第257話 入れ替わる光と影 12

「二条院に住むなんて、大丈夫なのかしら?」

「帝のお蔭で世間のうわさにのぼるような、鬼などは出なくなっていますが、結構、細々と色々な妖怪とか幽霊が出てるみたいです。みんなで文句を言いながら、成仏させているらしいですよ」

「そう……」


 葵の上は、猩緋しょうひから、父君の話を聞いた翌日の朝、左府さふが慌しく再び出仕したあと、紫苑とそんな会話をしつつ、父君のことをボンヤリ考えていた。自然に話は右から左に抜けてゆく。


「あ、光源氏は、昼間は乳母の家に、転がり込んでいるらしいですよ! で、夜はあちらこちらの姫君のところを、遊び回っているとか」

「そう……」

「この間なんて、人妻に振られて、負け惜しみに、ブスのくせに生意気とか、言ってたそうです。自分は六位のくせに」

「そう……」

「……光源氏って、カッコいいですよね」

「そう……えっ?!」

「あ、ちゃんと聞いていらしたんですね」

「びっくりさせないで!! 光源氏だけは駄目よ、顔だけなんだから!!」

「分かっております。あんなの姫君と比べれば、道端の石ころですわ! あと、昨日の猩緋しょうひの態度は、我慢なりませんでしたから、ちゃんとお仕置きをしておきました!!」

「……お仕置き?」


猩緋しょうひがわたしを扱いするのは、いつものことなのに……なにをしたんだろう?』


 遠くから、猩緋しょうひのわめく声が、聞こえたような気がしたが、気のせいかもしれないし、まあ、紫苑たちがする嫌がらせなんて、たかが知れていると思った彼女は、少し横になると言って、御几帳台の帳の中に入ると、地味にストレッチをしていた。


 が、腹を立てた紫苑や撫子なでしこたちが、昨夜、こっそりと猩緋しょうひにやったことは、彼が寝ている間に、彼の烏帽子えぼしをこっそり隠してしまうという、とんでもなく悪質な行為であった。


(※ちなみに烏帽子えぼしを被らずに外に出るということは、姫君が、御簾がめくれて、知らぬ人に顔を見られるくらい、葵の上的には、全裸で外に走り出すのと同じくらい、恥ずかし過ぎることだったと伝えられている。)


「こ、これをどうしたら?」

「しばらく家で預かっておいて!! あの男には、一度、摂関家の偉大さを、しっかりと分からせてやらなきゃ!!」

「はあ……」


 真っ赤な顔の夕顔は、布で包んだ烏帽子えぼしを隠し持ち、使いを装って家に帰りながら、「烏帽子えぼしで摂関家の立場が分かるのだろうか?」などと、しごく常識的なことを思い、紫苑が貸してくれた牛車の中で首を傾げていた。


 彼女は紫苑たちが、「烏帽子えぼしをなくしたって聞いたけど、本当かしら? 古すぎて付喪神にでもなって、家出したんじゃない?」「いままでの葵の上や、わたくしたちに対する酷い振る舞いを謝れば、新しい烏帽子えぼしを買ってきてあげなくもないわよね」そんな風に、彼の曹司の前で、聞こえよがしに話をしていることは、まったく知らなかった。


「一体なんの騒ぎだ?」


 その日は珍しく定時に帰ってきて、猩緋しょうひの曹司のあたりから聞こえる騒ぎを耳にした左府さふは、共に帰ってきた随人に、様子を見にやらせたが、さっぱり要領を得ない。


 家にいた他の奉公人に聞いても、彼らは、必要最低限以外は、猩緋しょうひにも関わらない勤務スタイルであったし、ましてや大宮や葵の上に仕える女房たちなどは、騒ぎに眉をひそめはしていたが、見たくもないし、関わりたくもないと、自分たちの主人の世話や用事に、せっせと勤しんでいた。


「ただいま帰りました。あの、なにかありましたか?」

「おかえりなさいませ。いえ、あの、なにやら寝殿の方が騒がし……」

「葵の上!! もう立てるようになられたか!!」


 あとで様子を見に行こうと思っていた左府さふは、数年ぶりに愛らしい細長を着て、ご自分で立っている葵の上の姿を見て、感動で胸が一杯になる。そして騒ぎは、どうせ猩緋しょうひと紫苑たちが、またなにか、つまらぬことで揉めているのだろうと放置した。


「ご無理はなりませんよ」

「大丈夫です。すぐにもっともっと、元気になりますわ」


 葵の上の笑顔に、左府さふも笑顔になっていた。猩緋しょうひ烏帽子えぼしの話が、彼に伝わったのは数日後のことで、騒ぎの日、猩緋しょうひは結局、紫苑たちに頭を下げるのが嫌で、みなが寝静まった頃、頭に手ぬぐいを被って、夜中に蔵まで歩いてゆき、左府さふが昔被っていた、古びた烏帽子えぼしを持ち出すと、翌朝、市場まで被ってゆき、仕方なしに新しい烏帽子えぼしを購入していた。


「先に蔵の烏帽子えぼしを処分しておけばよかった!!」

「……やはり隠したのは、お前らか……」

「し、知らないわよ! さ、早く仕事に行きましょう!」

「忙しい、忙しい!!」

「…………」


 騒ぎの原因を知った左府さふは、猩緋しょうひを呼ぶと、宇治の件はわたしの指示、家人が北の方に苦言を呈するのは、度が過ぎていると強くいさめたが、烏帽子えぼしの特殊な事情を、まったく知らなかった葵の上は、葵の上で、「家族以外の前で脱ぐと、外で全裸にしたのと一緒!!」そんな風に驚くと、紫苑たちにさすがにやり過ぎだと注意して、翌日、ほっとした顔の夕顔から、猩緋しょうひ烏帽子えぼしを受け取ると、新しい烏帽子えぼしの代金と一緒に返却していた。


 世の中の出来事とは、一見、関わりがないようで、その実、運命の糸という物は、複雑に絡み合っておりまして、左府さふのやかたには、そんな風に慌しくも平和な日は流れ、葵の上は、どんどん回復をしてゆく。


 薬師如来の具現とまでの評判の方であったので、京中の人々は、よかったよかった、これで益々、新しい帝の時代の先行きは明るいとうわさをして、みなは安堵をしていたが、先に紫苑の話に出ていた、不登校で不幸な光源氏も、当然、その話を聞きつけることとなり、その結果、事件は起こるべくして、起こるのでございました。



『小話/烏帽子えぼし


「その新しい烏帽子えぼしどうしたんですか?」


 そう“弐”に聞いたのは、“伍”だった。彼は蕎麦を買いに行った市場から帰ると、なぜか新しい烏帽子えぼしを被っている。


“弐”「最近の市場、景気がよくて、新しい店がどんどんできていて、この間、開店したのは知っていたんだけど、開店祝いで先着五名様で、安売りしてた。この貴族用の烏帽子えぼし、一個だけ残ってて!!」

“壱”「まあ、貴族は普通は、職人に直接頼むからな」

“弐”「それがさ、田舎でコツコツ作ってたらしいんだけど、思い切って市場に店を出したんだって、庶民用のはもう完売してた」

“参”「だろうな。モノがいい……」

“四”「そういえば、そんな店ができていたような……猩緋しょうひも見たような……」

“弐”「あのケチが買うわけないじゃん!」

“四”「まあそうか……」


 みなが新しい烏帽子えぼしを見ながら、わいわい言っている隙に、菓子を少しだけつまみ食いする花音ちゃんでした。

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