第220話 祓い 1 

 僧官そうかんや他の官僧たちは、外御簾の内側の人影に交じる女人が、従える女房の数と多さ、扱いの重さから尚侍ないしのかみではないかと感づいたのだ。


 関白が誰よりも大切に扱っている尚侍ないしのかみであれば、なんとか自分たちへの沙汰を、大事にせずに済ませて頂けられるのではと、一縷いちるの望みを抱き小声で話し合う。


僧官そうかん殿、我らが関与しておらぬあかしに、北山の大僧正だいそうじょうへの波羅夷はらいを!」

「し、しかし、あの方は帝の大層なお気に入り……」

僧官そうかん殿、そんなことを言っている場合ですか! 尚侍ないしのかみだけが、関白が唯一意見に耳を貸すお方ですぞ! 最初で最後の弁明の機会です!」

「帝が重く扱っていたとはいえ、それは過去のこと! 桐壷御息所きりつぼのみやすどころも亡くなり、ここまでの証拠が出ている以上、なにもおっしゃるまい! 僧官そうかん殿!!」


 出家した者にとっては最も重い、破門宣告といえる『波羅夷はらい』を北山の大僧正だいそうじょうへ出すように、僧官そうかんの横で、やはり伏していた官僧たちが、口々に彼に強くうながす。


 内裏に参内した折に、尚侍ないしのかみにお会いした時のことを、僧官そうかんは思い返してみる。まだまだ年若くも聡明で、うわさに違わぬ、ことのほか慈悲に溢れた優しいお人柄でいらっしゃった。


 もしいまここで北山の大僧正だいそうじょうへの『波羅夷はらい』を出して、尚侍ないしのかみから関白に、自分たちの関与の否定、もしくはいままでは手の出せぬ存在であったと納得していただいて、関白にそう申し上げていただければ、元通りとはゆかずとも平穏無事に残りの人生を、御仏に捧げて静かに暮らせるかもしれない……。


 元はといえば、御仏に仕えることが本分であるのにも関わらず、北山の大僧正だいそうじょうのような不埒な者たちが、俗世間に深く関り過ぎたのだ。


『もうお願いだから静かに平穏無事に暮らしたい! 自分の美しい寺に籠って、念仏三昧で穏やかに暮らしたい!』


 血筋のよさもさることながら、元々ことなかれ主義であるがゆえに、いまこの地位にある僧官そうかんは、自分の周囲の官僧たちの様々な問題は棚に上げて、大きく深呼吸をすると、御簾の向こうの影に向かって居住まいを正し、読経で鍛え上げた大きな声を、尚侍ないしのかみとおぼしき陰に向かって発した。


 そして葵の上は、御祖父君から聞いた『ここだけの話』の内容と、僧官そうかんの切々とした訴えに、こめかみに手をやってため息をつき、かなりウンザリしながら、女房に僧官そうかんに待つように、ことづけをすると、中務卿なかつかさきょうと一緒に関白のあとをついてゆき、寝殿にある関白の座す畳の向かいに、優雅に腰を落ち着けながら思う。


 まあね、官僧も大概だし、わたしも嫌いだけど、あの僧官そうかんっていう人みたいに、周囲に流されてるだけの人も多いよね……。貴族だって、実力本位主義の中務省なかつかさしょうや御祖父君怖さに一心不乱に頑張っている? 太政官の公卿はともかく、まだまだ酷いのも多い……あれもなんとかしなきゃいけない。


 官僧、母君、あと『源氏物語』の通り、いまも変わりのない横柄な貴族、葵の上は再びため息をついた。


 御祖父君の横にはなぜが東宮。いつも顔を会わせていたのに、どこか大人びて、いままでとは雰囲気が違う少年に、なぜか既視感を覚えた。どこかで会ったような気がする。


 しかしそう思った瞬間、鋭い痛みが頭の中を走り、その考えは葵の上の中からすぐに消えて、彼女は関白の話に集中した。


『うわぁ、絶対権力者(御祖父君)、めっちゃ嬉しそうな顔してる!! 嫌な予感しかしない!!』


 御祖父君は、それくらい生き生きとしていた。


『あと百年は生きるのではなかろうか?』


 中務卿なかつかさきょうは、そんならちもないことを思っていた。


「さきほど右大臣が、老いぼれの北山の大僧正だいそうじょうがきたと、慌ててやってきておってな、東宮と国家の安寧のために、尚侍ないしのかみとしてのそなたの力が必要なのだ」

