第213話 現代奇譚/クロスオーバーする青春/10

 その後、『葵』になった『葵の君』は、適当な診断書を手に入れて、しばらく大学を休学してからではあるけれど、恐る々々ながら、平安時代の英才教育のたまものか、残っている記憶のお陰か、じょじょに、そして確実に現代社会に適応していった。


 そんなある日、部活を終えて、じっと自分の薬指を見て深く考えこんでから、とてもいいことを思いつくと、その翌日、一限の講義が終わってからどこかに行って、部活を終えてから、まだ彼がいるはずの大学の理事室をたずねた。


「あの、ちょっと提案があるのですけれど……」

「どうかしましたか? なにか困ったことでもありましたか?」


 デスクの上のパソコンから目を外して、優しくこちらを見つめる朱雀に『葵の君』は、爆弾を落とした。


「いまのうちにわたくしと結婚しておきましょう!」

「え?!」

「そうすれば、もう本物の葵さんがいつ帰ってきても、こちらのモノです! 婚姻届はもらってきました! ほら! 言おうかどうか迷っていたのですけれど、この体の元の葵さんは、おつき合い自体を、結構、どうしたものか迷っていましたから!」

「えええっ?!」


 朱雀が使っていたキーボードの上には、カップごと紅茶が本人の手によってぶちまけられていた。


「“禍福かふくあざなえるなわごとし”! 幸福と不幸は変転する物だそうですから、この辛い状況の中、これは貴方あなたにもたらされるべき幸せへの第一歩、御仏の御導きです!」

「……そうでしょうか?」

「そうですよ!」


 なんだか詐欺じゃないかなと、朱雀は思ったが、葵の君は、自信たっぷりに請け合った。


 なにせ十歳で平然と結婚する平安時代から転生してきた彼女であった上に、どう見ても目の前の朱雀という人物は、元の体の持ち主の葵さんにとって正直言って、勿体なくも二度とこない良縁でしかない。


 なんというか、この『葵』という人物は、彼女から見て、あまりにも恋愛や結婚に対してボンヤリした人物であった。あとでまた入れ替わって、新しい状況に驚いたとしても、わたしからの恩返しになるだろう。


 話す機会があれば、お礼を言われてしかるべき行動である。健康な体に転生した葵の君は、考えも前のめり過ぎるほど、前向きになっていた。


「ハンコあります? 24時間受付だって聞いたのですけれど?」

「……君は、元々、しっかりしていたけれど、変なところまで、この世界に対応しているんだね」

「誉め言葉ですよね? さあ、役所に行きましょう!」

「……神道しんどう君には言ったの?」

「言いましたけど、彼女は結婚だけはしたくないので、できればわたしはこのままで……とか、言ってました。なにか大きなトラウマがあるそうで」

「そう……」


 それから表面上は弘子ひろこさんの長年の夢は叶い、戸籍上、なんの問題もなく夫婦になった朱雀と『葵の君』であったが、ご想像通り、春宮朱雀はるのみやすざくという立場上、地味婚という訳にはいかなかったので、『葵の君』は、『葵』のふりをして、結局、盛大な結婚式と披露宴を上げる羽目になったのであったが、その時、用意された何着ものお色直しのドレスや白無垢に色打掛、そしてその中に、十二単じゅうにひとえを久しぶりに目にして、ちょっと目がうるっとなったのを、勘違いした周囲は温かい目で見守っていた。




〈 それから数年後 〉



「段々、どっちがどっちだか、分からなくなってきたなぁ……」

「なにか言いました?」

「いや……気をつけてね」

「はーい、行ってきます!」


 数年後、大学を卒業した朱雀は、道着と袴を持って、自分のマンションから大学へ行こうとしている表向きは結婚相手で、内実は同居人の『葵の君』を見て、そんなことをポツリと呟いていた。


 結婚式からはじまって、縁を切ったはずの父親や弟と、なにかある度に、『葵の君』は、『葵』と同じように、それ以上に、彼を支えてくれていた。


 元の世界での彼女は、並ぶべく存在もいない摂関家のお姫様だったので、彼女の対応はかなり手厳しくて、弘子さんにも毎回大受けだった。


 すっかり現代社会に適応した精神年齢の高い、他にもなにかある度に、恩返しとばかりに彼を影に日向に応援している葵の君は、彼の思いも彼の言葉にも気がつかず、「OBになっても大学って、結構行くんですねー」そんなことを言いながら、部活の手伝いに50ccの赤いカブに乗って、プルプルと出掛けて行った。


 そして朱雀は、「まだ十歳前半なんだから……」そんな、どこかの中務卿なかつかさきょうのような独り言を呟いていた。


 葵の君の可愛らしいロココ調の、白と桜色でそろえられた部屋のベッドの横、サイドテーブルの上には、一通の封をされた手紙が置いてある。


東山葵ひがしやまあおいさまへ』


 きっと会うことはない、でも、またいつか入れ替わるかも知れない、誰よりも近しくて遠い『葵』に宛てた手紙。


 それからまた数年がたち、お互いに決して平坦ではない道のりを、手を取り合い助けあって、少しずつ関係を育みながら歩いていた二人は、納得がゆくまで話し合い、本当の意味での最愛の伴侶を手に入れる。


 葵と、葵の君の魂は、実のところ、“輪廻転生”を繰り返している同じ魂が、地殻変動のようなことになった同じ魂であったので、春宮朱雀はるのみやすざくと、朱雀すざくきみの千年を超えた恋は、ようやくいまここに結ばれる。


 朱雀と葵となった葵の君は、二人で新しいエンゲージリングとマリッジリングを買いに行ったその日の夜、まか不思議でとても生々しい夢を見た。


 元の『葵』が元の自分である『葵の君』となって、自分が元いた『源氏物語』の世界で、刀を手に大猿に立ち向かう夢だ。


「!!!!」


 葵の君は、その日の明け方、寝汗でびっしょりとなって飛び起きると、引き出しを開けて、朱雀が元の『葵』にプレゼントした指輪のセットが入った小箱を取り出して、蓋を開けて指輪を見つめる。刀には確かにこの指輪と同じ模様の飾りがあった。


 部屋を出て、さっき小さな帰った音がしたリビングをのぞくと、ジャケットを脱いでいる朱雀の姿。新しい指輪を買ったあと、彼は急な仕事が入って出かけることになり、結局、朝までかかって、いま帰ったようだ。


「おかえりなさい。おつかれさまです。あの、お願いがあるのですけれど……」

「なんでしょうか?」

「きっと元の『葵』さんのために、わたくしたちのできることだと思うんです……」

「…………」


 話を聞いた朱雀はしばらく黙っていたが、次の休日に彼女が手にしていた元の『葵』の指輪のセットを持って、現代では一番の名匠と呼ばれる刀匠の元を訪れると、葵の君が夢で見た刀を一振り製作してもらい、しかるべき神社に奉納した。葵の君が、葵に宛てて書いた手紙は、念入りに焚き上げてもらう。


 これが葵の君となった葵の手に入れた、中務卿なかつかさきょうが持ち帰った『御神刀こしんとう』であり、時を超えて彼に刀を託したのは、葵の君の手紙から生まれた精霊であった。


 ふたりで彼女の無事と幸せを、手を合わせて祈る。どこか遠くから『あの世の音』そう称される能管のうかんの笛の音が聞こえたような気がした。

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