひどい評判を起こしていた部分もあった。)


「ええ、もちろんです。でも、わたくしがいつまで貴女あなたを守れるか……。そうね、そうだわ、斎院はどうかしら?」

「加茂斎院でございますか? 存外の幸せですが、いまの斎院がいらっしゃいますよ?」


 藤壺の姫宮は不思議そうな顔をする。


 斎院というのは加茂斎院のことで、伊勢斎宮と並ぶ、神に仕える皇女が就く高い地位であるが、遠い伊勢とは違い、場所は京の郊外。任期もなく華やかで典雅な、皇女たちだけが希望できる、憧れのくらいであった。


 後宮への入内話にも俗世間の男君にも、うんざりしていた姫宮は、母宮の申し出に、すんなり賛成する。加茂斎院であれば京の中心である、いま暮らしているやかたからも近い。母宮も気軽にたずねていらっしゃれるだろう。寂しい思いをさせることはない。


「丁度、いまの斎院は懇意にしております。そろそろ引退したいとおっしゃっていたから、貴女あなたがよいのなら、すぐにでも許可を取ります。そうね、右大臣にも、お口添えを願いましょう。先程のご様子なら、きっと良きように取り計らって下さるはずです」

「ええ、是非にも!」


 そんなこんなで『加茂斎院』の件は、左右の大臣が関白と一緒になって、最優先で通したこともあり、右大臣の訪問から少しあと、兄宮である兵部卿宮ひょうぶきょうのみやが止める暇もなく、妹宮は賀茂神社(現在の上賀茂神社・下鴨神社)に加茂斎院としての就任が決まり、姫宮が就任後、賀茂神社をたずねた母宮は、楽し気に暮らしている様子を姫宮から直接に聞いて安堵し、兄宮は落胆した。


「なにも知らず、良き人生を歩んで下さい……」


 近い未来、尚侍ないしのかみになった葵の君は『加茂斎院』事件を知った時、賀茂神社の方角に向かって、小さな声でそういうと、両手を合わせて拝んでいた。


『幸せに暮らしてるって聞いて、ホントよかった』


 その時の葵の君は、光源氏の毒牙から彼女を守れた上に、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの左遷がしやすくなったと、右大臣のファインプレーに感心していた。


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