「右大臣はさぞお困りでしょう……ご心配ですね。ですがわたしはご承知の通り……」


 母君のことで頭が一杯で、できることなどない……そう言いかけた葵の上に、関白はとんでもないことを言いだした。


「安心せよ、そなたにあった“御仏の御告げ”を伝えてやると、すっかり元気になって帰って行った」

「は? “御仏の御告げ”……?」


 関白は、不思議そうに首を傾げている、照り輝んばかりの愛くるしい孫娘に、機嫌よさげにほほえむと、鷹揚な態度で脇息にもたれかかりながら口を開いた。


「ではこれからわたしの『御仏の御告げ(“計略”)』を話そう……」

「そのような図りごとに、神聖な葵の上を利用することはなりませぬ!! ご自分の大切な孫娘を、政争に巻き込むおつもりか!!」

「そなた、帝が巻き起こしたこの国難を見捨てると申すのか? この二年、天運に恵まれて豊作が続いたとはいえ、まだまだ先は暗く危うい。帝がすべての儀式を放棄している以上、葵の上がもたらしている“御仏の御加護”にも限界があろうが! それが国家を支える公卿くぎょうの態度か!! 東宮の方が余程物事を分かっておられるぞ?」


「……と、とりあえず、とりあえず、御祖父君のお話をうかがいましょう! えっと、もしかしたら、わたくしの見た“夢見”と、関係があるかもしれませんから!」


 葵の上は、とりあえずその場を収めようと、そんなことを口走る。


 押し寄せる災い、揉める目の前の祖父と中務卿なかつかさきょう、こんな状況でも目眩めまいのひとつもしやしない、自分の『瀬戸大橋を吊る橋梁用ケーブル』のように頑丈な神経に、半分ヤケになりながら、葵の上は中務卿なかつかさきょうを、なんとかなだめて、その怖い予感しかしない『御仏の御告げ(“計略”)』とやらを聞くことにした。


 この分だと東宮も承知だろう。そしてそれが彼をここまで大人びさせたことの理由に違いないと感じる。


 右大臣からの報を受けて、関白が今日決行を決めた『御仏の御告げ(“計略”)』の大体の話を聞きながら、葵の上は、いつぞやの女童めわら連続殺人事件を思い出した。


 今回は物理的な命の危険はなさそうではあるが、自分には一番よく分からなくて、この世界の人々が重視する『祟り』に関わる話に、“六”は元気にしているのだろうかと、彼のことを思い出していると、不意に一陣の風が吹き込んで、彼が御簾の外、孫庇のあたりに姿を現して驚いた。


 それから一刻もたった頃であろうか? 葵の上は、関白の言うところの『御仏の御告げ(“計略”)』を心の中で暗唱しつつ、『いつか御祖父君には、本当に天罰が下るんじゃなかろうか?』そんな心配をしながら、中務卿なかつかさきょうと共に右大臣家に向かって出発しようとするが、不思議なほど静かに、ことの成り行きを見守っていた東宮に、不意に呼び止められる。


「少しふたりだけで、話ができますか?」

「……分かりました」


 葵の上は今更ながらに反省をする。いまから行うことは、いくら国のためとはいえ、東宮を担ぎだして、彼の実の父親である帝を陥れることなのだ。


 それを分かっている中務卿なかつかさきょうと関白は、なにも言わずにその場を下がる。しばらくの気まずい沈黙の中で、葵の上は、元の彼の人生をうっすらと思い出していた。


 この人も、かつて自分がすれ違った本物の“葵の君”も、『源氏物語』という絵物語という舞台の中で、光源氏が輝きを増すためだけに用意された、運命の女神のお粗末な『道具立て』でしかなかったことを。

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